14.永遠の白よ……導いて(前編)
信じられない出来事が次々と起こった。あれは、疾風が幾重にも交わって狂わす嵐のようだった。
ーー樹里、俺、ごめ…ーー
ん…っ!
信じられなかった。極め付けの衝撃を受けた、その夜。
「ーー樹里」
ちょっと宜しいかしら。
静かな面持ちの祖母に呼ばれた。熱の残る場所、小ぶりな唇に絶えず指先を彷徨わせていた樹里はそこでようやく我に返った。見上げる視線は虚ろなままで。
“親戚のお兄さん”
「花屋の木梨さんから聞きました。歳の近そうな男性だったと…」
年季を感じさせる和室の居間。音の一つも無い中に、厳かなる姿勢の祖母の声だけが流れて問いかける。皆まで聞かずともわかった。
ーーそんな人は居ないはずーー
厳かなる視線に見つめられて。
「樹里、あなたがそうまでして共に過ごしたかった方とはどなたなのでしょう?」
「それ、は…」
「いつかあなたを送り届けてくれた方…」
“柏原さん”
「その方ではないのですか?」
「………」
名を知っている。そのことに特に疑問はなかった。やつれたおぼつかない足取りで帰宅したあの日、他でもない私自身がその名の記された服に身を包んでいたのだから。
色…すなわち学年こそ違えど、同じ学校のものとわかるジャージの丈はあまりに長過ぎた。何重にも捲られた袖も、裾も、その厚みと言ったら尋常じゃなかった。
すぐに着替えて床に着くよう半ば強制的に促された私には為す術もなかった。自らの手で洗うことも、ましてや隠すことも。
洗濯の際に目にしたのであろう“柏原”の名。祖母はしかと覚えていた…今はそのことに、全身の強張りを抑えられない。
やがて祖母は長いため息を落とす。呆れ、とも違う、何処か覚悟を決めたような、諭すような面持ちで告げる。
「私は何も、頭ごなしに否定しようなどとは思っていないのですよ。ただあなたには見極める目を養ってほしいのです。柏原さん…あの方は高校生という割に随分と大人びた方でしたね?」
更に諭す。問いを交えて。
「私の経験から言いましょう。年相応でないのには、何らかの訳があるものなのです」
「…でも、あの人は間違いなく…」
「容姿の話ではありませんよ、樹里。高校生とは思いがたい紳士的な立ち振る舞いは見事なもの…内面も大人であるからこそだと感心したくらいなのです」
なのに何故?
「最も簡単であるはずの一つが欠けているのでしょう?」
「お祖母様、それはどういう…?」
樹里も問う。気を緩めたら瞬く間に足元から這い登って支配されそうな空恐ろしさに、必死の思いで抗っていた、途中。
ーー気付きませんか?
祖母の声が届く。深く、奥まで、容赦なく抉る。
「あれ程の礼儀を身に付けた殿方、しかし彼は名乗りませんでした。ご自身が何処の誰かも告げずにお帰りになったのを、覚えていますか?」
向かい合う漆黒の瞳がわずかに見開かれる。しかと捉えた祖母がかすれた声で、やはり、と呟く。
「樹里、あなたは賢い子…ですけどまだ若い。着目すべき点さえまだ心得ていないのです。何もかも始めから曝け出す人間などそういるものではありません。どんなに素敵な方に見えたとしても……」
“あれ”を告げられる。その前に。
ーーお祖母様。
察した樹里の声が遮る。静かに、ゆっくり、今度は自らが諭すかの如く。
「ご心配をおかけ致しましたこと、お詫び致します。ですがどうかご安心下さい。あの方…柏原さん?」
あえての口調。それに乗せて。
「彼は帰国子女なのだそうです。この町のことをまだ十分にご存知でない。あの日偶然お会いしたので磐座の者として恥じぬよう、町内をご案内させて頂いたのです」
「ですが、彼はあなたに贈り物を…」
「それは木梨のおじさんが勘違いをなさったからです。始めなんて婚約者だと思っていらしたのですよ。親戚ということにしておくのが無難かと思いました。だって…」
彼は何の関係もないのですから。
「ご迷惑にならないように、との判断です」
静かに慎ましく畳みかけた。訝しげな視線を正面から受けてなお、臆することはなかった。極め付けに優しげな笑みを見せ付ける。こんなことができてしまうのは、きっと
崩れた、から。
部屋を出ると薄暗い、冷たく纏わりつく湿気に饐えた木の匂いが混じって鼻を突く。磨かれてこそいれど古い旧家の家屋。磐座本家。
遠い記憶に残っている都会の狭いアパート。あの場所でひっそりと私を育ててくれた父は、どんな想いで歳を重ねてきたのか。何度、崩れては直しを繰り返したのか。
だけど、私はもう…
「直せない」
自室に戻る道のりの途中、月明かりが照らす渡り廊下で足を止めて呟いた。直せない。もう一度呟くと実感が迫りもせずに、ただ遠い場所で乾き、朽ちていくようだった。
ーーあの日。木梨花店を訪れたとき。
彼が手にした花の他にもう一種、見ていたものを思い出す。色は青。好きな色。あの言葉を持つその形は……鋭利。
【ブルースター】
あのときすでに教えてくれていたのだろうか。まだ一人で何もできない私に、それは駄目だと。早すぎると。
“早すぎた恋“……だと。
だけど実際はそればかりではない。花々の持つ言葉は一つじゃない。私は他の方を信じたかった。しかしそれも今、遠く彼方で佇んだまま、朽ちて崩れる音を響かせているのだ。
ーーもう、俺に近付くなーー
他でもない、彼に言われてしまったのだ。
されど如何にしてくれようか。これで最後と言わんばかりにありったけの熱を交わらせた。この頭にこの背中に、添えられた手は確かに慈しむような優しさを帯びていた。あんなものを受けてしまった、私は、もう。
「治せない」
その時。
ぴぃん、と一瞬の震えを空気に感じた。それは耳鳴りとなって鼓膜を、ついには脳までもを貫くように。
……っ!
体調不良?ストレスの影響?いや、それとも何処か違う。何か抗えない力に支配されていくような感覚に顔をしかめ、切れ切れに息をつく途中、樹里はすがるような思いで夜空を見上げた。
ーー月。
闇に囓られたみたいに浸食されている。下弦から三日月、そしてゆくゆくは姿さえ見えない新月へ向かっていくその形が、彼方へ薄れそうなあの人の姿を彷彿とさせ、あの悲鳴をこちらへ響かせてくる。
ーー忘れない、からーー
「忘れません…!!」
怜…!
続く空気の振動の中、樹里は高くへ手を伸ばして抗う。その意志はこれまでに感じたどれよりも強かった。
忘れない、と。何に遮られようとも、支配されようとも…怜、あなただけは、決して
忘れはしない、と。
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ついに月をまたいだ、6月上旬。
何もかもが目まぐるしかった。激しく荒れ狂う初夏の嵐は箱入りの令嬢にとって、あまりに刺激が強過ぎたのか。
下弦の月へ手を伸ばしたあの夜、私は渡り廊下で倒れていたそうだ。もう新月を迎えてしまったであろうこの日、数日の欠席を挟んでやっと登校した。
感情という感情が麻痺して、痛みさえも薄れていく。この人生の大半を占めたあの姿に戻っていくようだった。だけど、まだ一抹程度でも残っていた為か。校内に足を踏み入れるなり、感じた。
ーー何か、違う…?ーー
アドレスやIDの交換だって必要なかったくらい、いつだって見える位置に居てくれた、彼の姿がないことなど想定の範囲だった。覚悟していたことだった。
感じたのはそんなものではない。何か、理屈では示し難い、まさに“感覚”としか言いようがない。
かつてはごく普通、見慣れていたはずの日常がそこにあった。皆が皆自然に振舞っている。変わらず。
しかし樹里にとっては違ったのだ。つい最近、ほんの一ヶ月程度前に息を取り戻したばかり。故に、今目に映る“日常”は決して日常などではない。変わっていたのだ。180度とも呼べる角度へ、大きく。
………
「………っ!」
まるで駆り立てられるようだった。無邪気だった幼い頃以来、繰り出したこともないような全速力で走る樹里は、息を切らし、あっという間に一つの教室の前に辿り着く。
あの……っ!
たまたま引き戸の側にもたれかかっていた一人に向かって声を張り上げた。驚いて見下ろしたのは金の髪に複数のピアスをつけた二年生の男子生徒。鋭い目つきは訝しげな表情へ変化して更に柄が悪い。怖い。今までならそう怯んだはず。しかし。
「あの……柏原さん、居ますか?」
樹里は訊いた。とにかく知りたい。今すぐ会いたい。抑えの効かない想い、そして言い知れぬ不安に比べたら、目の前の不良少年に対する恐怖心など微々たるものだった。
カシワバラ…
“桑田”という名札が付いたその人はしばし考えているようだった。しかし、すぐに。
「…誰だ、それ」
「え……」
まさに茫然自失。周囲のざわめきどころか自分自身さえ遠くなりそうな感覚に力なく佇む樹里の前、桑田という男子は後ろを振り返り、カシワバラって知ってるかー?などと問いかけている。それでも返ってくる答えは皆同じ。
え…
居ない…よな?
数人集まった男子生徒たちは揃いも揃って困惑の表情を見合わせている。本当に知らない、ふざけているのではないとわかる。そんな…迫る確信を振り切るように樹里は踏み出した。彼らに迫って更に訊いた。
「柏原怜さん、ですよ?」
一抹の期待を込めてフルネームで告げた。しかし状況は至って変わらない。何だ何だ、と言いながら集まる人数が増えようとも、カシワバラ…そう呟く声が増えようとも、誰一人、合点の表情へ変わりはしないのだ。
「ねぇ、それってアンタの彼氏?そんなに必死になってさ、喧嘩でもしたの?」
やがて桑田という人が冷やかすような薄ら笑いで樹里へ顔を近付ける。吟味するような悪戯な視線、苦手な男子の視線がすぐ側にあるはずなのに、樹里は乾きそうに目を見開いたまま。
「ってかアンタ結構可愛いじゃん。何て読むの、それ」
いやらしげに鼻の下を伸ばして、名札…もとい、豊かな胸元を撫で回すようにして見る桑田。調子に乗った彼が何かまた言おうとしたとき、樹里はさっと風を切って踵を返す。おい、と呼び止める声さえ聞こえはせず。
無我夢中で走った。何度となく誰かとぶつかりそうになった。転びそうにもなった。動悸は更に高まっていく。意識は遠のきそうなのに、記憶は鮮明に蘇ってくる。
桑田という人に迫られたことなら以前もあるのだ。だけど、そのときは
おい、桑田!それやべぇぞ!
その子は柏原の…
ーーえ!!ーー
焦燥に満ちた面々。彼らは知っていたのだ。柏原という名を当たり前のように口にしていたのだ。
なのに…
何故?
何故なの、怜…!
どれくらい走ったかもわからなかった。何処へ向かっているのかも知らなかった。自分の身体が意図せず動いて宙ぶらりんの心を引きずってきたかのよう。
ーー磐座?
やがて気付いて顔を上げた。いつの間にか力尽き、廊下の片隅で猫の如く四肢を着いて丸まっていた樹里を見下ろしていたのは
「葛城君…!」
彼だった。驚きに満ちたその顔には所々、ガーゼやら絆創膏やらが付いている。事実は確かにあった。そう示している彼に樹里は躊躇もなく手を伸ばす。はっ、と短く息を飲む彼にすがって問いかける。
「それ…怜に…?」
「え…」
「柏原怜さん、知ってますよね?その傷は…彼にやられたんですよね?」
葛城君…!
みるみる困惑へ変わっていく傷だらけの顔を見上げながら、嫌…と内心で悲鳴をこぼした。嫌…変わらないで、と。
しかし葛城は言う。
「何言ってんだ、お前。これは階段から落ちたんだ」
嫌…
「カシワバラって、誰のこと?」
耳慣れない名前を紡ぎ出した葛城の表情が、かつてのような執着の歪みへ変わる。こんなの…こんなのって…
「嘘よ……!!」
「磐座!?」
呼びかける高い声を置き去りにして、樹里は再び走り出す。もう何処へ向かえば良いのかもわからなかった。少なくとも学校ではない、ただその確信だけで敷地を飛び出し、手ぶらのまま小江戸川原へ躍り出る。
小さな町。それでも、一人を探すにはあまりに広過ぎた。だけど止めはしなかった。
「お嬢…!」
「樹里さん!」
やがて訪れた夕暮れ時。
駆け付けた爺や家政婦に羽交い締めにされた。虚ろな樹里の双眼は落ち行く紅に染められた。それから全てが遠のいていく。現実から離れていく。
気が付くと。
紅の木漏れ日の中、焼け尽くされそうな情熱に身を委ねていた。二人っきり。大切な大切な、だけど張り裂けそうに切ない記憶。
それすらやがては遠のいていく。最後まで残り続けたのはただ一つ、奥深くまで染み付いた彼のぬくもりだけ。
怜……
あなただけ。