5.そんな目で見るな
一体いつぶりだろうか。久しく訪れていなかったその場所で空を仰いだ。直視はできない、太陽の色を視界の端で確かめた。まだ冷たげな色をしている。
あの頃みたいだ……そんな風に思い出す。薄い霧が透かす遠い眼下の町はなかなかの眺めであると言えるが、夜を迎えるとまた違う顔を見せると知っている。外見、内面共に文芸などとは縁のない俺でさえ洒落た詩の一つでも唄ってみたくなるくらいの。
この場所でよく聞いていた。ネガティブな男によるとことんネガティブな恋愛相談。かつて兄弟みたいに過ごした友人の一人のことだ。
町から遥か高くまで離れた崖。自身も度々比喩される獣の形に似たこの場所に数分前、降り立った。しばらく居るうち、いくらか気分が楽になった気がした。孤独ではなく孤高になれた気がした。こんな風に思えた。これでいいんだ、と。
しかしそんな淡い確信もやがて儚く消えることになった。
ゴォッ、と吹き付けた風圧に瞼をつぶった。それからうっすら開いた、視界にそれは映った。
風に攫われ、宙を舞い、町へと堕ちていく、乾いた破片。茶色の葉。鋭利なその形状に覚えがあった。口にした、その名を。
「ユズリハ……」
一体いつからあったんだ。誰が植えたんだ。いや、もしかすると気付かなかっただけなのか、今の今まで。驚き振り返るなり浮かんだ。
木漏れ日の中で、背伸びして、天を指をさす、後ろ姿。ゆっくりなびく黒髪が長かった、あの頃。
鎮まった風に吹かれてサワサワと揺れている枯れた木の葉は、新芽が生え揃うまでしがみ付いている気だ。古名は『ユズルハ』。こうしてみるとつくづくストレートな名だと実感する。新しい命の誕生を見届けられないまま、風に奪われていった数枚が惜しまれる。
ーーこれでいい。
ついさっきまで噛み締めていた思いもどうやら一緒に攫われてしまったようだ。呆気ないものだ。乾いた風に冷やされる、乾いた唇からこぼした。
「……いい訳、ねぇだろ」
ーー樹里。
所詮は願望だったと思い知った。情けなく。
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「レイくん、珍しいねぇ。食欲ないのかい?」
ふと降りてきた声に顔を上げた。ふくふくとした丸顔が心配そうに見下ろしている。遅々として減っていない皿の上の肉塊と、俺の顔とを交互に見ている。レイはやっと空っぽのままの口を開く。
「悪りぃな、マドカさん。ちょっとばかりバテてるみたいだ。味は相変わらず抜群だぜ」
そう言って苦し紛れの笑顔と親指を突き立てるサインを見せつけると、ハハハ!と上がった豪快な笑い声。アンタでもそんなことあるのかい、と茶化す口調が返ってくる。レイはむ、と唇を尖らせた。
ちょっとばかりガタイがいいからって疲れ知らずとでも思っているのか?そりゃ買いかぶりってモンだ、などと内心でぼやいてみながら。
栄養士長のマドカ(53歳・女)。全体的にふくよかで丸く大きめな顔がトレードマーク。安心感を与える笑顔と柔らかさを持つ“食堂のおばちゃん”は明るくおおらかな性格も合間って、幅広い年代の者に慕われている。
「なぁに?悩みでもあるのかい?」
そう言って彼女はさも当然のように向かい側に座った。仕事はいいのか?疑問を抱きつつも、年長者特有の余裕に満ちた笑みを前に、何だか恥ずかしくてうつむいてしまった。
うん…だいぶ遅れて、レイは低く呟いた。いざ言葉にしようとするとなかなか上手く出て来ない、この口下手加減がもどかしい。
……女って面倒くせぇな。
やっと紡げたのはよりにもよってそんな一言だった。それから気付いた。丸く見開かれたマドカの目。あ、と小さくこぼした。
「すみません、俺……」
そうだ、この人だって立派な女性。ガキの頃から毎日こうして腹を満たしてもらっている分際で、俺は何ということを…
自身を恥じていた。そんな時。
「仕事一筋だったからねぇ、レイくんは。知るタイミングを逃しちゃったんじゃない?」
もう一度、視線を合わせた。変わらぬ余裕を全面に滲ませたふくよかな顔は何だか懐かしさを覚えさせてくる。赤みを帯びた丸い鼻、艶のある丸い頬…何処かで見た気がする。弱った子どもに食い物を分けてくれる…確か、幼児向けのヒーロー、だったか?
「タイミング、ですか」
ぽつり、と返すレイにマドカはそう、と言って頷く。彼女は言う。
「知るタイミングどころか、自覚するタイミングさえ逃しているように見えるよ、アタシには。こんなによりどりみどりなのに、もったいないねぇ」
なるほど。これには同感だ。レイの顎は自然と小さく頷いた。
ヒステリーなフェミニストに、泣き虫な毘沙門天、理屈っぽい三十路前に、鋼鉄メンタル人形、それにおてんば猫妖精。おっしゃる通りだ。確かに十人十色、よりどりみどり。みんなそれぞれにそれぞれの形で俺を振り回してくれやがる。何と刺激的なのだろう、と、レイの顎はまた縦に動く。
わかってきたかい?そう問いかけるマドカが更に次の問いを投げた。
「で、レイくんは誰がいいの?」
「へっ……?」
思わず漏れてしまった、間の抜けた声。ランランと輝いた顔で身を乗り出してくるマドカを前にレイの顔は引きつった。それから登ってきた、熱い感覚。
ちょ、ちょっと……!
声が上ずった。ニヤニヤ顔の彼女に言った。
「誰が色恋の悩みだと?」
たまらぬ熱にまた顔を伏せた。またしても言えずじまいだった。この頃ずっとそうだ、何に対しても素直に返すことができていない。俺はどれだけ抱え込む気なのか。
だけどやっぱり言う気になどなれない。口にすること自体がとんでもないように思えた。テーブルの上で、レイはぎゅっと拳を握った。
脳裏に一人、浮かんでしまったことなんて。
認められない。いや、認めちゃいけないんだ、なんて自身に言い聞かす。
そして一方で蝕まれていく。確実に。
今でも鮮烈に焼き付いている。容易にフラッシュバックして迫る、光景と……感触。
その中には俺が居る。
今、ここに居る“レイ”とは異る色で睨み上げてくる。
彼女を腕に抱いた様は執着そのもの。実に未練がましく、無様。そんななりをしているくせに、そいつは容赦もなく問いかけてきやがるんだ。
――お前。
何が認められない、だ?こんなことをしておきながら
――どの口が言う?――