第21話
サーシャの説明に色々と疑問に感じることはあるものの、これ以上は話が進まないと判断したクロエは全ての疑問をいったん飲み込んだ。不思議そうにサーシャを見つめるにとどめる。
サーシャはクロエの視線を受けニコニコと笑っていたが、不意にサラの方へ向き直り口を開いた。
「ねぇ、サラちゃん。お母さんちょっとクロエちゃんと二人っきりで話がしたいわ。ミーナもサラちゃんに会いたがっていたし、少し席を外してくれないかしら?」
サーシャの言葉に、サラは不審そうに眉をひそめた。しかし、文句を言う前に何かを察したようで、サラはスッと立ち上がると肩をすくめた。
「それは、大長老としての命ですの?」
「あら? そんな堅苦しい物じゃないわ。お母さんの小さなワガママよ。」
「……ま、そう言う事にしておきますわ。私もミーナには会いたかったですし。」
サラはそう言うと改めてクロエの方へ向き直った。
「それでは、少しだけ失礼しますわ。何かされそうになったら、大きな声で助けを呼んでくださいね?」
「酷いわサラちゃん……。お母さん泣いちゃいそう、くすん……。」
あからさまなウソ泣きを見せるサーシャの様子に、再び肩をすくめたサラはそのまま一礼すると扉を開き部屋を後にした。
「あらあら……。それじゃあ、あっちのソファーに座りましょうか。」
サーシャに促され、クロエは部屋の端に置いてあるソファーに腰かけた。木と繊維で編まれたもののようだが、クロエはその気持ちよさに少し顔をほころばせる。
ソファーに座ったクロエに対し、サーシャは一度部屋の中央にある机へと向かうと、その引き出しから一枚の紙きれを手に取った。そして同じくソファーへと向かいクロエの対面へと腰かける。
「……さて。今この部屋には私たちしかいません。少し、真剣な話をしましょうか。」
サーシャがポツリと漏らしたその言葉は、先ほどまでのどこかふわふわとした印象とはかけ離れたものだった。まるで矢じりのようにその言葉は鋭い。聞く者に畏怖を覚えさせる重みがある。クロエの肝が冷えた。これが森精族という一つの種族をまとめる存在なのかと、まざまざと感じざるを得ない。
口を挟むことなどできないクロエを他所に、サーシャは言葉を続けてきた。
「私は、この国を、森精族を守護する責を負う大長老です。この地位の重み、あなたに分かる事はないだろうと思います。私は、この国に降りかかる火の粉を払わねばなりません。その手段として、非情な選択も辞さない覚悟です。分かりますか? いくら愛する娘が保護した存在とは言え、いくらその見た目が少女のそれとは言え、私は全てを疑わねばならないのです。」
きっぱりと述べられたその言葉は、一国の長としての責任を滲ませる重い物だった。一般市民であったクロエにとって、この言葉は初めて感じる権力者の、力ある者の言葉だった。その迫力に気圧され、ただ黙って唾を飲み込むことしかできない。
サーシャは手にしていた紙を、両者の間にあるテーブルの上へと置いた。クロエの視線がそれに注がれる。
何の変哲もない紙である。文字が記されているが、無論それは日本語ではない。しかしクロエはその文字を読むことができた。それはこれまでの経験と同じである。クロエ自身ももはやその事に気を取られはしなかった。
「し、『真実の誓約』……?」
気になったのはそこに記された文字の内容だった。紙の上部にただそれだけが記されており、中央部には直線が横に走っている。
サーシャはクロエの反応に対し一切の反応を見せず、テーブルの端に置かれた羽ペンをクロエの前まで滑らせた。無言の内に「ペンを取れ」という事なのだろう。そう解釈したクロエは暗黙の裡にペンを右手に握った。
「……そちらの、線の上に名前を書いてください。」
「えっ、な、何でですか……?」
一切の説明もなく、ただ名前を書けとサーシャはクロエに迫った。怪しいことこの上ない。これが例えば現代日本であったとしたら、なんとお粗末な詐欺であろうと鼻で笑うかもしれない。もう少しあの手この手でサインを求めること位はどんな悪人でも考えるだろう。
しかし、サーシャは一切言葉を発さなかった。ただただ無言でクロエを見つめるだけである。クロエは考えた。この紙は何なのか、何故名前を書かねばならないのか。馬鹿馬鹿しいと要求を跳ねのける考えも頭をよぎったが、その考えを実行に移す前にクロエは自らに待ったをかける。
「(さっき、大長老様は『全てを疑わねばならない』って言ってた……。つまり、ボクの事も疑ってるんだ。じゃあ例えば、この紙が何であれボクが名前を書くのを断ったら? そんなの、怪しすぎる! やましいことがあるって思われても仕方ないよ! という事は、何が起きるか怖いけど、名前を書くしかないんだよね……。)」
クロエは手にしたペンを紙の上に走らせた。線の上に片仮名で「クロエ」と記入する。転生前の名前を記すことも考えたが、先程の自己紹介の時もそうであったように、自らの事を何故か「クロエ」と認識しているのである。
サーシャはクロエが文字を記し終わったのを確認すると、紙を再び手に取りそこに記された文字をしげしげと眺めた。そしてポツリと言葉を漏らす。
「……なるほど、見た事もない文字ですがそこに記された内容を直感的に判断できる。転生者で間違いないようですね。」
「えっ?」
「こちらの話です、お気になさらず。……さて。」
サーシャは紙をテーブルの上へ戻すと、右手を紙の上に添えた。そしてポツポツとクロエが聞き取れないぐらいの小さな声で何かを呟く。
すると、突如として紙が淡く発光した。先ほど紙に名前を書いた際も、クロエはその紙に何かしらの違和感は覚えなかった。だというのに、今目の前でその紙は不思議に発光している。サインをしたのは尚早だったかと、クロエは目に見えて焦った。
紙の謎の発光はすぐに収まった。サーシャは紙を手に取ると懐へ仕舞う。クロエはそれをただ眺めるしかなかった。
「今、あなたが名前を書いた紙は『真実の誓約』と呼ばれる魔法の道具です。この紙に名前を書いた存在は契約に縛られ、この紙を破り捨てぬ限り一切の虚偽が認められません。もし契約に背き何かしらの偽装を施そうものなら、呪いがあなたの心臓を貫くでしょう。」
サーシャの言葉に、クロエはまるで鉛を口から流し込まれたかのように臓腑の底が重くなったような心持となった。一言で言えば「やっちまった」と言う心境である。名前を書くしかなかったとはいえ、一切の嘘がつけなくなってしまったのだ。元より嘘を吐くつもりはなかったとは言え、そのプレッシャーは計り知れない。
「(あああ……!! どうしよ!? 待って待って待って、どうすればいいの!? いや、大長老様の言葉が本当とは限らないし、気にしなくても……。いや、忘れたのか? ここは異世界なんだぞ! ボクの知識なんて役に立たないし、常識なんて通じる訳がない! 魔法がある世界なんだ、呪いだってあってもおかしくない。つまり、どちらにせよ、嘘はもうつけないって事だ……。)」
クロエはキュッと口を引き締めた。覚悟を決めたらしい。ぎゅっと両手を握りしめるその様子は、傍から見ても緊張していることがありありと伺える。
「では、転生者であるクロエ。あなたがこの世界へと転生し、この国へたどり着くまでの経緯をできるだけ正確に述べなさい。虚偽や装飾は求めません。ありのままの事実を述べなさい。」
サーシャがクロエに求めたのは、クロエのこれまでの経緯だった。クロエは内心少しだけ安堵する。その事についてはもとより嘘を吐くことなど考えてはいなかったのである。
しかし、一つだけ懸念することがあった。
「(ボクのロール『魔王』の事は、話しちゃっていいのかな……。サラさんは気にしていた様子はなかったけど、あんまりいい意味の言葉じゃないし……。でも、どうせ嘘は付けないんだ。だったら開き直って、全部話しちゃえばいい。)」
「実は……」
クロエが口を開く。そして、ポツリポツリと、思い出せる範囲でこれまでの経緯をサーシャへ明かしていくのだった。