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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第7章/狼の真実(Ray)
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10.偽りなんて捨ててやる(後編)



ーー冷たい冷たい、道のり。



苦い匂いが占める、F棟南へ続く廊下を進んでいく。


肉体を纏ってなお、190センチ近い長身、故に脚も長い。本来なら大股であるはずの歩幅を半分程まで狭めているのは、付いてくる滑車の音に合わせる為だ。



個室の病室前で止まった。一度飲み下すように喉を隆起させてから扉に手をかけた。


恐る恐る開け放った、怜を迎えたのはまたしても思いがけなかった、光景。




「………!」




異変。




いつかは…と覚悟していたつもりだった。しかしそれにしたって、いくら何だって……立ちすくむ怜を一同が揃って振り返る。同じ形状の服に身を包んだ、同じくらいの年頃の面々の中には覚えのある奴も



「柏原…!」



我先にとばかりに立ち上がった仔犬ヅラ…ああ、もちろんお前もだ。



揃いも揃ってぽかんと呆気にとられた顔をしている彼女の同級生たち。その中で、明らかに異なる年齢の男が立ち上がって問う。斜め後ろの女性ひとへ。



美樹みき、この人は?」




それだけで察するには十分だった。車椅子掛けの丸まった身体、それでも凛とした姿勢を崩さないこの人…樹里の祖母が【美樹】。そしてためらう視線で美樹と俺とを交互に見ているこの老紳士こそが【旦那様】…即ち樹里の祖父なのだと。



そこかしこからの訝しげな視線、恐れおののく視線も無理はない。知っているのは震える仔犬の目で見つめている葛城くらいのもんで…



「カシワバラ…」



え、と思わず呟いて視線を止めた。その先にはまた覚えのある姿が。金色の長い髪に鋭い目つき…確かコイツは、榊?



柏原……




何か思い出そうとしている榊の紡ぐ名が、偽りの俺の名が、繰り返す都度に確かになっていくのがわかった。申請、意味無さ過ぎだろ……唖然とする怜の斜め後ろ、ずっと沈黙を保っていた厳かなる彼女がすっ、と息を吸い込んで。




ーー柏原怜さん。




「樹里の恋人だそうですよ」




「!」



「!?」



『!!!』




声にならない驚愕が占める中、怜もさすがに振り返る。情けないくらい真っ赤な顔をして叫ぶ。




おい、美樹!!




……内心。あくまでも内心であるが。







ザワ…ザワ…




この国の学生たちはしばしば合唱などというものをする。今まさに蠢いている、こいつもまたその一種か?なんて思ってみながら、怜はゆっくり、ゆっくり歩み寄る。



何度となく足を運んだのに、これまで遭遇したことのなかった状況。異常。確かにそれがあるのだと気付いてのことだった。



予感は確かだった。




「何故今までいらっしゃらなかったのかは存じませんが…」



皮肉を込めながらもこの場へ通してくれた。何故だか受け入れてくれた美樹が言った。




「ーー今夜がとうげだそうです」




そうだ。



樹里がここに居ることなら皆知っていたはずだ。いつの間にか壁を埋め尽くしそうなまでに増えている鮮やかな千羽鶴を見上げて確信を得た。



それ程のことでもない限り、皆が皆集まることなどそうは無いであろう、と。




ーー樹里…




何度も口にしているはずなのに、懐かしく感じる響きで呼んだ。あっちで散々、好きだ綺麗だ愛してるだ、甘ったるい言葉を交わしてはくっついているはずの彼女の…肉体へと近付いて。




そっと腰を下ろした。




そっと手を取った。




「樹里」




呼んで応えるはずもない。冷たい手の感触は今宵を超えてなおさら躍動のない氷のようになるのだと知っていた。俺が彼女を求める限り。



それでも…




「樹里…っ」




溢れてくる。肩から声まで震わせている強面を皆はどんな目で見ているのだろうか。それでももう気になりはしない。いや、気にする理由さえなくて。



ただ、心で繰り返す。





ーーごめんな。



樹里おまえを生かしてやれなくて



俺が奪ったんだよな、わかってる。



だから、だからこそ…大切にする。



絶対に離さない。お前の魂だけは、これからも…





ずっと一緒だぞ。








きっと異常な事態の中の異様な光景だった。これ以上起こるなんて思いもしなかった。



………




これ以上なんて。




………!




まさか





「樹里!?」





ーーこんなことなんて。






がばっ、と後方を振り返る。その頃には皆が気付いていた。今、確かに…信じられない事態に打ち震える怜へいくつもの確信が断片となって降り注いだ。




今、手握ったぞ!



そんな…今までそんなの一度も…



奇跡だ…!



じゃあ助かるの?磐座さん!




一抹の光を見たばかりの皆は熱気の滾る身を乗り出して呼ぶ。磐座さん、磐座さん!彼氏さん居るよ、私たちも居るよ、なんて。


何でもっと早く言ってやらねぇんだ。あのときも、あのときも、クソ情けねぇったらなかったぞ、おめぇら。そんな風に毒付く誰よりも情けない俺の元に




ーー柏原さん。




また届く。




「もっと呼んでやって下さい。この子はきっと、貴方を待っていたんです…!」



私では駄目…みたい、ですから……




消え入るしわがれた声。涙に濡れた美樹の顔を見たが最後、もう、怜の表向きの“硬派”は呆気なく崩れてしまった。



「樹里…!」



向き直り、力の限り叫んだ。力の限り、ありったけの想いを。





「聞こえるか?俺はここに居るぞ。嘘なんかじゃない…!」




そう、偽りなどではなかった。あのときから。




「離れちまったけどよ、許されなかったけど…お前を忘れた日なんて一日もねぇんだ…!」



そう、あれは真実だった。確かだった。だって出逢ったのだ。触れたのだ。確かにこの手で、この身体で、俺は




俺は……





「柏原怜は居た!この世界に、お前の傍に、確かに居たんだ。それは偽りじゃない!真実でしかない!だって、今でも…」




ーー樹里。





「お前を愛してる!!!」









どんだけの大音量で言い切ったのかわからない。呆然としている面々が霞んだ視界の端に映って、きっとハンパなかったのだろうということだけ、かろうじてわかるくらい。



「柏原……アンタ…」



何だか震え切った声で呼んでくるのが葛城だとわかるくらい。




てめぇまで泣くんじゃねぇよ。てめぇなんかより俺の方がずっとずっと、こいつを想ってる。ずっとずっと、幸せにしてやるんだ…!



この世界じゃなくたって。




場に合わないクソ見苦しい独占欲を言葉にもできず、ただ塩辛い濁流としてぶちまけた。あっちでの彼女のものとよく似ている、硬い感触の漆黒に泣きっ面を伏せながら。



少しばかり微笑んだように思えた





彼女の肉体の息吹を感じながら。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



ーー身体の水分という水分が干し上がったんじゃないかと思った。



借り物の肉体をここまで酷使した俺はもう、フィジカル出入り禁止を食らうかも知れねぇな。



磐座樹里が役目を終えたら、もうここに用など無いであろうが…




用など……






やつれ切ったフラフラの足取りで林への道のりを辿る、怜は途中で思い出した。息を飲んだ。




ジュリアイツ…は!?




【レイ】を取り戻して。





今にもシン、と張り詰めそうな、夜空の迫りそうなあかもとを無我夢中で走った。嫌だ…嫌だ…!奥で悲鳴を響かせている自分を滑稽に思いながらも、逸る気持ちは抑えられない動きとなって長い脚を繰り出していく。



もう四肢で走りたい。



今こそ狼になれたなら、なんて思ってしまうくらい、必死に。






勿忘草を手にせず還るのは初めてだった。今日、初めて彼女の元へ置いていった。



ついに柏原怜に別れを告げる。だけどもはや感傷に浸っている余裕もなく、夕暮れ色さえ届かない闇の林の中で天を仰いだ。早く、早くしてくれ!疼く幽体は一刻も早く抜け出すことを願っていた。




願いは割と早く受け入れられたと、思う。肉体が離れていく、解き放たれる。まるで永遠のときのように長く感じてしまったが。





ついさっき、樹里に逢いたいと願った。



そして今、ジュリに逢いたいと願っている。1分、1秒でも早く。



同じ魂を求めてあっちへこっちへ右往左往している。俺は一体…何なんだ。




散々、これでもかってくらい己を皮肉った頃にはもう、闇の林は霧の森へ切り替わっていた。終わった。一仕事の後のため息は束の間。ここでも感傷やら皮肉やらに浸っている余裕はない。




目指すは一つ。




すぐに草木を押し分け、霧の中を突き進んだ。見慣れた一色だけを目指すうち、やがて見えた、待ち望んだ蒼。



あまりに夢中だった為か、寸前まで気付かなかった。




ーーレイ。




声はすぐ間近から。機体に登ろうとするレイを呼び止めた。



立ち込める霧の中で確かになっていく。だいぶ久しい気がする白金とグリーンがやがて限りなく鮮明に。



「サシャ…」



蒼の機体にもたれかかっている彼女は、視線を交わらせるなり端正な顔にくしゃっとしわを寄せた。一体いつから待っていたのだろう。それに随分と痩せた、か?



案ずる気持ちこそあれどレイは言う。



「悪りぃ、サシャ。俺行かなきゃ」



更に泣きそうに歪める、その顔を見ても。



「本当に悪かったと思ってる。いずれちゃんと詫びに行く。だから…」



「待って」



「サシャ…?」




「待って、レイ…」




蚊の鳴くような声だった。涙に満ちた眼差しはまるで迷子の子どものよう。



そこまで心配させたのか。やっぱり何時間も独りで待っていて…?その上突き放されたんじゃあ、いくらお前でも泣きたくなるってもんか?



さすがに放っておけず機体をかけたばかりの足を下ろした、顔だけ振り向いたばかりのレイに、彼女が




………!




サシャが、背中からしがみ付いて嗚咽を漏らした。彼女は言った。まともに形にもならない声で。



それでも聞き取れる、声で。




「お願い、レイ…聞いてほしい、ことが、あるの…」



鍛え上げられた筋肉を突き抜けて、奥へまで伝わる温かさと柔らかさ。鼓動。初めてだった。情報だけならエドから聞いていた。だけど今、身を持って。



レイは初めて気付いたのだ。





「ーーごめん、サシャ」




傷付けて、ごめん。



ずっと傍で支えてくれた、お前は大切だ。だけど…



だけど、な。





更に壊れそうに震えている。霧がかってなおさら幻想的な美しいグリーンの瞳に、告げる。




「アイツじゃなきゃ駄目なんだ、俺は」



嵐を巻き起こし、周囲を振り回した罪は痛いくらいに感じてる。それでも離れられない、失いたくない。我儘わがままだとしても、罪だとしても。




ーー勿忘草。




その答えが見つかった気がした。



物悲しい名のあの花が、前世まえの記憶を有さないフィジカルにのみ存在する理由。



それはきっと…




『私を忘れないで』




脳の海馬へではなく、魂へ刻み付ける為なのだ。忘れてしまうからこそ、魂だけは忘れずにいて、と。




答えを見出した、レイは微笑んだ。霞に溶け込んでいく掠れた声色は、それでもありったけの想いで。




ーー忘れられないんだ。



魂に刻んだ伴侶だから。思い出してしまったから、もう…




「逢いたいんだ」





ーージュリに逢いたいんだーー



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