第17話
クロエがとうとう意を決し、女性へと尋ねた。クロエは顔を伏せたままである。それは、女性の事を信じたい気持ちと、生じた違和感を決して無視できない猜疑心のせめぎ合いの表れであった。
しかし、問われた当の女性は一瞬ポカンとした表情を浮かべたが、すぐにクロエがどうして疑っているのかを理解した。女性がクロエの名前を知っているのはとある事情からなのだが、それをクロエは知らない。これまでの非日常的な事態の連続で自己紹介すら忘れていた己の注意力の無さを反省した。
「……確かに、疑われても仕方ありませんわね。ごめんなさい、決して意図して黙っていたわけではありませんの。ただ、今までドタバタしていたものですからつい忘れてしまって……。本当、申し訳ないですわ。」
女性はそう言うと、座った状態で頭を下げた。顔を上げて見たその反応に、クロエの心から大半の疑いが抜け落ちる。女性は顔を上げると、自らのカップの中身を一口含み、口を潤した。
「私の名前はサラ。サラ・エルゼアリスですわ。サラと呼んでくださいまし。この隠れ里・シドラに住む森精族と呼ばれる種族ですわ。郷の外で山菜などを取ることを生業としていまして、今日もその仕事の最中にトライウルフたちに襲われていたクロエさんを見つけましたの。」
「そう、だったんですか……。その件は、本当にありがとうございました。」
クロエがぺこりと頭を下げる。何となく目の前の女性、サラに命を助けられたのではないかと考えていたクロエだったが、その予想は的中していた。
頭をさげられたサラは驚いたように謙遜する。少し困り顔だ。
「いえいえ、偶然でしたもの。でも、クロエさんが無事でよかったですわ。それで、トライウルフたちを追い払った後に、怪我をしていたクロエさんを保護。私のうちまで運びましたの。これが、今までの経緯ですわ。それで、何故私がクロエさんの名前を知っているか、ですわね。」
サラはおもむろに立ち上がると、部屋の隅へと歩いて行った。クロエは座ったまま首を回し、サラを視線で追った。サラは部屋の隅に到達すると、そこにあった箪笥、その上に置いてあった紙を手に取った。
「クロエさんをこのうちへ連れてきたとき、クロエさんは体中傷だらけでしたの。たぶん、森の中を一心不乱に走ったからでしょうね。そのせいで身体のみならず着ていた服もボロボロになってましたわ。それで、無断で申し訳なかったのですが、服を脱がせてしまいましたの。」
サラがクロエに背を向けて語った。それはサラ自身、今にして思えば後ろめたい行為だったようで、その背中は少し小さく見える。
「(あぁ、だからボク服着てなかったんだ。ま、まぁ……、今のボクは女だし、サラさんも女だから問題はない、かな……?)」
しかし当のクロエはそこまで気にしていなかったようだ。この世界に来る前も、男同士であれば裸を見られても特に問題はないと考えていたクロエである。性別が変わっても同性なら問題はないと考えた。
「それに関しては、緊急事態でしたし、別に気にしてませんよ?」
「ほ、ほんとですの? 良かったですわ……。」
恐る恐る振り返ったサラが、安心したように大きく息を吐いて表情を崩した。そしてそのまま箪笥の上にあった紙を手に持ち、再び椅子へと戻る。
「えっと、何でしたっけ……? あぁ、クロエさんの名前を知ってる理由でしたわね。実は、クロエさんの着ていた服が珍しかったものでしたのでつい見ていたのですけど、その服からあるものが出てきましたの。」
サラが椅子に座り直した。話を聞いていたクロエの視線は、サラの持つ紙に集中する。その紙は見る限り、クロエがよく見たコピー用紙の類ではないようだ。少し古びたような印象を受ける紙だ。
「その……、話の流れから察するに、その紙? が入っていたんですか?」
「ええ、その通りですわ。どうぞ、『【魔力念話】より手紙』と言いますし、見てもらう方が早いですわ。」
サラはクロエへ、手にしていた紙を差し出して来た。クロエはそれを受けとる。手にした感触はやはりコピー用紙のようなツルツルした物ではなく、どちらかというと和紙のような天然繊維に近い。
「(って言うか、さっきの『【魔力念話】より手紙』って何だ? 『百聞は一見に如かず』みたいな諺なのかな。いや、それよりも……。)」
取り留めもないことに気を取られかけながら、クロエは二つ折りの紙を開きその内側へ視線を落とした。
そこには、クロエが今まで見た事もない文字のような物が記されていた。漢字、アルファベット、アラビア、ハングル。思いつく限りの文字を思い浮かべてみるも、そのどれにも当てはまらない。
しかし、クロエにはその文字の意味が自然と理解できた。まるで母国語を眺めるかのように、文字の一つ一つを意識せずとも文章が理解できる。それだけでも十二分に驚くべきことであるのだが、クロエはその事に驚けずにいた。
なぜなら、そこに書かれていた文章があまりに衝撃的すぎたからだ。何の気なしに目で追い始めたその文章に、今は目が離せないでいる。そこに記されていた内容とは――
『クロエ さんへ
この度はイグナシアラントへの転生おめでとうございます。私を始めとする私たちの偉大なる主に間違いはありませんが、いかがお過ごしでしょうか。
さて、この手紙を読んでいる現在、おそらくご自身の身体について混乱なさっている事でしょう。転生の際は生前の身体に可能な限り近い肉体を用意するのが常ではありますが、クロエさんの場合は何故か魂が肉体にうまく定着いたしませんでした。原因は判明しませんでしたが、おそらく私を始めとする私たちの偉大なる主の与えたもうた魔王というロールが関わっている可能性があります。
そこで、誠に勝手ではありますが、私を始めとする私たちの方で魂の定着する新たな肉体をご用意いたしました。魔族を基礎として作られた肉体です。なるべく人類種に外見を似せるようにいたしましたが、一部異なる点が残りましたのでご注意ください。寿命や身体能力は人類種より高めであるはずですが、詳しくは不明です。あしからずご了承を。
それでは、第二の人生をお楽しみください。』
手紙を持つクロエの手がプルプルと振るえる。クロエは、許されるならこの紙をこのまま破り捨てたいと言う衝動に駆られた。しかし、いくら何でもそんな衝動に身を任せる程クロエの精神は未熟ではなかった。ぐっと怒りに近い感情を堪え、そして恐る恐る顔を上げた。
「(そうだ。そんな事よりも、問題はこの紙をはじめに見つけたのはサラさんなんだ。と、言う事は――)」
「――あっ、あの、その……。こ、この文章を、読んじゃったんですか……?」
「……はい。申し訳ありませんわ。盗み見するつもりはなかったのですけど、つい目に入ってしまいまして。そこに書いてあるのは、今はもう使われていない、文献にしか残されていない文字ですの。私もある文献で知り、読み方を教わっただけですわ。それで、そこに書いてあった名前からクロエさんの名前を知りましたの。」
サラの言葉にクロエは顔を青ざめさせた。クロエの手元の紙には、明らかに知られてはマズかろうことが書かれている。仮にその内容を本気で受け取られなくとも、正気ではないと判断されても仕方ないだろう。
「あっ、あのですね! その、えっと、な、何か訳の分からないことが書かれてたと思うんですけど、ここに書いてある事は全部嘘なんですよ! いやぁ、困っちゃいます! 実はボク、近くの国に住んでるんですけど、ボクの友達が妄想癖がある奴で……。」
クロエは何とか取り繕おうと、口から出まかせに嘘を並べた。自分で言っていておかしいとは分かってはいたが、それでも何か言わずにいられないのは小心者の性ゆえだろうか。
「――ではクロエさん。クロエさんの住んでいた国は、なんという名前ですの?」