勿忘草〜カナタの私とユキの君〜(夏の再来)
ーー大丈夫?
優しく案ずる声の主が手を差し伸べる。無様に床へ伏した。そんな私へその人は、更に。
「君、名前は?」
何故それを聞く?
意図するものがまるでわからない。だけど、見上げたその姿には覚えがある。役職も然り。
いや、問われたからには答えるのが礼儀だ、と考えを改めたナツメは何食わぬ顔を決めてサラリと言う。
「秋瀬ナツメです」
もちろん、本来はそんな組み合わせではない。何のことはない。前世の苗字だ。
とりわけ変わっている訳でもないのが幸いとばかりに採用した、仮の名。しかしどういう訳か。へぇ…!と声を上げた。見下ろすその人の表情は好奇なる形へと変化を遂げて。
「ナツメさん、かぁ。親御さんは文学好きなのかな?」
「…何故、文学?」
「え!」
驚きの声と共に目まで大きく見開いて。
「日本のお札の人、まさか知らないの?」
「お札…??」
うーん、としばらく思考した。そういえば、と思い出した。
日本なるこの国の紙幣には確かに人の顔が描かれていたな。言われてみれば見たような気もする、有名人。なるほど、あの中の誰かがこの名を持っているのか。
ならばとりあえず。
「私、生まれてこのかた海外住まいでありまして、故に…」
これが無難。我ながら名案、などと早過ぎる安堵に内心頷いていたときだ。
……!
ぐいっ、と力強く引っ張り上げられた。こんな細いのに?私の知る男たちのそれとは明らかに違う、ぶかぶかに余った白衣の袖に見入っていた。
「秋瀬…なのに、ナツメかぁ。ここにあいつが居れば見事に春夏秋冬なんだけどね」
“夏”
…故の“ナツメ”ではない。そう返したい気持ちを抑えて別の問いを返した。
「どういう意味です?」
「あぁ、僕の弟が春樹っていうんだ。で、僕が冬樹」
ーー磐座冬樹
「ね。君と合わせると春夏秋冬、でしょ」
へなっ、と締まりなく眉を寄せて笑う姿。冬樹…口にする寸前でかぶりを振った。振り切ったナツメはキッパリと、冷ややかに言う。
「あの、磐座准教授」
そろそろ手、離してもらえません?
あっ、と短い声を上げるなり登りつめるバロメーターが彼の顔を朱に染める。
「ご、ごめんね。僕、心配で、思わず…」
いい歳して。この人は童貞なのか?あるいは箱入りのボンボンか?しげしげと眺めるナツメの前、それより!と声が上がった。何やら切り替えた様子の彼が両の腰に手を添えて言う。
「そんな高いヒール履いて…危ないじゃないか」
まだ赤みが引いていないくせに。
「ほら、膝のところ痣になってる…」
威厳を見せようったって、もう遅いですよ。
やがて伸ばした手を一度引っ込めた。それでもまたためらいがちに掴んだ。私の手を取った、その人。
「手当てしよう。早く治そう。女の子なんだから」
ーー初夏。放課後のキャンパス内。人気のない廊下の片隅。
それが彼との出逢いだった。
徐々に、日を追う毎に知っていった。国立大学准教授・磐座冬樹というその人は32歳という年齢の割にはやけに白髪の目立つ人。いや、実際のところ、これくらいの歳なら白髪の多い者も珍しくはなかろう。単に年相応の洒落っ気を備えていない。そう捉えるのが妥当なところだ。
更に無頓着なのはそればかりではない。皺だらけの白衣はアイロンの恩恵を受けたことがないのか?狭過ぎる肩に細過ぎる腕…ちゃんと食しているのか?
威厳の欠片も感じられない、泣き顔みたいな笑み…何とかならないのか?元はなかなか整っているのに、もったいない。
前世の私だって決して逞しい方ではなかったが、もう少しマシだったぞ?
彼に対して浮かぶ感想と言ったらどれもこれも、申し訳ないくらい否定的なものばかり。なのに、これは一体何なのか。
ーー秋瀬。
ーーおはよう、秋瀬。
取って付けたはずの名が色を帯びていくようなのだ。息付いていく…例えるならば、そんな感覚。
そして何故か妙に懐かしいと気付いた。
脳の左側ばかりを動かしてきた私が何故だかこんなことを思う。滑稽。実に滑稽だ。そして…
「先生…」
本当は口にしたい響きを紛らわして、呼ぶ。いつの間にかごく自然に出入りするようになった准教授の個室。そこは夏の陽気を程よく薄れさせ、柔らかくする。
心地の良い時間。それはきっと陽射しのせい。冷房の適度な温度設定のせい。
嫌いじゃない、薬品の匂いのせい。
あなたの…
あなたの、気配の、せい…?
この私が、研究以外のものに惹かれ、焦がれて、いる?だと?
そんな。
馬鹿な、こと。
ーーある日の放課後。
通い慣れたキャンパス内の一室。人工的な苦い匂いが占める場所。
夕の紅に染まりゆく窓際で彼の身の上話を聞いた。
ーー磐座は代々続く地主の家系でね、僕がいずれ継ぐことになるんだ。好きなことができるのは今のうちさ。
僕の弟…春樹は、好きな女の人との結婚を反対されて、駆け落ちしたんだ。
娘が生まれたって、随分前に聞いた。僕の姪っ子だ。だけど、居所は未だにわからない。
自由な奴だよ、あいつは。散々振り回して好き勝手やって、それでも何処か憎めない。だって春は暖かいから。
みんなに愛される季節、だから…ーー
寂しげな声色は密やかに舞い降りる雪の如く。私の奥にまで降って、冷やす。
極寒の地で震えが起こるのは自然なこと。だって、人体はそうして熱を起こすのだ。淡々とした生物学で紛らわそうとしていた。しかし、無情なことに。
私……冬が好きです。
思いのほか、上昇していく。抗えない熱が震える唇を割ってこぼれ出してしまう。
「冬樹さん、が……私、は……」
止められない熱い雫となって溢れ出してしまう。
はっ、と息を飲む音は窓際から。頼りない身体が繰り出したものとは思えない速さで迫った彼が掴んだ、私の肩。
秋瀬!
焦燥に強張った彼が呼ぶ。その響きは…
「先生と呼びなさい。その名前で呼んじゃ…駄目だ」
絶えず涙を流し続ける、ナツメの耳にはもはや悲鳴にしか聞こえない。
「ずるいです。自分から名乗ったんじゃないですか、ずるい、ですよ…!」
「秋瀬…っ!」
まだそう呼ぶの?内なる問いかけに胸が詰まる。
もういっそ壊れればいい。いずれ最後が来るのなら、いっそ早い方がいいのだ、なんて一抹の期待を込めて叫んだ。駄々っ子みたいに、我儘に。
「私も名乗りました。無責任に。駄目なんてわかってます!あなたも私も責任なんか取れない。それでも…っ」
だってあなたは地主の跡取り。いえ、むしろ、それ以前に“世界”が違うのだ。終わりは、来る。これは永遠なんかじゃない。きっと運命などでもない。
それでも…
それでも。
「覚えていてほしかった……!」
呼んでほしかった、もう一度。
私の、名を……
ガッ、と一瞬のうちに引き寄せられる、強過ぎる圧力に息が詰まった。嘘…嘘、でしょう?漆黒を見開き戦慄くナツメの耳元でつん裂く響きが
「ナツメ……!!」
欲して止まなかった形を成す。あろうことか、こんな哀しい……
悲鳴となって。
情熱の象徴とされる、紅は沈む。なのに、熱は登りゆく。
哀愁の准教授と偽りの生徒は、もう、抗うこともかなわない。こうなってしまった以上、知ってしまった以上、堕ちていくのは容易いのだと知った。
夏…だけど、ひんやりしていた。眩い星明かりを遮る窓は氷の膜のよう。
辿っていく彼の指先は冷たく、痺れを与える…真冬の静電気のように……
響いて。
ーーねぇ、ほら。
見てください?
星が綺麗ですよ。天の川が見えますよ。
今宵はとても美しい。この上なく幻想的な夜…なのに。
私たちときたら酷いもの。
何もかも忘れて、己をかなぐり捨てて
息も詰まるくらいのこんな幻想に、今の今まで目もくれず
…滑稽、ではないですか。ねぇ。
「ーー冬樹さん」
そう。
滑稽、とは
時に罪なのだ。
数多の輝きは氷の隔りの向こう。数多の想いをいくつ口にしたかもわからない。いつの間にかおのずと、シーツを胸元へ手繰り寄せて窓際へ。薄い布一枚を纏ったナツメは微笑と共に振り返る。彼へ。
ーーナツメ。
乗り越えてしまった。こんなことをしておきながら今更、と言ったところか。もうためらおうともしない、その響きで呼んでくれる。儚げな笑みの人、冬の人。彼は言う。静かに。
「本来これは尊いことなんだよ。僕らはこうして後世を生み出し繋いでいく。そこに愛を持ち込んだのは進化の最先端、人、なんだけどね」
生物学者らしい。しかし、そこはかとなくロマンを漂わせている。
ただ、僕らは…
彼は続けた。
「僕らの場合は、状況が許さなかっただけさ」
「そう…ですね」
「このまま逃げる?僕らも」
「…駄目ですよ」
ちょっぴりふざけるその人の、何処か本音じみた声色を遮った。ナツメは再び窓の外を仰ぎ見る。未だ甘い余韻に浸りたがる瞳をそっと伏せたとき。
これは…?
一人暮らしの質素な部屋によく似合う、こじんまりのした木製の机の上にあった。頼りなげな小さな紙。なのに、そこに納まっているものは未だ地の恩恵を受けているかの如く、瑞々しい青色で。
ああ、それ。漆黒の視線の先に気付いた彼が口を開いた。教えてくれた。
「それは押し花の栞だよ」
ーー勿忘草
「僕の好きな花だ」
「忘れ……ないで」
口にしたのは紛れもなく己。何故今、それが出てきたのか驚き、言葉を失うナツメに冬樹は微笑んで答えた。
「哀しい言葉だよね…“私を忘れないで”。誰が聞いたって別れだとわかる」
でもね、知っているかい?
「その花の言葉は他にもあるんだ」
「それは…?」
彼は言った。勿忘草。名の響きだけでも物悲しい青色の花が持つ、他の意味。
それは目を見開き立ちすくむナツメの奥深くを貫いた。
……っ!
そして思い出したのだ。
出来事自体ははっきりと記憶している。明るみ始めたのは
冬樹、さん…あなた、まさか……
ユキ、なのか?
今では遠いあの日、旅立つ私を見つめて涙ぐみながら手渡した。まさにこの花。そうだった。
「学校ではちゃんと先生と呼ぶんだよ。僕も…秋瀬って呼ぶけれど、悲しまないで」
困ったように笑う、その人の言葉の途中でナツメの胸はドクン、と高鳴った。秋瀬。何故そう名乗ってしまったのだろうと、今更のように後悔がつのった。
ーー行かないでくれ!そこは危険だ。いくら君だって…ーー
ーー秋瀬…!!ーー
もうその名で呼ばれたくはなかったのに。とりわけ君の口からは。
キレの悪い痛みの後は疑問が浮かんだ。蠢き出した脈拍が不穏な響きを鳴らして走り出す。脂汗が滲む。早く、早く、とめどなく、どうにもならない程。
ーー何故?
何故君がここにいる?
君の前世はこの世界の人間だ。命尽きたその後は、物質から解き放たれてあっちの世界に生まれたはずだ。
なのに確かに感じる。ありありと残っている波長。
通常、現世の一つ前の波長が残るものだ。しかし彼からは私のよく知る方しか感じられない。間に別の生を感じないのだ。
生の長さに関係なく、前世は確実に残るはずなのだ。あり得ないはずなのだ。もし例外があるとするならそれはきっと、想像するだけでも恐ろしい異常な事態。
二度、同じ世界に生まれるなど。
「冬樹…さん…」
何があったのだ?私の死の後、君は一体どうなってしまったのだ?
先に逝った私に知ることはできない。研究もまだそこまで追い付いてはいない。未知だ。滑稽だ。この世界はまだ、そんなことだらけだ。だから…
「ナツメ…」
教えてくれ、ユキ。
星明かりの青みを纏ってゆらり歩き出す。辿り着いた彼の元、青白い頬を両手で押さえた。震える瞳で見つめるとまたあの強い力が抱きすくめる。一枚きりの布は足元まで崩れてしまう。
冬樹さん…もう一度、だけ。
我儘と知りつつも願いを口にした。彼が柔らかく苦笑するのがわかった。
「…悪い子だ」
そう言いながらも受け止めてくれる、彼のぬくもりに再び身を委ねた。熱い血の満ち引き以上に抑えの効かない想いが巡っていた。
ーー例え罪でも。
こうして再び出逢えた。あのときは気付きもしなかった。今更のように実感している、己の気持ち。そして、君の…
今は君の
確かな息吹を感じていたい、と。