10.この色を刻みます
時は進んで6月中旬。雨続きの日々の中にぽっかり空いた台風の目のような日。
先月の初夏を思わせる、晴れの昼間。日曜日。
「それなーに?」
病院の外の庭で待つ樹里の元にいつの間にか近付いてきた小さな少年が車椅子の乗っかるようにして覗き込む。眩い陽の光を受けて輝いているそれを食い入るように見つめる円らな瞳もまた、キラキラと輝いていて自然と笑みが浮かんだ。
目を細めた樹里は教えてあげた。そっと囁くようにして。
「今から届けに行くのよ」
「じゃあおてがみ?」
「そう。大切な人に」
「おねえちゃんのすきなひとー?」
「……素敵な人よ」
ぼくもいるよ!なんて言っている、この子はなかなかおませさんね、なんて思っていた。そのとき。
「あっ、こら!駄目じゃない」
パタパタと小走りでやってくる婦人の姿を捉えた。苦笑いを浮かべてごめんなさいね、と言ってくる彼女に樹里はかぶりを振る。
やがて始まったすぐ側の会話に聞き入った。
「本当に生意気な子。こんな綺麗なお姉さんを口説くなんて10年早いわよ」
「えぇ~、ぼくのすきな子はようちえんのりおんちゃんだよ!」
「はいはい」
ふふ、と思わずこぼしてしまう。最近の親子はこんな会話をするんだ…なんて、自身には覚えのない感覚を物珍しくさえ感じていた。
「じゃあお姉ちゃんにバイバイしようね、玲くん」
「………」
「ばいばい、おねえちゃん」
「……バイバイ」
ちょっと強めに手を引かれて車椅子から離れた。いくらか遠く離れたところで振り返ったその子が声を張り上げた。
「おねえちゃん、なまえはー?」
聞いてきた。再び目を細めると滲んでくる…これは眩しさのせいかしら。
「樹里よ」
「また会える?ジュリおねえちゃん」
「ええ、きっと」
まだ上手くは動かない、唇で紡いでみると滲んでくる。染みてくる。これって一体…
「また会いましょう。玲…くん」
一体、何かしら、ね。
やれやれとでも言わんばかりの苦笑で会釈をする母親に手を引かれて、小さなプレイボーイ・玲くんは去っていった。湿気に満たされ蒸したような新緑の匂いを感じながら、樹里は改めて手元のものを包み込んだ。
柔らかく、そして強く。
きゅっ、と鳴るくらいに。
「待たせちまって悪い、磐座」
やがてまた一人小走りでやってきた。買ってきたペットボトル二本を車椅子の背に納めた葛城はまだ慣れないからなのか、少々心配そうな面持ちだ。
「タクシーで行くか?」
「我儘…言っていいですか?」
「何だ」
「歩いて連れていってほしい…です」
「ああ、いいぞ」
幸い目的の場所までの道のりは割と平坦なものだと言える。葛城の家系は全体的に若いと知っている。
介護や看病の経験も皆無に等しいが故に、やたらと緊張している彼にとっても決して難易度は高くないと考えてのことだった。
前から思ってたんだけどさ…
道のりの途中で口にした、彼の口調は思った通り和らいでいった。
「お前の我儘って大したことないよな」
ほら、もうこんな強がりをものにしている。私がどれ程我儘か知っているはずなのに。振り回されて、傷付けられて、別人みたいに変わってしまったこともあるというのに今じゃこうして笑ってくれる。やっぱり本当は…優しい人ね。
「ほら、着いたぞ。見えるか?磐座」
「はい」
「紫陽花の花がいっぱいだ」
「…凄く綺麗です」
緩やかに足を止めた彼は咲き誇る梅雨の花の名を口にしながらも天を仰ぐ。高みから見下ろしているそれに見入っているのはやっぱり…
「カシワの木…か」
それを言いたがるのは、やっぱり…?
なぁ、磐座…
何だかやけにそわそわしている。円らな瞳の視線はこちらとあちらを行ったり来たり。
“それ”って、さ…
落ち着きなく忙しく、彷徨わせている彼が聞こうとすると
「内緒ですよ」
樹里はそっと唇に宛てがった。つい最近目にしてものにした仕草。静寂と沈黙を命じる人差し指で示して微笑んだ。
「あっ、安心しろ。見てねぇから」
「…信じてますよ」
「やるぞ」
「はい、お願いします」
そう、これもつい最近ものにした。限りなく大人に近い姿勢。受け止める気持ち。あの三枝さんから学んだものだ。
思いのほか強く鮮やかに照りつける陽気に汗水流してここまで連れてきてくれた。そして今また一仕事に取り組もうとしてくれている。私の為に。
ねぇ、葛城君。私はやっぱり我儘よ。
あなたの気持ちを知りながらこんなことを願った私は…
そんな風に自身の省みる、樹里は再び手元に力を込める。危なっかしい足取り、危なっかしい手つき、そして危なっかしい視線。今までの行いから見えた一面からしても疑って然るべきと言えるかも知れない。だけど。
心に想いを馳せて、心の目で見てみたら、今誰よりも信じられる人だと思えた。だってあなたは
ーーこれからも磐座を宜しくお願いしますーー
ーー『・・・・・』ーー
度々口にしたがるあの名称が答えなのだろうと気付いた。きっとこの世界でこの痛みを知っている唯一の人なんだ、と。
だからこそ深く深くへ沈めてくれる。そして届ける力になってくれると思ったの……ね、我儘でしょう?
「磐座、貸して」
「はい」
差し伸べる手も汗ばんだ微笑みもうんと優しい。だけど今はまだ及ばないと知っています。そしていずれはそうなっていってほしいと願っています。
ーーいいえ。
名残惜しいそれを手渡した。空の両手をそっと握り締める樹里は天を仰いだ。一人、思った。
ーー蒼。
疾風の……優しさ。
きっと誰も届きはしない。超えられはしない。唇で紡ぐ響きこそ無くしても、確かに残っている。この胸に、奥に刻まれている響きを
ーー優しい人ーー
抱き締めながら彼方へ送る想いで願った。
どんなに遠くても
どんなに時間がかかっても。
繋がり続けている限り、届くと信じています。
どうか受け止めて下さい。そしてまた…触れさせて。
ーー樹里ーー
だって今もなおこの奥深くへ届いているから。優しい響きが鳴り続けているから。
青い瞳、蒼い空。大事に大事に焼き付けます。抱き続けます。刻が来るまで。
だから、ね。
大好きな色。きっとあの花をくれた、蒼のあなたはどうか輝いていて。
『・・』
ーー繋がっていてーー




