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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第7章/狼の真実(Ray)
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6.一つだけ、お前だけ(前編)



挿絵(By みてみん)








ーーレイ。




レイ……ごめんね




ごめんね……ーー






幽体カラダを失くして唯一残った。魂だけになったはずの俺にはまだ、彼女の声が届いている。悲しく、哀しく、響いてくる。



彼女もまた同じはずだ。フィジカルもアストラルも捨て、魂だけの存在となった。それでもまだ、続けるのか?お前は。



もう誰の目も気にすることはない。気の済むまで言わせてやってもいいのかも知れない。でも出来れば聞きたくないんだ。愛おしくてたまらないお前の声だけど、そんな響きなんかじゃなくて




ーー愛していますーー




あれをもっと聞かせてくれ。出来れば。



だってもう、それだけでいいじゃないか。







レイもジュリも死んでしまった。覚悟した最期は思いのほか呆気なく。頭から真っ逆さまに突っ込んだにも関わらず、脳天を突き抜け砕け散る、痛みも特に感じはしなかった。


少しばかり衝撃があった気がする。だけどそんなのはほんの一瞬のことで、直後にふわっと浮かんだ。壊れた幽体から抜け出したのだろう。



そう言えば『ミク』に襲われたときもこんなだったか?実は死んでないというオチ……って、さすがにあの状況でそれはないか。



俺に即死の記憶はない。多分、経験がないのだろう。何たって文字通り一瞬なのだから、痛みなんぞ感じているいとまもないと想像がつく。案外こんなものなのかも知れないな。



お前もそうだったらいいな。苦しまずに逝けていればいいな。今はただ、そんな想いを馳せるだけ。




あのときの俺たちの最期は苦し過ぎたから。身体の痛み以上に痛かったから。


お前もきっとそうだったろうから。




ジュリ……。








ーー『レイ』なる姿も手放した、俺はもう、全部思い出していた。





遠い昔、肉体を持っていた頃。


俺は限りなく人に近かった。それは心の話だ。仲間たちと何か違うような気はしていた。異端な気がしていた。



そんな俺の前世まえけもの……狼だ。



“一匹狼”なる言葉は何処ぞの人間が造り出したものらしいが、一体何処のどいつを見てそう捉えたのだろう。



そんなやつを見たと言うのなら、きっとそれははぐれたのだ。取り残されたのだ。


悲しくて寂しくて泣いたはずだ。それを人は“遠吠え”と名付けたのだろう。



そう、あのしゅの獣は群れを成す。本来、一匹などでは生きられないのだから。そして他でもない、俺自身がいい例と言えるかも知れない。




人間たちが括って名付けたという国、町、地域。何処に生きていたのか俺は知らない。意識していたのはそんなものではなくてもっと狭い『縄張り』だった。



あれは酷い争いだった。病気で多くの仲間を失った俺たちの群れはすっかり弱小化していた。そこへ攻め込まれたのだ。ひたすらに生い茂った森…俺たちにとっての『世界』で最も強大な権力を誇る群れが更に縄張りを広げるべく、弱ったこちらをあっという間に捩じ伏せてしまった。



気が付いたらもう俺しか居なかった。頸動脈を噛み切られた仲間たちはびくともしない。揺さぶっても、舐めても、微弱な息さえ返しやしない。


最後に祈る思いで川へ走って水を含んできた。だけど無駄だった。動かない喉では口移しも成り立たない。ただ虚しく端から垂れ流すだけ。



亡骸なきがら。もうそれでしかないのだと、俺はやっと悟った。



再び追って来る群れに気付いて命かながら森を出た。無我夢中で、どれだけ走ったかもわからない。



独りぼっちの俺がやがて辿り着いたのは、独りぼっちによく似合う荒野だった。何を思ったのか乾いた丸裸の崖に登った俺は来る日も来る日も鳴いた。



ワォォォーーーン!



アォォ……ォォ…ン!!




来る日も来る日も、泣いた。



生きる本能はあったはずだ、確かに。腹が減った。肉が喰いたいと思った。確かに。


しかしここで更なる皮肉が起こった。異端な俺は、喰いたくて喰いたくて仕方がなかった肉……それを前にして、まさかの異常な反応を起こしてしまった。



見つけたのはうさぎだった。多分、はぐれてしまった、小さな小さな奴だ。


喰らってしかるべき。願ってもない、まさに恵みだったはずなのに…




ーー俺は喰えなかった。



弱肉強食。何も悪いことはない。それなのに、こんな状況下で願ったのは、まさかの……




ーー頼む、一緒に居てくれ。喰われなくていいから……ーー



ーー独りぼっちはもう嫌だ……嫌なんだ!ーー




今思うとあれは、限りなく人間の感情だ。それが俺の、狼としての生涯を終わらせた。



骨と皮だけの、痩せこけた肉体の感覚が薄れる頃、そこにもう兎は居なかった。いや、きっと本当はとっくに逃げていたのだろう。そりゃそうだ。当然だ。





ーー魂は進化する。故に生物の形を、生き方を変えていく。



フィジカルを後にした俺の魂が新たな幽体を成そうとしていた。それが人の波長であることに気付いた。ああ…俺はそこで納得したのだ。皮肉な事実を。



俺は人に近付き過ぎてしまったのだ、と。





そうか。次は人間か。自然と理解し始めていた。新たなしゅへの転生。あまりに未知な進化に俺は再び震え上がった。



恐怖でどうにかなりそう…


狼としてもまともに生きていけなかった俺なんかがうまく『人間』をやれるのか?



また異端になってしまうのではないか?今度は獣じみている…なんて忌み嫌われて…



また、孤独に……




………っ




………っ!




泣いていた。遠吠えはもうできない。人になっていく、変わっていく…恐怖の進化、その途中で、俺はついに気が付いたのだ。




………?




どうやら随分前から傍に居たらしい。やけに温かいと思ったら…と、俺はすぐ近くの気配に全てを集中させた。




猫……か?



でも、人のようにも、思える…?




不思議な存在がそこに居た。しかも何故だろう、そいつはあろうことかますます俺にひっついて離れない。眠っているのか、安らかな寝息らしきものまで立てて、それでもすりすりと心地良さげに身を寄せるのだ。



何…だ…?



とにかく興味深くて、もっと知りたくて、俺は意を決して近付いた。抱き締める。そんな感覚で、身体で言うところの胸と頬あたりを合わせたとき、伝わった。



鮮明に見えた。




身体で言うところの目あたりから、実体でいうところの涙が流れた。




あぁ…



あぁ、お前。




お前も仲間を奪われたのか。それも…俺と同じしゅに?



ごめ……ん……





仕方がないと知っていた。この猫の魂の仲間を奪ったそいつらだって、生きる為にそうしたのだと。悪いことでも何でもない。当たり前のことなのだ、と。




それでも熱く流れる動きは止まらない。想いもまたつのり続けて、止まりはしなかった。




ごめんな。



ごめん…な…




俺がずっと傍に居てやるから



だからお前も……




人に近付き過ぎたが故の願い。そしてそれは叶わない。



猫の方もそうだ。もう仲間たちはとっくに次の世へ向かったのに、人に近付き過ぎたが故に、長く留まって。




やがて光が照らした。お前はこちらへ、お前はあちらへ、と天から示された道筋は



最後まで絡み付いて離れようとしなかった猫と狼を



それぞれの方向へと導いたのだ。







忘れなくちゃいけないんだ。途中から理解してがむしゃらに走ったような気がする。だからなのか、俺の方が先に生まれたのは。



それでも消えなくて。


ただ一つの願いだけは、どうしても




ーーもう一度出逢いたいーー



ーーお前に……!ーー





……消えなくて。










そして俺たちはついに出逢ってしまった。本来別の世なのに、この記憶だってちゃんと覚えてはいなかったのに。



すげぇよな。笑えるよな。



ジュリ。







……ワウ。



ワウッ!






……ん?




狼の…声、だと?




「ワウッ!!」




夜空を背にしてこっちを見てる…銀色……と、



アメジスト?




「レサ…ト…」




だと?





ゆっくり目を開いていくと、確かにそこに居る。星と三日月の明かりを背に受けてなお、キラキラ輝く目をしたレサトが、一層嬉しそうにワウワウ!と吠える。


白銀の毛先がこちらへ向かって揺れている。見下ろしている…つまり俺は、と、少しずつ理解していった。



ゆっくりと半身を起こした。恐る恐る見渡してみると、つい先程の景色とは近いようで何か違うと気付いた。しかも



「痛くねぇ…」



血どころか擦り傷一つ見当たらない。場所は明らかに崖下。小屋の前。混乱を鎮められそうにない、レイは落ちていく差中でよぎったまさかの可能性を思い出す。



またしても“生きてる”オチ、だと?


だとしても一体……




次の可能性を手繰っていたその途中でレイは我に返った。はっ、と素早く息を飲んで見下ろした、膝の上。




「ジュリッ!!」




彼女は居た。壊れてなどいない、確かに【ジュリ】の姿で横たわっている。もちろん生きてるオチだよな?なぁ、そうだよな!?レイは必死になって縋り付く。取り戻したばかりの我など忘れて夢中で呼ぶ。



「ジュリ!ジュリ…!大丈夫か?おいっ!!」



そうだ。間違いない。俺と同じ、格好の悪い無様なオチだ。そうに違いない。決まってる!



「目ぇ開けろ!ホラ、俺はここに居るぞ!」



自然と理解していく。



「レサトが助けてくれたんだぞ!俺ら助かったんだ。生きてるんだ。また一緒に暮らせるぞ、なぁっ!」



涙が溢れていく。抱きすくめると確かに感じる、鼓動を確かめて、力一杯叫ぶ。喉の奥がどうしようもなく震えてみっともない裏返りを響かせる。



「ここで生きていくんだ。なぁジュリ。もう俺の嫁になれ、お前。ずっと、ずっと…大切にするから……」



お願いだ。




「答えて…くれ…ッ……」




ジュリ!!





腕の中の彼女へ、もう限界まで顔を埋め込ませた。そのとき。




ーーホント?




声。そして、息吹が蘇る。



レイ……




素早く息を飲んでぐしゃぐしゃに濡れた顔を上げる。拍子で何粒も溢れて彼女の白い頬を打つ。そこへ…



小さなぬくもり、彼女の手がそっと、頬を撫でて



「逢いたかったわ。ずっと、探してた……」



欠けた月のもと、潤って一層柔らかい二色を三日月型に細めた彼女が…“俺”を呼んだ。




ーー狼さん。




レイは気が付いた。言われてみれば確かに感じる、鮮明に蘇ったかつての波長が己から、と。



彷徨うように、求めるように、ゆっくり伸びていった彼女の手が止まった。それからまた優しく撫でた、それは本来の場所ではなく随分と上だ。それでも俺にはわかるのだ。そこが耳であると。



「ジュリ、おま…え…?」



見えているのか?全部、わかっているのか?



「うん、見える」



口にした訳でもないのにジュリは迷う様子もなく答えた。レイは今度こそ口を開いてもう一つ問いかけた。恐る恐る。



「怖く…ないのか?」



今度は、すぐにではなかった。だけど見てわかる。怯えてなどいない彼女が微笑みを浮かべたまま、真っ直ぐ見上げたまま、かぶりを振った。彼女は言った。



「覚えているわ。私の仲間と家族と…子ども。みんな奪ってしまったのは…狼だったわ。確かに」



…そうだよな。狼の瞳にはまた新たな涙が滲み出す。そして疑問は未だ、尽きないまま。



元凶。まさにそれであるはずなのに、同じしゅなのに、何故なんだ?


あのときだってそうだったな。何故お前は俺に懐くんだ?俺を選ぶんだ?



居場所になろうとしてくれるんだ?



何故…




みっともなくたって嗚咽は止められない。未だにわからない。それなのに、未だぶれずに見つめ上げる彼女はあろうことかこう言うのだ。




ーーありがとう…狼さん。




「ううん、レイ。怖くなんてなかったわ。だって私、知ってたもの。あなたは優しいって。優し過ぎたから独りでいるんだって。私を温めてくれるんだ、って」



「それはお前も…だろ」




ぐすっ、とすすり上げると返す言葉がくぐもってしまう。獣に囓られたような形であるはずの月も、今じゃあ潤いで滲んで満ちていくかのよう。



あのときみたいにそっと身体を寄せた、ジュリがレイの腰の後ろあたりに目を止めて、ふふ、と笑った。かぁっ、と熱が登ってくる、レイは覆い被さる彼女を上目で見上げながら、ちょっとばかりばつが悪そうに。



「…やっぱり、見えんのか?」


「うん」



「今すげぇ尻尾振ってるだろ、俺」



「うん、見える。レイ、喜んでる」




湿気を帯び始めた夜風がひんやりとした感触となって二人を撫でていく。まるで落ち着けと言われているみたいだ…意に反して暴れ続ける尻尾をどうにかしたいが、これはもう本能だ。どうしようもない。


恥ずかしいのに離れられない。魂の頃から求め続けたぬくもりを離す気になんてなれない。悶絶するレイの頬を猫の耳がくすぐる。更に優しい声色で、甘く。



「嬉しいわ、私。レイがあのときの狼さんで。こうして出逢うことが出来て。レイも、でしょう?」




ああ。



そうだ。




「当たり前だろ…!」




咳をきったように叫んだ。力強く抱きすくめた。これ以上一つになれないってくらい、深く深く寄り添う中で実感している。導き出していく。



ーー俺たちは。



人に近付き過ぎた孤独同士の獣は




人の本能で結ばれたんだ。





ーーねぇ、レイ。



どれくらいこんな風にしていた頃か、やがて彼女の声が囁いた。



「お嫁さんに…してくれるの?」


「……っ!」




「ねぇ…レイ?」



それはまさに猫撫で声。愛おしいあまりにあざとく憎い、そんな響きを容赦もなく与えてくる彼女に、レイはついに耐えきれず、眼下の乱れ髪を更にわしわしと掻き乱して。



「当たり前だろ!言わせんなッッ!!」



涙だか唾だかよくわからないものを散らせて叫んだ。今まさに遠吠えしたい。哀しみ焦がれるあれではなく…もっと、こう……




『アォォォーーーーン!!』




その役は、まさに絶妙のタイミングでレサトが担ってくれた。空気読みやがってコイツ……



…ちくしょう。









それからレイとジュリとレサト、限りなく人に近い三匹の獣は、共に同じ道を辿った。


まだ幼いながらもスカイウルフの名に劣らない逞しい四肢を持つレサトは、疲れ果てた彼女を背中に乗せて進んでくれた。きっとあのときもこの脚力を駆使して、崖を駆け上って俺らを咥え上げてくれたのだろう。大したもんだ。



独りぼっちだった狼…いや、もう家族か。



こいつは小屋には入らずドアの前で腰を落ち着かせた。もう自らの役割を把握している賢い白銀の息子に甘えて、レイとジュリは着替えも忘れて床に着く。



何をする訳でもなく、ただ共に横たえた身体で寄り添っていた。疲れ切った虚ろな目で、意識が薄れるまで見つめ合いながら。互いの息吹を感じながら、内側で芽生える温かな気配を形にしていく。




何処に居ようと、何度生まれ変わろうと



例え、再び引き離されようとも



魂で結び付いた恋人…いや、魂の伴侶を




俺は、これからもずっと。






ーー今やっと自分になれた。



どれだけの者と関わろうとも決して消えることのなかった孤独を今やっと超えた気がした。彼女と共に。



今やっと、初めて人になれた気がした。人として夫婦として、共に歩んでいくのだと決めた。



欠けていても満ちていく、月の明かりにも決して劣りはしない、甘い煌めきと冴えた決意の夜だった。



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