15.永遠の白よ……導いて(後編)
ーーあれからどう過ごしてきたのか。
何を食していつ眠ったのかしら?
待ち焦がれていた紫陽花には会えたっけ?学び舎では何を得たかしら?
田園の帰り道。隣には葛城君が居る。ものも言わず。いつもだったかしら?いつから…だった、かしら?
新緑があった場所、そこは今、乾いた茶に染まっている。寂しそうな深みの色…今は10月だそうですね。
また覚えています。あなたが生まれた月、だそうですね。
「なぁ、磐座。お前今…体重いくつ?」
ある日の帰り道。年頃の女子に対するものとは思い難い問いを投げる、葛城の表情は至って真剣だ。
「そんなに痩せて。飯ろくに食ってないんでしょ?」
「…大丈夫ですよ」
「大丈夫な訳ないだろ」
身体だって弱いのに…斜め後ろを付いていく葛城が呟くも、樹里は相変わらず何も届いていないといった風に、淡々と乾いた地を踏み締め進んでいく。包む景色もまた移り変わっていく。淡々と。
神社に差し掛かった頃、痩せ細った白い脚がようやく歩調を緩めた。唯一残っている、未だ思い出の中に生き続けている“私”が思い出の場所へ視線を傾けた。
枯葉を携えた、カシワの木を見上げた。そのとき。
「なぁ、磐座。聞いてくれ」
高らかに。葛城拓真の持つ声が放つ。ためらいがちに続ける。
「俺…思い出したんだ。何で今まで忘れていたのかわからないんだけど…」
ーー柏原怜。
「アイツだろ?あのデカイ奴だろ?お前が探してんのは」
ゆっくりと振り返る、樹里の瞳は遅れて震え出す。一瞬息を止めた葛城が前に踏み出して叫ぶ。
「何故だか他の誰も覚えてないんだけど、俺はもう覚えてる!だって殴られたんだ!ムカつく奴だ。お前をしれっと独り占めしたあんな奴…嫌いだ。だけど…!」
樹里は見入る。遅れて光を取り戻す。
「お前がどうしてもってんなら、俺も探す!どうしても…アイツじゃなきゃ駄目ってんなら…」
「葛城君…!」
おのずと駆け寄って迫った。汗ばんだ彼の手をためらいもなく握って、下から覗き込む。潤い始めた漆黒の瞳。そこに映っていたのはわずかな光、だけ。
「怜が何処にいるか…わかりますか?」
あまりに急激に、我を取り戻した為だろうか。答えならもう聞いていたはずなのに。当然葛城は首を横に振って示す。苦しそうな面持ちで、声を詰まらせながら返した。
…わからない。
当然だ。だから探すと言ったのだ。
この世界で、この町で、彼を覚えている者がもう一人居た。しかし、それは樹里にとって希望となりはしなかった。
「そう…ですか」
「磐座、でも俺…っ!」
「この場所」
樹里は見つめた。もうそこしか見えなかった。
「ここで、彼は私を抱き締めてくれました。生きているって教えてくれた…」
「……っ」
「怜は、柏原怜は居たんです」
苦虫を噛み締めたが如く端正な顔を歪めていく葛城。必死に耐えている、そんな彼に樹里は声だけで告げる。悪意こそなくとも、残酷に。
私はもう…
「この場所にだけ居られればいいのです。永遠に」
「磐座…!」
「ずっと怜の傍で」
「やめろよ…っ!」
ついに力強く引き込まれ、樹里の身体はがくん、としなって傾く。すっかり艶を失った髪に顔をうずめる葛城の腕は限界とばかりに震えている。声までも。
「もうやめろよ。こっちを見ろよ…悪かったよ、謝るからさぁ…磐座」
「………」
「アイツはそこまでしておきながらお前を置いていったんだろ?こんなになるまで…何で、何でっ、現れない!?」
微動だにしない乾ききったミイラのような身体を抱きすくめる。骨の浮いた腕をさする葛城は、涙を散らせて叫んだ。
「ふざけんなよ…柏原!」
ちくしょう…!
ちくしょう…ッ!!
ーー秋の夜は早い。同じくらいの時刻でも、5ヶ月の差は大きい。すっかり陽の落ちた空、カシワの木の下に木漏れ日など降りはしない。
それでも樹里は微笑む。虚ろな漆黒には、思い出に生きることを選んだ哀しいその目には
降り注ぐ、紅。
その色しか映らないのだ。
いくつかの可能性を考えた。皆が皆、覚えていない。それが何を意味するのか。
本当に忘れてしまった?
私が数日休んでいた間に彼の存在は皆の中から泡のように薄れてしまった。それ程希薄な人間関係しかなかったのか。
口裏を合わせている?
何の為に?全く思い当たらない訳ではない。祖母はあんなことを言ったのだ。磐座の権力を持ってすれば町人全員の巻き込むことくらい、もしかすると…
眠れもせず。まだ朝日も昇らない時刻に、一人っきりの自室で、珍しくあれこれと想像を巡らせていた。
そしてついに、最後の可能性に辿り着く。
彼は…
彼はやはり極道の人。
何らかの事件に巻き込まれて…
その存在を…
この町から……
「………っ」
死んで…しまって…?
「嫌……」
嫌……ぁ、
あああ……ッ!!
細く裏返る悲鳴がこぼれた。震える漆黒はついに限界を迎えて血走る。骨と皮だけになったかのような硬い感触の肩を抱いて、顔だけを枕に埋める。息が詰まるその差中で、一つの決意が固まっていく。それならば…と。
あんなに乱れて泣き尽くしたのに、一度動き出した後は、嘘みたいに落ち着いていた。行き場所が定まったからか。
ーー11月上旬。時刻は午前5:30。
「何だい、お嬢ちゃん。そんな格好で…!」
中に入るなり、驚きの表情で振り向いてきた運転手に樹里は悪戯な笑みを作って返す。精一杯に明るい声色で答える。
「遅いハロウィンのパーティーに行くのですよ。似合ってますか?」
「お、おぉう!“はろいん”か!びっくりさせないでくれよぉ、幽霊が出たのかと思ったわい」
「…ごめんなさい、おじさま」
安堵した様子の運転手はガッハッハ、と豪快な笑い声を上げて前へ向き直る。明け方前の薄暗い空の下タクシーは走り出した。空気はやがてしっとりとした潮気を帯びていった。
こんな場所で降りるのかい?
再び心配そうな顔を後部座席へ覗かせてきた運転手の男に樹里は至って平然として答えた。
「あら、ご存知ないんですか?ハロウィンパーティーは海沿いのペンションを使って一日中。昼はBBQ、夜は手持ち花火。基本ですよ?」
口から出まかせだ。しかし。
「お。おう。そうなのかい?“ぺんそん”とはねぇ…最近の若いモンは洒落た風習を身に付けてんのなぁ」
ガッハッハ、とまた笑って運賃を受け取った。樹里は最後、精一杯に年相応とおぼしき笑みを見せ付けた。
最後…いえ、最期。
潮風が纏わり付く白装束を更に痩せた身に張り付かせる。小道具として持って来たモッズコートは進み行く砂浜の途中に捨てた。
波打ち際は泡立って。海は唸る生き物の如く荒れていた。まだ暗い空の色を映している広大なその場所は全体的に冷たげで、暗い。
それでも樹里は進み行く。寄せては返す動きの中へ浸かった脚に、凍てつく波が容赦もなく這い上がっても…
「怜…」
青みの色へ変わっていく唇で紡ぐと震える、愛しい人の名。夜じゅう考えた可能性が断片となって、水飛沫のように脳内に舞った。
忘れられた。
口裏合わせ。
そして…死んでしまった。
いずれにしたってあなたはきっと独り。はっきりとわかる気がした。彼は…決して踏み込ませてはくれなかったあの孤独の中で、今もなお打ち震えているのだ、と。
このままになんてできない。あなたを知ってしまった以上、私は、あなたの居ない世界になんて生きられない。そしてそれは…あなたも、でしょう?
「怜……!」
もつれる足は、それでも奥へと進んでくれた。吸い込まれるみたいに。肩まで浸かった海水は冷たく、全身の感覚という感覚を麻痺させていくよう。飛沫は何度となく顔を覆う。もう呼吸もままならない。
だとしても、これだけは消えることなどないのだろうと思った。
怜…大切な人。愛するあなた。
令嬢などではなく、一人の女として
磐座樹里はここに誓います。
今、逝きます。あなたの元へ。
そこにあなたがいなくても、魂で寄り添える手段がここにある気がするの。
どうか私を受け止めて下さい。
そしたら私…今度こそ、永遠に…
氷漬けのような空が砕けた。舞い散る欠片にいくつもの思い出を見た。
青い花の贈り物、額を合わせた河川敷、微笑みだけで成り立っていた帰り道に、悲し過ぎた重なり合い…たった一ヶ月程度だったはずなのに、何と多いことだろうと涙が溢れてくる。
冬の空ばかりでなくこの心まで溶かしていく朝日へ指を伸ばす。光。それは私の中で響きを変える。
ーーレイ。
「泣か、ない、で。待って、いて…私、あなた、の…」
居場所になります。
ーー周囲からしたらきっと不可解だったであろう行動も、抑え切れない本能も、執着も…今ならすんなりと理解できる。
ーーレイ…欲しいよ…ーー
完全に移ることはできなかった、結果。こんな半透明になってしまった不完全な幽体は知っていたのだ。この世界で完全となる手段を。彼と繋がる方法を。
だって、人型ケット・シーは限りなく人間。発情期なんて、本当はないもの。
無理矢理迫ったあの夜を思い出すと、羞恥以上に罪悪感が胸を占める。安らかに落ち着いた寝息を立てる彼の髪を撫でながら、ジュリは
「…ごめんね、レイ」
誘惑したって私を奪いはしなかった。フィジカルでもアストラルでも、あなたはこんなに優しいのに。私はあなたの傷を更に抉ってしまったのね。
もう何時間経ったかもわからない、夜。他に手段はなかったのかと考えてみた。だけどやっぱり無理で。
二つの世界には本来超えられない隔たりがある…皮肉。そして、無茶な行動が起こした…奇跡。
きっと何人もの人を巻き込み、振り回し、時には自分への想いまで犠牲した。誰よりも愛して止まない彼さえも傷付けた。
そして今、前世も思い出し始めている。ケット・シーだった頃。共に恋に落ち、家庭を築いたかつての伴侶を忘れた訳ではない。大切な我が子が生まれ変わった先で、元気に生きていてくれることを心から願ってる。
傷だらけのレイがミクに咥えられて帰ってきた昨日、遅れて目覚めた私にナツメが言った。
もう選んでしまった、この判断をしたとき
ーーお前の抱えていく記憶は膨大だぞ?ーー
それもわかってる。前世の記憶が少しずつ形成させていくのを今まさに感じている。
もしかしたら…って、淡い期待なんかを込めて記憶の中を探してみたけれど、やっぱりそれはなかった。前世にレイの波長はない。この人とはやはり、今世、初めて出逢ったのだ。
何度となく生まれ変わり、何度となく出逢うことを“運命”と呼ぶのなら、私たちはまだ運命にすらなっていない。なのに、何故かしら?不思議なことに。
…初めて、ではない気がするの。
「レイ」
まぁ、いいわ。気を取り直したジュリは寄り添う。傷痕が潜む包帯の上へ、星明かりの青みを帯びた頬へ、そっと唇で触れていく。何度も、何ヶ所も。
「ーー愛してる」
沢山沢山、傷付けてしまった。元凶は私だった…だからこそ。
これからは沢山の温かさを、あなたに。
今はもう遠い場所、今世では二度と戻らないと決めたあの小江戸の町。
記憶の中の紅は今、静かな藍へと移り変わっていく。隣の彼が寝返りを打った。無意識なのに、離さないとばかりにぎゅっ、と強く抱き締めてくる。心地の良い拘束に吐息を漏らすジュリはまた唇を寄せた。今度は瞼へ。
「もう独りじゃないよ。独りでなんて、泣かせないよ…レイ。だって、あなたに…」
ーーやっと逢えたのーー