3.お前らホント、眩し過ぎ
「発情期は無い!?」
一瞬浮き上がった椅子が大きな尻を離れるなりガタ、と重力の音を鳴らす。食堂内。高らかに響いた野太い声に周囲の誰もが目を丸くした。
いや、むしろ言葉か。そわそわしている彼らの様子は他でもない、いかがわしげなあの一言に反応したのだと示しているかのよう。それでもなお興奮冷めやらぬ面持ちのエドは中腰姿勢のまま、構わず続けるのだ。相反して静かな向かいの彼女へ。
「それならそうって言ってやりゃあいいのに。レイの奴、すげぇ心配してたんだぞ。過保護な親父みてぇに」
呆れ顔の彼を前にしても彼女は至ってマイペースだ。何事もないかのようにコーヒーのカップを口元へ。すんなり一口苦味を流し込んだ後は、しれっと涼しげに打ち明ける。
「私も随分と悩んだのだ。何処まで告げて、何処まで伏せるかを。如何にすれば運命へ導けるかを考えるうちに、私はアイツに二つの嘘をついてしまった」
二つ?ハニートーストをいっぱいに詰め込んだ口からくぐもった問いを投げるマギー。ああ、と頷いたナツメがまた口を開く。
「幽体同士の交わり、即ち性行…」
「だからナツメさんっ!もっとオブラートに包んで!」
「ああ、すまない。つまり“アレ”をすることが何を意味するか…」
「駄目だ、もっといかがわしくなってんぞ」
マギーは焦燥し、エドは硬直してしまう。並んだその顔は共に赤い。二人ばかりではない、耳にしてしまった不憫な者の何人かは、ぶっ、とお茶を吹き出したりむせ返ったりする始末。実に不憫だ。
しかし生物学に頭から爪先までどっぷり浸っている彼女にとって、それはいかがわしいものでも何でもないのか。命と性を持つ全ての者が織り成す“当たり前”とでも捉えているのか。
ごく自然に続ける、方向性はやはり変わらない。
「一線を越えることが、あっちの彼女を死に至らしめる。あまりにも酷だと思った。そして早過ぎると思った。発情期、そういうことにしておけば、レイは守りに徹するだろうという私なりの判断だった」
「事実そうだったな。アイツ、俺まで警戒してやがったし…」
決して不親切な訳でも、ましてや悪意でもない。そんな彼女なりの想いを受け止めたエドは苦笑を交えつつも感慨深げにうんうん、と頷く。その隣で特盛ハニートーストを順調に腹へと納めていくマギーはふと、顔を上げて。
「ほれで、もうひほふってはんへふは?」
「食ってから喋れよ、お前…」
「ああ、もう一つはだな」
「…すげぇな、ナツメ」
あんぐり半開きな彼と、たわわな頬袋の彼女の前、ナツメはふっと目を伏せる。コーヒーの蒸気も失せた乾いた唇から紡ぎ出す。
ーー依存。
「ジュリはお前に依存している、と言った」
え、と間の抜けた声が返る。顔を見合わせたエドとマギー。やがて口を開いたのは片方だが、どうやら思ったことは同じらしい。
「いや、だってそれは事実じゃねぇのか?」
誰が見たって。まさにそんな様子だった。しかし
「……違うよ。アイツも多分もう、気付いてる」
違う、とな。
意味深な打ち明けは更に、神秘の薄膜を纏ったのだ。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
ーー限りなく透けた半透明の紅の欠片が降り注いでいた。
【Daimyo oak】…俺の名の意味を持つ大木の下。
崩れ落ちる音に振り向いた俺の息は一瞬のうちに詰まった。がむしゃらに駆け戻り背中をさすって、やっと戻った息遣いを確かめるなり力いっぱい抱き締めた。
ーーもう離したくない。お前がこの世界に居る限り、このまま帰りたくなどない。
許されるなら
奪ってしまいたい。
ーーやっと逢えたのにーー
そのとき多分、奥深くのどっかしらが蠢いた。それはみるみるうちに巨大化して恐怖と塊と化した。
失う…恐れ。たまらない絶望感に駆られた俺は、きっと…
ーー樹里…!
口、開けーー
あの瞬間、俺は、きっと、“手”の使い方を忘れた。口から口へ移し合う、かつてそれは“当たり前”だったから。
問題は、現世それをしてしまったことだ。もう当たり前なんかじゃない、それは特別な状況、更に特別な者にのみ許される特別な行為だったから
…目覚めてしまったのだ。俺も、彼女も。
『隠れ家』での初日は駆け足だった。予測はしていたが呆気なく、数分、数妙と見紛う程に早く過ぎた。
ある程度のことは出来た。オンボロな小屋の補強も、掃除も、ハムエッグを作ってやることも。
服は明らかに足りない。危うげな彼女の姿はなおさらそのままという訳にはいかず、サイズが合わないのを承知の上で俺の服を着せてやった。大は小を兼ねる。いやむしろ特大、と言ってもいいくらいだが。
上下共にぶかぶか。無地のシャツの袖を何十にも捲り上げた彼女の姿は、あの日、あの世界での帰り道を思い起こさせた。下のスウェットパンツはウエストの紐を限界まで絞ってもまだずり落ちそうで危なかった。なるべく見ないように努める、くらいがせめてもの抵抗で。
埃を取り払った部屋で落ち着く、深夜。うとうと船を漕いではもたれかかる彼女をベッドまで運んだレイは
「先に寝てろ。見回りをしてくる」
そう告げて小屋を出た。鍵の施錠は三度も確かめた。なるべく早く戻ろうと決めて闇の荒野へと向かった。
寂しい場所だと改めて思った。夏間近だけど、もしここに彼女が居なかったなら、きっと凍て付き凍え死んでしまうのではないか。
未だある、そこかしこに残っている、痛々しい戦争の爪痕を眺めながらレイは一人、想いを馳せる。
ーー樹里。
彼女に出逢う前の俺はこの戦争を経験した。操縦士のライセンスはここでも生かされた。あの頃は正義感そのものだったけど、結果的に数多の血を流す手助けをしてしまったのだ。
多くを失った。尊敬していた上司も、友人の何人かも。それでも待ってはくれない無情な時は、未成熟な心を置いて表向きの身体ばかり、こんなにもでっかく成長させてしまいやがった。
ただいかついだけで兄貴、お兄ちゃん、と呼ばれ、職務経験が長いというだけで、先輩と呼ばれた。
この獣じみた瞼の奥から、流した涙を皆は知らない。
俺はもう、限界だった。
そんなときに出逢った、救ってくれた、唯一の存在だからこそ
「ジュリ」
俺は……
鬱蒼とした林の側で仰ぐ天。相変わらず幻想的で居続ける星空が少しばかり恨めしくって目を細めた。そのとき。
……!
遠くから届いた。確かに放った、そこへ向かってレイは振り返る。
覚えのあるものだった。まさか、こんなところにも?逸る足取りは迷わず木々を縫い、草を掻き分けて進んだ。
「お前……」
ある程度深くまで、進んだところで立ち竦んだ。見上げる鋭い目、なびく白い毛並み。それでもレイに恐れはない。それどころか頬を緩めて歩み寄るのだ。
狼。
スカイウルフの子ども。
「どうした?こんなところで」
グルル……
「独り、なのか?」
ワウ!
「…そうか」
ちょこんと大人しく座って、牙を向きもしない。こちらもまた警戒はしていない様子。
レイもまた合わせるようにしてしゃがみ込む。星明かりを受けて白から銀へと変わりゆく狼の毛並みを撫でながら。
「お前は綺麗だな。俺とは…大違いだ」
苦笑してしまう。アイツといい、お前といい、何故こんなにも神々しいのだと思いながらも、澄んだ瞳の色…アメジストのような紫を確かめて
【レサト】
孤独な狼に名まで与えたのだ。
さすがに連れて帰る訳にもいかず家路に着いた。レサトもわかっているのか、名残惜しげに見つめながらも付いてくることはなかった。
ーージュリ。
すぅすぅと安らかな寝息を立てている、頼りなげなケット・シーを見下ろして安堵の息をつく。空いたわずかな隙間に腰を下ろすと、そっと顔を近付けて。
ーー樹里。
抗う術も知らないお前は、いつだって奪われてばかりだったな。葛城にも、そして柏原にも。
だから、これからは…
沢山の優しいキスを、お前に。
隣に落ち着いてぎゅっと背中から抱き締める。痛くなかったか、と心配したところへ、寝返りを打った彼女がむにゃむにゃ言いながらこの胸へ顔を埋めてきた。可愛すぎて今度は頭に口付けてしまった。
深夜は更に深く。だけどいずれ朝は来る。
いっそもっと、深くまで沈んでくれないだろうか。自分勝手に終わらない夜を願った、そこへ
アオォ……ォォォ…ン
オオ……ォォン……
遠く遠くで鳴いている。呼んでいるかのような声に、レイは横長の唇を薄く開いて答える。
ーーまた会いにいくよ。
こいつにも紹介したいからな。
もしお前が望むなら
そしてこいつも受け入れてくれるのなら
そのときは家族になろう。
俺たちはもう、独りじゃないんだーー
ーーレサトーー
ウォォォ……ォン…!
遠吠えは響く。林から小屋へ、そして
小屋から、林へ。
うぅ…っ。
「ジュリ?」
ふと苦しげに、身を捩る動きがあった。さっきまで安らかだったのに、悪い夢でも見ているのか…?レイは心配になって覗き込む。ジュリがうっすら瞼を開く。
レイ……
わずかばかり、現実に戻った。彼女もまた安堵した様子で。
「良かった……」
そう言ってまた埋まる。レイはまた、抱き寄せる。語りかける。優しく。
「大丈夫だ、ジュリ。傍に居るぞ。これからもずっと、お前と俺は……」
ーー独りじゃないーー