第16話
女性が心配そうな声を上げた。クロエが先ほどまで動かしていた手を、突然止めてしまったのだ。顔をうつむかせ、無言になってしまっている。ふと、女性の耳にとある音が聞こえてきた。女性は耳を澄ませる。
「……グスッ、ヒック……、うぅ……。」
それは、泣き声だった。立ち上がり、クロエの側に近づいた女性がうつむいたクロエの顔を覗き込むと、確かに泣いているのはクロエだったのだ。両目の端から涙がこぼれ、太ももの上に落ちる。クロエ自身、自分が泣いていることに初めは気が付かなったようで、慌ててスプーンを握る右手で目を拭った。
「あれ、な、何で……? あっ、あの、違うんです……。別に不味いとか、その、お姉さんが怖いとかじゃなくて……!」
突如流れた涙の理由も分からず、クロエの頭は混乱に満たされた。本当に突然の出来事であった。クロエの記憶にある限り、人前であろうとなかろうと、このように泣くことなど初めての経験である。どうすればいいのか分からず、どうする事も出来ず、ただただ流れる涙をぬぐう事しかできない。
その時、横でクロエを見つめていた女性が、そっと優しくクロエを抱きしめた。突然の事にクロエの嗚咽が一旦止まる。女性は両手でクロエの身体と頭を抱きしめると、赤子をあやすように優しく語り掛けるのだった。
「大丈夫ですわ、大丈夫。安心してください。クロエさんが誰であろうと、私が味方ですわ。」
「――ッ!! あ、ごめ……、ぅ、あ、うぁああ……!」
女性の言葉が、まるで陽だまりのようにクロエの心を温める。クロエは、まるで箍が外れたように、大きな声を上げて泣き出した。自らを抱きしめるサラに抱き着き、肩に顔を埋め、赤子のように泣いた。この世界に送られて味わった孤独、命の危機、痛み。クロエの精神は、意識無意識関係なく苛まれていたのだった。
クロエは泣いた。無防備に、無様に、心の底から泣いた。感情を露わにして泣いた。それは見た目通りの少女が上げるには、上品さに欠いた号哭だった。しかし、だからこそ。だからこそ、その涙が心の底から溶け出し溢れた感情の塊であることがよく分かる。
クロエの涙を受け止める女性は、ひたすらに優しくクロエを受け止めていた。その間、一切の言葉を発さず、しかし小さく震える少女の身体を強く優しく抱きしめている。そしてその心の中では、少女の味わったであろう孤独を想像し、自らがこの娘を守らねばと固く決意していた。
クロエの涙が治まったのは、料理がすっかり冷めた頃だった。泣きつかれたクロエは、時折しゃくりを上げている。何度か鼻をすすり、そして鳴き声に枯れかけた声を上げる。
「……もう、大丈夫、です……。」
「そうですの。……本当に?」
「はい。……ご迷惑、おかけしました。」
女性がクロエを放した。クロエは女性から離れると、やや乱暴に目元を拭う。女性が立ち上がり、部屋の隅に置かれた棚からタオルを取り出した。そしてそのタオルで優しくクロエの顔を拭う。
「いけませんわ。可愛い顔に傷がついちゃいますわよ?」
「べ、べつに可愛くなんか……。」
「いーえ、クロエさんは可愛いですわ! さ、綺麗になりましたわ。椅子に座って待っててください。温かい飲み物を用意しますわ。ね?」
有無を言わせぬ迫力を滲ませながら女性はクロエの顔を優しく拭い終えると、立ち上がり机の上の器をさげた。クロエは食事の途中であったが、器の中にはほとんど料理は残っていない。クロエがどれだけ食べるのに夢中であったかがよく分かる。
クロエは改めて椅子に座り直した。一息つく。そして、今更ながら先ほどまでの自分の様子を思い返すのだった。
「(……う、うわぁあああっ!? は、恥ずかしいっ! 突然泣き出して、しかも抱き着いて泣いちゃったよ! あああ、やっちゃったぁ……。)」
泣いていたせいで元々目元と鼻頭が赤くなっていたクロエだったが、今度はそれに加えて頬までもが赤くなる。しかし、女性はそんなクロエを茶化すことなく受け入れ、今は温かい飲み物まで用意をしてくれていた。クロエはそんな女性の事を初対面ながら、かなり信用していた。
「(ほんと、優しい人……? エルフ? だな。運が悪いかと思ったけど、意外とツイてたのかも。うん、本当にこの……。あれ?)」
クロエはとある事実に気が付いた。こうして自らの世話を焼いてくれている彼女だが、クロエは彼女の名前すら知らないのだ。森で狼たちに追われ気絶し、そして目覚め女性にお世話になっている。ここまでの間、女性と自己紹介すらしていないのだ。
「(……待って。ボクとあの人はまだ自己紹介してない。なのに、何であの人はボクの名前を知ってるの? さっきから何回も、あの人はボクの名前を呼んでたよね……。どこかでボクの名前を知った? いや、身元証明のものとかは持ってなかったはず。なのに、どうして……?)」
クロエが考え込んでいたその時、「コトリ」と音が鳴った。顔を上げるとそこには、湯気の立った陶器のカップが置かれている。女性が置いたものである様だ。女性もクロエの対面に座り、同じくカップを持っている。
「どうぞ。少し熱いかもしれませんので、気を付けてくださいな。」
女性が微笑みながら促した。クロエは何も考えずカップを手に取ろうとする。しかし、手を伸ばしかけたところでその手は止まった。クロエはそのまま腕を体の前に戻し、握りしめた右手を左手で包む。
女性がクロエの様子を訝し気にうかがう。自分が差し出したカップに手を着けようとしていた相手が、その手を突然引いたのだから当然だろう。
「どうしたんですの、クロエさん? 何か、気に障るようなことでも……。」
「あっ、あの……! お、お姉さんは、どうしてボクの名前を知っているんですか……? ボクたち、まだ自己紹介とかしてないですよね? なのに、どうして……。」