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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第6章/猫の眠り(J.Iwakura)
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12.砕けた情熱、紅の雨(後編)



ーー柏原怜。




その人の周りには不思議な出来事ばかりが付きまとう。自ら悪者になることも厭わず、罰せられることも厭わず、また私を守ろうとした。戦ってくれた。その姿は、誰もが思い浮かべられる肉食獣の代表的存在の一種、狼そのものだった。




やめて、怜…!



そんなことをしたら…




停学、いや…最悪の場合、退学。もはや呻き声の一つも絞り出せない程、ボコボコに殴られ張り倒されていく葛城拓真を目の当たりにしてそんな言葉が脳裏をよぎった。



やめて。私の為に…



野獣と化した彼の背中に必死に縋り付いた。涙ながらに口にしたつもりの言葉は次第に声にもならなくなった。それでも内側では続いていた。



お願い、怜…



傷付けているはずの彼に向かって、何故か



ーー傷付かないでーー




そんな風に願ったのだ。






ーーなのに、これはどういうことなのか。




「葛城君、階段から落ちて怪我したんだって!」


「えーっ、やだ。心配…」




違う。




「葛城君は怪我の為、欠席です。幸い大事には至らなかったようですが…」




担任も言った。でも、違う。だって…




昨日の放課後、あの事件の後。彼を連れていったのは他でもない、先生あなたじゃない。



皆が不安の表情を見合わせる中でただ一人、不思議の渦に飲まれていた。私だけが…知っている?何故?何処へ向けていいかもわからない問いが自身の中で巡った。






すぐにでも確かめたかった。問いを向ける相手を定めた樹里は必死の思いで校内を駆け回った。息が切れる。汗が滲む。その繰り返しは1時間の枠を突き抜けた。



そしてやっと




「怜…っ!」




彼を見付けたのは夕方。校外。



何故か神社の敷地内で、カシワの木を背にして佇んでいる姿に樹里はゆっくり歩を進めた。陰って表情の伺えない彼に語りかける。



「怜……あの……」




ーー来るな。




ドク、と痛みを伴う高鳴りを覚えた。そこへ間髪入れずにまた届いた。




「もう、俺に近付くな」



「れ…い……?」




何故そんなことを言うの?何故誰も覚えていないの?聞きたいことなら沢山あったはず。それなのに、何か確信らしき感覚が登りつめていく。



彼の背中がカシワの木から離れる。後ろ姿が、愛しいその姿が、私を置いていく。



実感が高まった。




“許されない”




限界まで。





嫌……




嫌……ッ!




行かないで!





「行かないで…怜…!!」




愛しい愛しい、その名を呼んだ。それが何かのきっかけだったように瞬時に息が詰まった。いや、全く、ただの少しも吸い込めなくなった。



………っ



………っ。




ついには膝を折ってその場に崩れた。酸素が取り込めない。これは…過呼吸?虚ろながらも察した。待って、待って、と呼びかけたいのに、もう…できない。



まさに絶望だった。そのとき、希望の象徴・レイは再び舞い戻る。



「樹里…!」



薄れゆく意識の中で確かに聞こえた。しゃがんだ彼の気配を確かに捉えた。



ぎゅっと強く抱き寄せられた。確かに、感じた。涙がとめどなく溢れた。




怜…



怜……




呻きと共に息が飲み込めた。少しずつ、少しずつ、呼吸が戻っていくその差中、彼の匂いに包まれていた。大きな手の感触がずっと背中を撫でていた。



「ほら…飲め」



そっと身体を離したところで水の入ったペットボトルを差し出した、彼。中身は半分程。彼が飲んだもの…まだ息も整わないのに、目の前の事態に恐れ、手が震えた。こんな仕草がまさか、更に予期せぬ事態を生み出すとは思いもせず。




樹里…!




迫る気配があった。口、開け。そう言った後、何故か自分で中身をあおった彼に驚く余裕さえなく。





ん……っ




一瞬のうちに塞がれた。半開きの隙間に流れ込んでくるそれは彼の体温そのもののように生温かい。状況が掴めず、飲み下すだけで精一杯の樹里はついに間近の胸元に縋り付く。ひと通りが喉の奥へ降りた後、離れた、湿った唇と唇。



れ……い…



呼べたのはほんの一瞬。直後にまた重なった。貪るような荒々しい動きは隙間を割って奥へまで入ってきた。


後頭部を掴まれた。背中を引き寄せられた。あまりの衝撃に目をいっぱいに見開く樹里は、更に握る手に力を込める。抱きすくめる彼の圧力もまた、強くなる。



「怜……」



「樹里、俺、ごめ…」




ん…っ!




自身の言葉さえ待てないとばかりに彼はまた繰り返す。触れる舌先が溶けそうに熱い。こんな経験はない。意味もわからない。故に上手く応えることは出来ない。逃げるつもりなど、なくたって。



乱れた息が漏れる。絡み合う二人の織り成す音だけが総毛立ちそうなくらいに妖しく響いて、木々のざわめきも、降り注ぐあかの木漏れ日も遮断してしまう。



全身の原形がなくなりそう。かつてない甘い痺れに悶える樹里の脳内に居続けたのは、ついさっき、一瞬だけ目にしたものだった。




震える焦げ茶の瞳。湿った彼の眼差しは今まで目にしたどれよりも、切なげで哀しかった。こんな行為さえ、自らを傷付けようとしているのではないかと思えて、堪えられない涙が頬を伝った。




どれ程そうしていたのか。時間にしたらどれ程の間のことだったのか。あまりに夢中だった為に、見当も付かない。



自分の袖を使って濡れた口元を拭いてくれた。ものも言わず去ろうとする彼にかける言葉など見付からず、ただおのずと伸びた指先が弱々しく裾を掴んだだけ。



しかしそれもすぐにすり抜けた。振り返らない彼の背中から、届いた。




「忘れない…から」




それからまた歩み出す。やっと取り戻したまともな呼吸はほとんど全部、嗚咽に持っていかれた。




怜…



私だって…




「忘れません!忘れませんから…っ!」




行かないで。



傍に居て…!




最後までは言い切れない、無念。愛おしくてたまらなかった。ずっと引き止めておきたかった。その姿がもう、ない。



崩れ落ちる樹里は震える手で口元を覆う。未だ残り続けるあの温かさ。荒々しい動きとは反して優しかった味を、閉じ込めようと塞いでいた。




わかったことがあった。



彼はやはり優しい人。包み込む大きさを持つ人。なのに何故?最後は孤独へ戻っていく、哀しい人。



わかったことがあった。



想いはきっと通じていた。こんなことはきっと、簡単じゃない。認めざるを得ない。私はこれを望んでいたと。上手く応えられはしなかったけど、欲していたのだ、と。



願いは叶った。最愛の人と想いが交わったのだ。信じられないけど、確かにこの身に起きたのだ。



なのに、何故?



何故こんなに




ーー悲しいの……?ーー



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