勿忘草〜カナタの私とユキの君〜(春の芽吹き)
文字通りの番外編。省いて頂いても本編は成立しますが、ほんのちょっぴり今後の伏線も込めさせて頂きました。ちなみに「ナツメ」視点です。
注意点として
※R15感の多い仕様&同性愛描写を含みます
※本編は同シリーズ作品「真夏の雪に逢いに行こう」になる為、この三話だけでは完結しません。
……と、このような話なのですが、いいよ!という方は是非寄ってみて下さると大変嬉しいのです☆
ーーある日、新月の夜。
庭へ出ると狼が鳴いていた。細く細く、哀しく消えかかる遠吠え…しかしそれは錯覚に過ぎなかった。
耳をすませてみれば、それは呟き。
ーー私を…
私を
忘れ、ない…でーー
草原に佇んでいる後ろ姿は尋常じゃなく高い。一人称はそんななのに、振り向いたその顔の何と険しいことか。
不機嫌な訳でも煮え滾っている訳でもない、単なる顔の造形。その証拠とばかりに、青の双眼には溢れんばかりの潤いが満ちていて。
ーーナツメ。
こちらへ向かって呼んだ、その弱々しい声色で察した。
レイモンド・D・オーク
愛称はレイ。
ものも言わずに歩み寄る途中、私は一つの答えを導き出した。
遠吠え?鳴き声?いや、違う。
今まさに限界のときを迎えようとしている者の、悲鳴。
壊れそうな泣き声であると。
6月間近の深夜の草原は、霧雨の後のような夜露に満たされていた。ついに立っていることもままならなくなったのか、静かにへたり込んだそいつの隣に腰を下ろすと、冷たく濡れる感触がすぐに臀部まで到達した。
心地良さなどとは程遠い。しかし、私は決めたのだ。癒えない傷を抱えて帰ってきたと容易にわかる、こいつの拠り所の第一号となる覚悟を。
なかなかこちらを見ようとはしない、虚ろに陰った目の色を懐かしく思った。こうして傍に居てやるのは二度目だった。
ーー話したくなったら話せ。
お前のタイミングでいいーー
そう言ってやるくらいしかできなくて。
奴はなかなか口を開かない。きっと何処ぞへ向けて…いや、もしかすると己自身へ噛み付きたいであろう牙はいつまで経っても固い真一文字の奥に潜んだまま。
それでもわかってしまったのだ。
名残惜しげな眼差しの向かう先が、空っぽの手のひらだと気付くなり、つい先程耳にした“悲鳴”と繋がっていったのだ。
ああ…
その手にはきっと、あの花があったのだな。
こっちの世では、決して形になることのない。
そして私はもう一つ、気付いたことを口にしたのだ。
ーーレイ。
お前も、出逢ってしまったのだな。
厳格なる隔たりの向こう側で、忘れることの許されないたった一人に…
「恋してしまったのだな」
………っ。
「………っ!」
とうとう。堤防の崩壊の如く流れ出した。膝に向かって雫をこぼし、顔を伏せたそいつは子ども返りしたかのように泣きじゃくって。
ナツメ…
俺……ッ…!
閉じ込める蓋が外れたが最後、ぶちまけるのは簡単だったに違いない。意図せずとも、こちらが引きずり出す必要さえなく、己から暴露したのだ。順序など滅茶苦茶。時系列も。組み立てて整理してやったのは、私だ。
レイ。
狼の因縁に囚われし男よ。
この昔話はお前に必要だろうか?
こんなものなど…いや、しかし…
迷い続けた私が選んだのは結局
「こっちに来い、レイ。抱き締めてやろう」
照れることも抗うことも呆気なく忘れている大の男を強引に引き寄せることくらい。そして…
ーー何ということだろう。
しっかり監督してきたつもりの部下が、同じ禁断の果実に触れてしまうとは…
不覚、ですよ。
ーー冬樹さんーー
想いを馳せることくらい。
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【稀少生物研究所・生物研究班】
涼やか…を通り越して冷感さえ感じさせる漆黒の瞳は、行くべき先をしかと映し出して細まる。それから腰近くまでの長い黒髪を一本の遅れもなく捻って纏め上げる。纏った白衣とのコントラストは目が覚める程に、鮮明。
ーー動物属性の者の転生は早い。
死を迎え魂に還ってから、次の生の波長を得るまでの期間は平均して1年〜10年以内。最短の記録は半年!
例外として人への転生の場合は最短でも15年を要する…
絵空事などど称されてきたこれには今!確かなる実証が。
こちらのデータをご覧下さい!ーー
映し出されたスクリーンに目を凝らす人々がグラフの意味を理解するなり、おお!という唸るような歓声をそこかしこから轟かせた。続いたのは空気さえ震わせる程の拍手の群れ。
常日頃、ふんぞり返って顎で指示する上司も、一方的にライバル視してくるいけ好かない同期も、可笑しいくらいに目を丸くしていた。まさに勝利の美酒。クールな顔を決めながらもじんわりと奥で広がる甘美な味をしかと確かめたあの日。
行き先は定まった。年齢にして19歳。
まだ大多数の者が半人前と呼ばれるその歳で、生物研究界におけるトップクラス【稀少生物研究所】生物研究班副班長の座を手中に収めた才女・ナツメは、白衣、シャツ、タイトスカート、更にはこの日の為に履き慣らしておいたスマートなパンプスを鳴らして、颯爽とこの場を訪れた。
寸前になって思い出した銀縁の眼鏡をかけ、研究室のドアを開け放つと、当初カチンコチンに強張っていた面々が徐々にほころんでいった。
ふっ、とニヒルな笑みを浮かべる、当の本人ときたら実におめでたいものだ。何も気付いていない。
シャツのボタンを掛け違えていることにも、ヒールに泥が付いていることにも、アイライナーで眉毛を描いていることにも。全く気付いていない。滑稽。まさにそれなのだが。
「初めまして」
「ナツメ副班長、宜しくお願いします!」
ふふ、とこぼれるいくつもの含み笑い。温かく出迎え、受け入れようとしてくれている研究員たちの優しさにも気付きはしない。
滑稽、とは
時に幸せなのだ。
逞しい男が活躍している…というのはあくまで表の顔に過ぎない。意外と女性比率の高いこの研究所は、上昇志向の若き副班長にとって、存分に手腕の振るえる格好の住処となった。
聞けばフライト活動を主とする生物保護班にも女が在籍しているという。前世の若かりし頃、衝撃を受けた女性パイロット誕生の記述。あれが今、自らが生きる世界でも当然のように具現化しているのか…と、ナツメの心は躍動を抑えられず。
方向性こそ違えど高みを目指す心意気は劣らない、とばかりに、来る日も来る日も寝食を惜しんで研究に励んだ。顕微鏡に噛り付き、データの海へ臆せず泳ぎ進む、貪欲なその姿はやがてワーカーホリックと称された。
まるで研究こそが恋人。しかし、だからと言って単調な日々だった訳ではない。まさか!そんな!思わず感嘆の響きを上げてしまう、驚きや発見にだっていくつも出会ったのだ。
「お前…は…!」
そう、これもその一つ。
円らな琥珀色の瞳で見上げるキャラメル色の髪の少女にナツメは見入った。知っている波長。しかし、彼女はまだ13歳。何だか意味あり気に見つめてこそいれど、その意味なるものに当の本人は気付いていないよう。前世の記憶はまだ不鮮明であろうとその場は口をつぐんだ。
しかしそれは、現在の性別に不慣れな副班長の最初の誤算だった。
「女の人、でも、やっぱり、素敵」
好き、ナツメ。
わずか半年だ。たったそれだけの間に彼女…現【ヤナギ】は思い出した。
忘れもしない。かつてあの物質世界に生きていた頃、青年実業家として名を馳せていた頃…
性別なる括りも異なるものだったあの頃、自分を慕って付いてきてくれたメイドの女の子。
いつだって楽しそうに話を聞いてくれた。彼女の存在がどれ程自信に繋がったことか。
何故だか今世では表情の乏しくなってしまっている彼女に、もう一度話してあげたい。見せてあげたい。
めくるめく冒険の物語を。発見に満ちた輝かしい実績で、もう一度笑顔にしたい…!
これ程の野心を持ちながら女に生まれたことを一時期は悲観していた。しかし時代は変わった。
未来への希望と過去への慈しみを同時に得たナツメの中に再び“青年”が蘇る。
もっと先へ、もっと未来へ。
目指すは物質世界。
誰も恐れて進まないからこそやってみせよう。作り上げてみせよう。新たな冒険の物語を。
滑らかなキャラメル色を撫でながら微笑んだ。いつまでも君のヒーローでいてみせよう。
そんな想いで繰り出した一歩が、
まさか後戻りの出来ない迷宮への一歩となるなど
自信と野心に満ち溢れていたこの頃に、想像できたはずもなく。