6.それはあなたのものよ
ーー雨が降りそう。
そんな予感を虚ろな視界で確かめてる。すぐ横を流れ行く、くすんだ雲の色から…感じてる。
傍にはあなたの気配。軋みそうな程に強く操縦桿を握るその骨ばった大きな手も、前を見据える奥まった青の瞳も、深く険しい眉間の皺も。
もう少しだ、もう少しで着くからな。
ジュリ。なぁ、ジュリ?
……心配するな。
「必ず叶えてやるからな」
獣の名残りを感じさせる硬く逆立った髪も、低い声色も、こんな哀しげな響きでさえ……大好きよ。
これで全て揃った。揃ってしまった。私は全部思い出した。一体どうなってしまうのだろう、なんて恐れたそのときをついに迎えてしまったのだ。
ナツメが寄り添ってくれた研究室内で私はとうとう奥深くに沈めていた“鍵”に触れた。そこから開けるのはあっという間で。
開いた扉の先に見えたのは息を飲むような幻想?夢?
ううん。
決してそんなものではなかった。
決して美しいなどとは言えない。むしろ恐ろしい。身の毛がよだつくらいに恐ろしい、かつての現実の光景だった。目を覆いたくなるくらい。
ーーいや…いやぁ…!ーー
あまりに無残で
ーー私の子を……やめてぇ!!ーー
血生臭い。
何にも変え難かった、宝物だった我が子を目の前で亡くした。共に歩み始めたばかりの伴侶も、可愛がってくれた年長者たちも、肩寄せ合って笑って過ごした仲間たちも…みんな。あのおぞましい獣の群れに襲われてしまったのだ。
ーーあなたは生きてーー
誰かが言った。最後に受け止めたその声だけを忘れまいと抱き締めて、断腸の思いで茂みの奥へと無我夢中で走った。
このとき私は初めて【孤独】を知った。
数多の犠牲によって生かされたこの命。だけどもう行く宛もなくて、きっと何日も何日も独りで彷徨い続けた私は、ついに荒野の果てで力尽きた。
今でもはっきりと思い出せる、身も水分も枯れ果てた感覚。妖力も使い果たした私の幽体はきっと骨と皮ばかりの無惨な子どもの亡骸そのものだったに違いない。
気が付くとそこにもう幽体は無くて、魂だけで空虚を彷徨っていた。何日も何日も、いや、何年も。どれだけ歩いてみたって、先に逝った我が子も仲間の姿も見つからなかった。
私はこのまま独りなの?
永遠、に…?
耐えられない恐怖に震えていた。それでも導かれるように、吸い寄せられるように、ふらふらと進んで行った先で捉えた。覚えのある獣の気配に総毛立って立ちすくんだ。
見つめる空虚の先で丸まっている。一匹の。
ーー狼。
忌まわしき仇。
私から全てを奪った…
よくも…よくも……!!ーー
ありったけの憎悪で見下ろし睨む、身体でいうところの双眼から実体でいうところの涙が溢れた。とめどなく。
そんなだった、なのに。それなのに。
私は気付いてしまったのだ。
自分と同じように痩せこけて震えている。自分と同じように絶えず涙をこぼしている……彼は。独りっきりで。
そこから徐々に解けていった。恐怖も、憎悪も、儚い霧と化していくようで。
ーーあなたも…?狼さんーー
もう怖くなかった。憎くはなかった。
この獣は違う。いや…この波長は私に近い。もしかして来世は、人?
ーーいや、まさか。
私たちは…同じ、なの?
そして触れたが最後、想いは加速する。疾風。むしろ、光速と称してもいいくらいの速さで。
ーー大丈夫。もう、大丈夫よ。
傍に居るわ。離れないわーー
すうっと自然に息づいていく感覚があまりにも心地が良くて、溶け込むが如くこの身を沈めた。あなたの懐へ。何だか安心して、とろんと微睡んで、長い空虚の旅よりもそこからの方がずっと長かったような気がする。
そして短かったような気もする。光のように。
それぞれの道が見えた。それはまるで真逆だった。私はそのとき聞いたのだ。
すっかり人の波長を得たかつての獣の最後の遠吠え。あまりに哀しい響きは他の何処でもない、こちらに向かっていると知った。そこで私は一つ、願いを込めた。
ううん。
“送った”の。
前世の私……人型ケット・シーの私が生涯を共にしてきた大切な“響き”。
これをあなたにあげるわ。持って行って。そして覚えていて。
生まれたその先でそれぞれ幽体と肉体として生きる私たち。アストラルでもフィジカルでもない、この場の記憶なんてきっと残りはしないだろう。それでも。
魂は繋がっているって、一緒に居るって。独りじゃないって覚えていてもらう為に。同じ試練『孤独』に負けずに行きていけるように、私は今…送るから。
生まれた場所できっと、誰かがあなたに渡してくれるから。どうか受け取って。
またいつか逢えるときまで、大切にしてね……?
【レイ】
――その名を――