9.偽りなんて捨ててやる(前編)
ーー怜…さん!ーー
艶やかな晴れ姿と眩い陽射しがリアルに蘇ってくる、錯覚を覚えてしまうくらいあの日によく似た気候だ。
肉体の申請期間が残っている。もう頭に叩き込まれている『曜日』は、今日こそタイミングが良いと知らせてくれた。
それにしたって。
病院の面会時間はまだ先なのに、まっ昼間からこんなところに来てしまったのは、やはり甘い感傷に浸りたかったからなのか。
ーーまぁ、いい。
自分でもよくわからない一方で、はっきりしていることもある。これで最後。感傷に浸るのも、この世界のこの町を訪れるのも……
目覚めない彼女に会うのも、これが最後だ。
覚悟の元に歩んでいく、レイ…もとい、怜の向かう先は実に定まらない。順序なんかはもうどうでも良かったのかも知れない。ただ…
肉体の焦げ茶の瞳から本来の青にまで、しっかりと焼き付けたい一心で。
川原町立川原南高等学校。
おそらくは授業中。故に生徒の姿の一つもない校門の前で想いを馳せる。
ーーここでお前と出逢った…いや、再会したんだよな。
本当、色気の塊かと思った。あの野郎が押し倒したくなるのも頷けるってくらい。
だけどやっぱり許せなくてブン殴っちまった。あのときは…怖いモン見せちまったな。
だけど、知ってるか?樹里。
あれは正義感なんかじゃないぞ、きっと。
独占欲同士のぶつかり合い。我ながら反吐が出る程、嫌で、嫌で、認めたくないんだけどなーー
ふっ、と鼻で己を嘲笑う。怜はまた次の場所を目指す。
小江戸の商店街。
ーーいろんなものを見たな。いろんな店に連れてってくれたな、お前。
ハカマ…だっけか?あれ、すげぇ似合ってたぞ。何か鼻から吹き出そうで怖かったから、必死に押さえてたんだけどよ。
綺麗、って言いかけたの、まさか気付いてねぇだろうな。気付かなくていいぞ。
……これからなら、なんべんでも言ってやるから、よ。
あのときみたいに鼻をこする。そしてまた次の場所へ。
病院裏の河川敷。
打ち明けてくれた、お前はあんなに苦しそうにしてたのに、俺ときたらとんでもねぇぞ。
よりにもよって嬉しいなんて思ってたんだからな。
お前を知れた気がして、頼られた気がして、もう閉じ込めたくてわけがわからなくて
ーー怜って呼べーー
あんなこと言ったんだな。本当に恥ずかしい野郎だ、俺はーー
そこに居ないはずの彼女の幻覚へ額を合わせた。あのときのように。そしてまた…
次の場所。
順序なんて
順序、は…
あったんだとここで気付いた。
神社の敷地内。
カシワの木の麓。
一度は離れた場所にまた戻ってきている。いや、違う。これは
「……樹里」
そう。
この世界で彼女と共に辿った道のりそのものではないか、と。
あのときみたいに目を閉じる。どうしようもなく、そうせずにはいられなくて。
全身で彼女を感じたかった、離したくなかった、あのときのように。焦がれる木漏れ日の下で。
ーーここで……
ここで、キスしたんだな。
ひょっとしたら初めてだったかも知れねぇのに、お前。いや、あんなのは俺も…なんだけどよ。
あんな無理矢理奪うみたいにして
……優しくしてやれなくて、ごめんなーー
ぐっ、と歯を食いしばり、拳を握り締め
ーー忘れません!ーー
すがるかつての彼女の声を背に…
ーー身勝手で…ごめんな。
これからはずっと、ずっと、離れねぇからーー
昼間とは思えない紅の色で砕け散る、木漏れ日の下をやがて、去る。
追い風が吹く。その差中で、初夏の突風に奪われた数枚の木の葉を見た。地へ舞い降りて鳴る、秋のように乾いた枯葉の音を聞きながら
樹里はこれを
こんな哀しい音を、独りで聞いたんだ。
今更どうしようもないとわかりきっている、それでも止められず沸いてくる、想いに耐え忍ぶべく焦げ茶の目を伏せた。
だけどいつまでもこうしている訳にはいかない。この後行くのは取り残された彼女の辿った道…だけど、孤独から脱却した今の彼女の道はもう定まっている。定まっている、はずだ。
己を納得させる言い聞かせを内心で繰り返しながら、怜はついに歩を止める。
さすがに海までは行けなかった。何せこの町からはだいぶ離れているらしいし、それすらあくまでも情報でしかない。厳密な場所などわからないのも無理はない。傍に居なかったのだから。そして知った頃にはもう…
河川敷側の大病院。
彼女はもう、ここに居たのだ。
相変わらず数日脱いでいただけでも重苦しく感じる肉体。昼時ながらも何か食おうって気にもなれずにブラブラと周囲を歩いて時間を潰した。いくらか慣れたか。そして時間も…というところで、怜はいよいよあの場所へ。磐座樹里の終着点を目指して重いままの足を繰り出した。
自動ドアを潜るなり、あの匂いが鼻腔へ流れ込む。飲み込みたくはない、苦味。これだってもう最後だ。
慣れた手つきで面会申請の用紙を取り、慣れた動きで走らせる、最後の二つの名。磐座樹里と柏原怜。
綴っている最中に訝しげな視線を感じた。出所に気付くなり怜は内心で、げ、と苦々しい毒付きを吐く。じとっと見つめる受付の一人に見覚えがあった。
怜はすでに知っていた。今日の受付の女は手強い…情報ではなく、身を持ってだ。
二度目にここを訪れたときに会った。じろじろと上から下まで視線で舐め回す、本人はもう覚えていないだろうが、あのとき俺は追い返された。親戚と言っても信じちゃくれなかった、良く言えば慎重、悪く言えば神経質な砦を前におのずと身体が強張ってしまう。
それでも怜は差し出す。二つの名と住所を記した紙を、わずかばかり震える手で。
もうここからは運だと覚悟した。どうせ意味などないことだ。自己満足だ。追い返されたならそれでもいい。どうせまた還るのだから。
曜日だけならタイミング良かったんだけどな。そう都合良くはいかないか…いつの間にか浮かんだ哀しい笑みに、受付の女の眉間がますます寄った、そのとき。
ーーどなた?
思いがけもしない、タイミングがまた。
やけに下の方から届いた。驚いて見下ろしたときにはすでに隣で受付のカウンターを覗き込んでいた人物が、綴られた名を口にする。
「柏原…さん?」
………
………あ。
何とも間抜けた声が漏れた。記憶の断片が色を帯びていく、蘇っていく途中で、再びあれを実感する。
ーータイミングが悪い。
車椅子の老婆を眺めながら。
さすがアイツの親族とでも言おうか、歳相応の白髪と曲線の背中を持ちながらも、未だ健在な気品がありありと滲み出ている。顔立ちもだ。複数の皺が刻まれてなお、この国における美女だったのだろうと察しがつく。多分、アイツとはまた違った類、控えめな『大和撫子』とかいうあれに近いだろうか。
顔を合わせるのは実質二度目。一度目のあの日は確かに自らの足で立っていた。よく見りゃ後ろには付き人らしき男が二人程立っている。情報でだけ知ってはいたが、決定的に違っている部分を今、この場にて見せ付けられている。
ーーお嬢さんがこんなことになってから、一気に弱ってしまってね…
今じゃあ一人で歩くことも出来ないから、週に二度、水曜と土曜にだけ、旦那様と一緒にいらっしゃるのよーー
柏原怜として訪れる度に行き届いた解説をくれる、マドカくらいの年配の看護師から聞いた情報だ。だけど違う。旦那様らしき者も居なけりゃ曜日だって違っている。
じっ、と射るように見つめる漆黒の眼差し…これもまた、健在。いつかは、と恐れていたそのときが来てしまったか、と覚悟を決める怜へ、彼女はついに次の一言を。
「樹里のお友達でしょうか?」
それとも…?
ーーいや、問いを。
真の親戚を前にして偽りの親戚など歯が立つはずもなく。もはや選択肢は彼女の提示したそれしかなかろう。そう思った。
「はい」
そう思った。
しかし。
「ーーいえ」
言った側から覆す。真っ直ぐ向き合う怜は今、今こそ、心に誓う。
偽りはもうここまでにしよう、と。
全てではなくとも、今ここに居る意味…真実。それを告げるべく、口を開いた。