4.想いを抱き締めて下さい
ーー今、まさに起こっている。
この世界でずっと見つめ続けた愛しい色。彼の青の瞳は今、瞬きさえ忘れて乾いた質感へと移り行く。砕けてしまいそうな細かな振動は、ひび割れる寸前の氷の膜のよう。
……そんな目をしないで。
ろくに力の入らない表情筋で精一杯、柔らかな形を作ってみせる。祈りを込める消えかけの私はそれでも告げなければならない。
「レイ……ごめん…ね」
「ジュ…リ…?」
震えてる。
雨と青の季節も。待ち望んだ温度も色も願いも、すぐ目の前と言っていいくらいの距離だった。だけど。
「私……もう……」
決めなければならない。だってもう知っているの。そして、思い出してしまったの。
立ちすくむ彼の震えはひび割れの青だけに留まらず、やがて全身へ。あ、あ…とついに弱々しい呻きを震える唇から漏らす……そんな顔をしないで。
長身で強面。異名・狼なんて称される彼をそんな風にさせてしまう。たまらない恐怖心が手に取るようにわかると私も飲み込まれそうな感覚に怯えて肩を抱いた。覚悟したはずなのに今更つのってくる実感が…やっぱり怖くて。
お願い、レイ。
泣かないで。
泣かない…で…っ
うわ言のようにして呟いていた私は気がつくと宙に…いや、逞しい腕に抱き上げられていた。疾風が吹き抜けた。しかし、それも錯覚だとすぐに知った。
部屋を出ると見慣れた廊下、次に研究室、次に建物前の草原と、目まぐるしく移り変わる。走馬灯みたいに流れていく景色はまるで時を遡っていくかのようで、虚ろな視界が涙でけぶる。そしてまた思い出す。“今更”を。
愛する彼、レイモンド・D・オークは単に元・狼でも異名・狼でもない。
広大な空を駆け抜ける希望の蒼色。
【疾風の狼】なのだ、と。
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口にしてみたら思いの他膨れ上がって数を増してしまった、願いを告げたその翌日からジュリは早速動き出した。
「エド、マギー」
今日はどうやらペアを組んだ任務だったらしい。フライトから戻ったばかりの二人に声をかけた。
揃いの色の双眼をまあるく見開く姿にくすっ、と思わず笑みがこぼれてしまう。更に不思議そうに互いの顔を見合わせている二人へジュリは意を決して。
「お昼、一緒でもいい?河川敷行ってさ」
えっ、と驚く声までもが見事にシンクロしていて、ジュリは再び口元を覆って肩を震わせる。くすぐったく。
もう頼もしげな外見だけじゃない。何から何まで揃っているって、気付いてるのかな?そんな風に上目で伺っていたとき、ガハハ!と豪快な笑い声が上がった。最初がエド、そしてマギーも同じようにして続いた。やっぱり、似てる。
「おいおい、新妻が旦那そっちのけで俺らを誘うのかぁ?」
「レイさんが拗ねちゃっても知らないよ?ジュリ」
冷やかしつつも血色良く頰を染めているエドとマギーの表情はまさに兄貴と姉御。頼られてなおイキイキとしてくる、そんな様子以外の何ものでもない。
特にエドの方はかなり嬉しそうに見えた。血湧き肉躍るとでもいった軽い足取りで先頭をきる彼の言葉が理由を示した。
「いやぁ、俺んとこには全然近付いてくれねぇからよ…ビビられてんのかと思ってたぜ」
ホッ、とこぼす安堵の息が丸聞こえ。今まさに逞しい胸を撫で下ろしているのであろう彼の背中に向かってジュリは内心で詫びるのだ。
ごめんね、エド。それは…
「それは本当でしょ!ねっ、ジュリ?」
悪戯っぽく笑うマギーに言い切られてしまった。おい!と言って振り返るエドにジュリは苦し紛れの笑みで返した。がくっ、とうなだれる姿に更に気まずくなってしまう。それでも。
「今は大好きだよ。エドもマギーも!」
5月の終わり。少し陰った梅雨間近の空の下で目いっぱいに笑って見せると、みるみるうちに満ちていった。
「お、おう!そうか!俺も愛してるぞ、ジュリ!」
「……エドさん、それ駄目」
「えっ、何で!?」
何で、って…ジュリは思わず含み笑いを始めた。しばし二人の会話を聞いていた。
「だから!それは……レイさんの為に残しておかなきゃ、だからですよ!」
珍しくしどろもどろになってる不満気なマギー。素直じゃないんだから。
「お、おう。だけどよ、愛ってのはいろいろあんだろ?恋よりも範囲の広いもんで…」
まだしっくりこない困り顔をしてるエド。鈍感なんだから。
……しょうがないなぁ。
「ねぇねぇ、エド」
河川敷間近のところ、ジュリは二人の間に身を乗り出した。そして尋ねてやった。
「じゃあマギーのことは?」
「おう!愛してるぜ!!」
「………っ!?」
そして見上げてやった。覗き込んであげた。真っ赤になってるマギーの顔を。
ジュ…
ジュリーーーーッ!!
ぽかんとしているエドを置き去りにして歳の近い少女二人の追いかけっこが始まった。太い三つ編みを左右に振り乱し、赤い顔をしてドスドス駆けてくるマギーはなかなかの迫力だけど、ここぞとばかりに俊足を繰り出すジュリの心は満たされていく。息は切れても。
こんな風にしてみたかった。それから
「上手くいくといいねーっ!マギー」
「だからからかわないでよーっ!!」
梅雨間近なのに春みたいな。新しい芽吹きが見れたように思えて。
予想外に体力を使ってしまった。走り過ぎた、なんて思いながらもジュリはまた次の場所へと向かう。
お弁当も済ませた後のお昼過ぎ。
「ジュリ」
「もう、遅いよーーっ!」
研究所前の草原で大きく手を振る二人の姿にジュリも大きく振って返す。まだ余力のある俊足であっという間に駆け付けた。
「サシャ姉、ヤナギ、二人とも可愛いね!」
よそ行きの服に身を包んだ二人の姿に間近から魅入った。
フリルのあしらわれたオフショルダーのワンピース姿のヤナギはあっちの世界で言うフランス人形みたい。可愛くってずっと見ていたくなっちゃう。
対してラインの綺麗な白いシャツにパンツと上下シンプルでありながらも、ポイントで凝ったアクセサリーを着けているサシャは、可愛いというより凄くカッコいい!
わぁ〜、とため息をこぼしながら目を輝かせているとサシャが照れくさそうに笑うのが見えた。彼女は言った。
「ジュリのそれもいいじゃない。似合ってるわよ」
そう、言われて思い出した。今日は私もいつもとは一味違う。初挑戦の服なんだって。
「私のはお下がりだよ。ナツメの親戚の子の…」
しかも子ども服、と教えてあげた。照れ隠しに悪戯っぽく。だけど優しいサシャは笑ってくれた。ヤナギも少し目を細めているみたい。
「似合っていればいいじゃない。それよりアンタ無頓着なんだから、歩き方に気をつけるのよ。くれぐれもおしとやかにね!」
「座るとき、脚閉じる。パンツ、見えるの、駄目」
「もう!わかってるってば!」
二人とも過保護だなぁ、なんて思って苦笑したジュリはすぐにまたそわそわし始めた。似合ってる。それが嬉しくって。
だってこんな可愛いミニスカートもラフなパーカーも初めてだよ?令嬢の樹里じゃ絶対できなかったもん。それから、それからね。
軽い足取りで歩き出した。女の子同士のお出かけも初めて!浮かれるこの気分、もう、どうしよう?
弾む気持ちのままに二人の間に挟まって町へ出向いた。二度目に訪れる市場だけど、今日はまた見え方が違う気がした。
だって一度目のときはレイと…だったもの。しかも駆け落ちの後。大好きな人と一緒とは言え、罪悪感だってもちろんあった。そりゃそうよね。
お洒落な雰囲気の繁華街に入ると、服や雑貨をいっぱい見て回った。可愛いぬいぐるみが外を覗いているショーウインドウ。当然ヤナギの好みだと思ったんだけど…
「まだ見てるの?サシャ姉」
「あっ、うん。今行く!」
…意外とこっちなんだよね。ダイエットのことばかりで頭がいっぱいだと思ってたのに、隠れた好みもちょっとわかってきちゃった。
小腹が空いたところでアンティークな装いのカフェに入った。
「化粧室」
とだけ言って席を立ったヤナギ。ダージリンの紅茶の香りと抑えた照明の温かな色合いが混じり合う中で、ジュリは。
…ねぇ、サシャ姉。
ちょっとばかり遠慮がちに。
「……ごめん、ね」
ぽつりとこぼした。うつむいたまま。白く小さな拳を膝の上で握ってた。
これでも色々考えてみたんだ。もっと気の利いた言葉だって用意していたはずだったのに、いざ口を開いたらこれしか…出なくって。
「もしかして…レイのこと?」
静かな声が返った。少し笑みを含んだ感じの声色だと気付いて、はっ、と顔を上げた。
思った通り、サシャは微笑んでいた。哀しさなんて微塵も見せないような優しい顔をしている。彼女は言う。
「やぁね。アンタが悪いと思うことなんてないわよ。しょうがないじゃない。ここまでお互い好きなんじゃあ、ね」
笑って。言ってくれる。だけど…
だけど……
「……え?」
サシャが首を傾げた。かぶりを振った、その動きに気付いて。ジュリはついに切り出した。きっと全部は言えない、言えるはずがないって、わかっていながらも。
「サシャ姉…」
それじゃないの。私が謝りたいのは、もっとずっと、身勝手なことなの。
ーーもし、私が居なくなったらーー
「ジュリ……?」
「サシャ姉がレイの傍に居てあげてほしいの」
「何…言っ、て…」
「レイを嫌いにならないで、ほしいの……お願い」
ジュリ……
「ジュリ…!」
彼女に私は一体どんな風に見えたんだろう。
勝手なこと言わないで!とか。人の気も知らないで!とか。最悪そんな風に罵られることも覚悟していたの。それなのに。
あろうことかがっしりと肩を掴まれた。細い腕でもやっぱり体力派の保護班らしい強い握力を感じた。
「何言ってんのよ、そんな変なこと。だってアイツにはアンタが居るじゃない。世界中敵に回ったってアンタが居続けてくれる…そうでしょう?」
そう言って更に覗き込んでくる。彼女のグリーンの瞳は色こそ違えど、昨日の彼のものに、よく似ていて…
胸が抉られてしまいそう。
「もしかしてマリッジブルーってやつ?馬鹿ね、そんな心配しないの!レイは確かに鈍感で不器用だけど、一途さでは誰にも負けないのよ。絶対アンタを幸せにするに決まってるわ」
最終的には結論付けられてしまった。数秒程度迷ったけれど
うん…ありがとう。
頷くくらいしかできなかった。今は。
だって今は、まだ
“鍵”を掴めていないから。
ーー初夏から梅雨、そして夏に近付くに連れて日も長くなっていく。
それでも沈むのはあっという間だったと思う。
明日の為に夕食も早めに済ませた。風呂上がりに戻ってきた部屋には窓がある。そう、今はもう前とは違う。
ーージュリ。
後ろから彼の声が呼ぶ。優しく、細く。そう、前とは違う。
窓際に寄せてある彼のベッドの上にしゃがんでいた、ジュリはゆっくりと振り向いた。ぼんやり眠そうな目に気付いてなのか、近付いてくるレイの表情は案ずる形を成していく。
「だいぶ疲れてるんじゃねぇのか?明日もまた…?」
「うん!明日はね、早起きしてマドカの食堂で朝食を作るの。全員分だよ!レイも食べに来てね」
「ああ…それは、いいけどよ…」
いっぱいに仰いで見上げていた長身がすっ、と沈んだ。
帰って来た日から当たり前に同じ部屋で過ごしている。当たり前に同じ寝床で眠っては起きている。
研究所内の一角で早速新婚生活のような状態が始まっている。旦那さんって誰もが思っている、そんな彼が今夜もすぐ隣に落ち着いた。
これまでと同じようにそっと引き寄せてくれる。大きく包み込んでくれる。だけどやっぱり目を合わせないままの…レイは。
「もう…寝よう。ジュリ」
やっぱり少し、震えてる。
覚悟しようって思った。だからこそ出来るだけ笑顔でいようって。本当はもう知っているはずの彼に大丈夫だよ、って。怖くないよって、伝える為に、何とか保ってきたけれど。
胸が詰まる。震えの止まない腕の内側でジュリもおのずと身を震わした。そして気がつくと、こぼしてしまう。
こんなに何もかも手に取るように…ううん、自分のことのようにわかってしまう。こんなに伝わってしまうと、私…
「こっちを見て、レイ」
怖くなっちゃうよ。知っている事実よりも、今はあなたが見てくれないことの方が…
「……寂しいよ」
………っ!
「ジュリ……ッ!」
いつかみたいに疾風を受けた。いつだって風を纏う、時に荒れて嵐さえ起こすその人にまた押し倒されてしまった。
哀しげな眼差しを仰いで見た。いつかみたいに。
「レイ…」
呼んでそっと頬に手を当てると彼がそれを握った。それから困ったように笑って。
「大丈夫だ。しないから」
「うん」
「ただ、こうしていたいんだ」
「……うん、いいよ」
ーーふけていく、夜。
しっとりと降りてくる夜露と彼の匂いが心地良かった。
眠くなるまでそのときまで、ぎゅっと抱き締め合ったり、髪を撫でてもらったり、キスをしたり、何度か交わし合っていた。
時々歯を立ててしまってはごめん、と謝る優しくって怖がりな彼に途中で言ってあげた。
大丈夫だよ。
心配しないで。
「レイとはとっておきの約束があるじゃない」
暗がりの中で微笑んだ。今度はちゃんと見てくれてると、いいな。
ねぇ?
信じていたいの。ううん、信じられるの。
あなたと私を繋ぐものはきっと形ばかりじゃないって。この想いがある限り……
想いを見つめて。ちゃんと見て。
お願い、レイ。
――離さないで――




