10.落葉の初夏に涙して
何か意図でもあったのか。
「わっ、葛城君、髪型!」
「パーマ似合うねぇ。その方がいいよ!」
熟し始めた梅の実みたいに一部をほんのり染めた何人かの女子が、談笑を止めて彼へと歩み寄る。踏み出す勇気がないのか、席に着いたまま、あるいは立ちすくんだまま、遠巻きに惚けている者もいる。
「タク!イケてんじゃん!」
「くそ〜、これじゃあ女の子たち総取りじゃねぇか。顔がいい奴は髪型くらいダサくしとけよな」
ふざけた様子の男子たちも寄ってくる。登校したばかりの彼をあっという間に囲む。教室内の中心で、注目の的となった彼を中心に賑わっていく。
「葛城」「葛城君」「タク」「たくまっち」…彼の呼び名は実にバリエーション豊かだ。皆が思い思いに好きな形で呼んでいるらしい。そして思い思いの距離感で接している。
実は。呼び捨てと“君”付けの者とでは接し方が違う。苗字とあだ名の者とでは距離感が違う。ささやかで、だけど当人たちにとっては大きな違いが確かに、ある。しかし共通することもまた、ある。
いずれの呼び名を耳にしても誰もが彼を思い浮かべられるということ。クラス内はおろか、学年内の者ならば、皆なのだ。
もしかしたらすでに上級生にも知れ渡っているかも知れない美形の少年・葛城拓真は涼しげに微笑む。キメ過ぎない大人風に仕上げた緩いパーマの薄茶の髪は“王子様”と称される彼の甘さを一層後押ししていた。
口々に話しかける、皆は知らない。
穢れの一つも無いような澄んだ茶系の瞳はいつも、一点で止まるなり艶かしい光を帯びるということを。
磐座……
唇だけで呟いたことも。彼女との間に起こったかつての変化も。
絶えず浴びせられる熱っぽい視線や新しい話題。息つく暇もなく受け止める彼は慣れたように返しては微笑んだ。それでも幾度となく彷徨っている円らな瞳は、まるでどれもこれも聞こえていないかのように物哀しく。
幾度も彼女の元で止まる。執拗に。
やがて葛城には皆に見えない位置に変化を示す。どれ程時間が経とうと変化しない彼女を見つめながら、微笑みながら、人混みに埋もれた拳だけに力を込めていく。
ふとうつむいた一瞬、唇を噛んだ。
今日も教室の片隅でひっそりと座っている、何故か薄く笑んだ彼女は、窓の外の新緑を眺めたまま。結局一度たりとも彼に目を止めることはなかったのだ。
ーーそれからまたいつもの流れでいつもの一日が始まる。
相変わらず窓際の席で物音一つ立てずにいる彼女は、隙間から流れ込むよそ風、斜陽、新緑の香り…その中に自らを紛れ込ませ、気配を消そうとしているかのよう。
もしそんな思惑ならば、今起きている事態は残念なことだ。気付いてもいない様子の彼女は日を追うごとに至るところからの注目を集めている、現状。大人びた女の顔立ち。伏せた瞼から伸びる長い睫毛は艶かしく、確かに誰もが見落とせない美貌ではあるが…
その真の意味を葛城はこの日、知ることになった。
ーーねぇ、もう知ってるっしょ?
すぐ側から、囁く声がした。昼休みのチャイムと共に彼女がものも言わず姿を消した。そのすぐ後。
「聞いた聞いた!付き合ってんでしょ?」
「この間明菜が、二人で屋上行くの見たって…」
「あの演劇部の人」
柏原先輩!
……っ。
そこで葛城が息を詰まらせる。いっぱいに見開かれた双眼、大きめな瞳の周りが血の気を帯びていく。
食い入るように見下ろされていることに気付かない、クラスメイトの女子たちの会話はなおも続いた。遠慮がちに声を潜めながらも、身を乗り出したり気だるいため息をついたりと、やたらと忙しい動作の彼女たちはいよいよ色めき立って。
「ヤクザと令嬢とかヤバくない?」
「ヤバーーい!」
「でも納得だよねぇ、磐座さん美人だし…」
「金持ち同士で案外うまくいったりして!」
親同士が認めれば…
ねっ?
「………っ!」
何か、途切れた。
そんな様子で踵を返した彼に周囲の何人かが顔を上げた。
葛城?
おい、タク!
何人かが呼んだ。それでも振り返らない、葛城は一人教室を後にする。残された呆然とした表情の面々はその意味を知らない。何も、知らない。
賑わう廊下。人混みをすり抜け、風切るようにして進みゆく葛城を途中途中で呼ぶ者がいた。鉢合わせ状態になった男子一人だけがその形相を見るなり凍り付いた。
…ん……なよ……
すっかり人気の失せたところでやっと呟いた。もう誰の目も気にする必要がない、一人っきりのタイミングで甘い顔立ちに似合わない獣めいた唸りを吐き出す。奥から。
ざけんなよ……ッ!!
いっぱいの皺に囲まれた白目はすっかり血走っていた。
階段を下って、下って、一階へ。三年生の教室が位置する一角で足を止めた葛城の見据える先に
「ーー拓真?」
彼女が居た。
「よぉ、綾姉」
「何してんだよ、こんなとこで」
柔らかな表情へと戻った葛城に歩み寄られてなお、平然と元の方へ向き直る。慣れた口調。見るからに性格のキツそうな細面の横顔も、至って平常通り。
榊綾香。幼少の頃より同じ町、同じ学校で過ごした。家も近い。葛城とはいわゆる幼馴染の仲である彼女は大体こうして独りでいる。仲間外れとか地味とかいった類ではない。それは他でもない彼女の装いがはっきりと示している。
リボンもネクタイも締めていないシャツに、短めのスカートから覗くジャージ。限りなく金に近い長髪の間からは複数のピアス。ついでに胸ポケットからは遠慮なしとばかりにタール数の高い煙草の箱が見えている。
何も言わなくたって避けられる。気心知れた数少ない友人はこの外に。夜が来る度に落ち合っては特攻服で町内を駆け回る…そんな間柄だとのこと。
「いつ引退すんの?族」
「さあな」
「こんなに美人なのに、もったいないよ」
「ほっとけ」
誰もが震え上がる不機嫌な声色にも動じない、慣れた様子の葛城はごく自然に彼女の隣に落ち着いた。
人混みから遠い廊下の隅。裏庭に面した窓辺。綾香は外を、葛城は窓枠を背に内側を向いていた。しばらくは沈黙だった。しかし、やがて。
ーーなぁ、綾姉。
「気になってる奴、いるんだろ?」
「…は?」
切り出した葛城に声に彼女がようやく顔を上げた。眉間に皺を寄せた訝しげな表情。だけど、全て見透かしたような茶の眼差しを正面から受けるなり、彼女の視線は落ち着きなく泳ぎ出す。
口角で笑んだ、葛城がここぞとばかりに追い打ちをかける。
「柏原怜」
「……っ!」
「アイツなんだろ?」
違…っ!とっさに上げたのであろう声は皮肉にも上ずって、なおさら焦燥を露わにしてしまう。葛城は黙って首を横に振る。真っ赤な顔をした幼馴染のヤンキーに問う。
「それが恋する女の顔じゃなかったら…何なの?」
「るっ…せぇよ、てめぇ!!」
ついに掴みかかろうと手を伸ばした綾香。それでも葛城は器用にすり抜けて続ける。
「だけどね、綾姉」
勝ち誇ったような涼しい笑みまで浮かべて。
「アイツは最近いつも同じ女と一緒に居るんだ」
彼女の動きが止まるまで。
ーー知ってるよ。
低く沈んだ声色を受けるまで。
「磐座…でしょ。もう誰でも知ってる。まさかあの子が彼女になるなんて…ね」
すっかり乱れた長髪の間から見上げた。上目遣いの綾香が今度は意地の悪そうな笑みを作った。言った。
「アンタも残念だったね。ありゃあ文句なしにお似合いさ」
負け犬の遠吠え。そんな比喩が似合いそうな哀しげな声だった。確かめた葛城の目の色が変わり出した。全て悟り、諦めているような綾香のものとは反して、滾っていくかのように。
……じゃ、ねぇよ。
「あ?」
「彼女じゃねぇよ……まだ」
ぎゅっ、と強く握り締めた拳を見入る綾香に、葛城は未だかろうじて保てている微笑みを見せ付けた。
「まだ間に合う」
「拓真、アンタ…」
そしてついに告げた。ここへ来るまで、息を潜め、決して周りに知られないようにと大事に持ってきた、提案。
途中途中で息を飲んだりためらったりする、綾香の様子なら見えていたはずだ。それでも止めはしなかった。ひとしきり話した後は、すっかり晴れやかになっていて。
そういう訳だから…
「そっちで撒いといてよ。俺は俺の方で…」
「でも…っ」
「取り戻したいでしょ?柏原」
「……っ」
そうしてあの場を後にした。声を詰まらせてうつむいた綾香の姿を目にした後の葛城の表情は、確信なるものを噛み締めているかのよう。
階段をまた上がっていく。いつもの場所、一年生の教室へと戻ろうとしていた。
途中。
はた、と鉢合わせた。高くを見上げた瞳が震えた。
柏原……
「…てめぇか」
見下ろすその男は容赦もなしに睨む。低い唸りも威圧的な態度も実によく似合っている。なのにその手は、後ろに差し向けた手だけは
「いきなり呼び捨てとはいい度胸だな。俺はてめぇを知らねぇぞ。コイツを押し倒した不届き者ということしか、な」
後ろで縮こまっている彼女をしっかりと守っている。優しく。
これはもはや得意技とでも言おうか。カチ、と切り替わる音でもしそうな素早さで表情を変えた。王子様顔を決め込んだ葛城は言った。
「葛城拓真です。磐座がいつもお世話になっております。あっ、何か誤解しているみたいですけど。あれ違うんで」
「違う…だと?」
「はい。だってそうでしょう?苦しそうにしている人がいる。第一ボタンまでしっかり閉めたまま。あなたならどうします?楽にしてあげたいって思いません?」
「そんな言い訳が…!」
ついに全身から殺気らしきものを滲ませた長身の男…柏原怜。こちらもまた誰もが震え上がりそうな迫力だ。しかし、しれっと横をすり抜ける、俳優と化した葛城は涼しい笑みのまま。
「だけどもう必要ありませんね、俺は。だってあなたが居てくれる」
涼風を纏った髪をなびかせて振り返る。
「これからも磐座を宜しくお願いします」
……柏原。
「てめ……っ!」
一際高く上がった怒りの声も、待てよ!と呼びかける二言目も置き去りに、元へ向き直って階段を上がる葛城。そこへ届いてしまった。
「待って、いいの…大丈夫だから…」
怜…っ!
「………」
“怜”?
届いてしまった。
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ーーあれは7年前。学年にして小学3年生の頃。
ーーたくまくんにいじわるしないで…!ーー
男女とからかわれて泣いていた、彼を守りたかった。ただその一心で立ち向かった。
ーーんだよ、磐座!ーー
ーー女同士のかばい合いってか?ーー
憎らしげに笑う、敵なる相手は男子二人だった。このくらいの歳の子どもは意外と容赦がない。弱者とわかっているからこそ罵りたい。優越感という旨味を覚えてしまう者も少なくない。
だからこそ、無我夢中だった。一人に羽交締めにされ、もう一人に長い髪を引っ張られた。思わず悲鳴を上げてしまう程の痛みでたがが外れた。
多分涙でぐしゃぐしゃだった。なのに、気が付いたら泣いていたのは髪を引っ張った男子の方で。
ーー何してるの!やめなさい!!ーー
血相を変えて駆けつけた先生の声で我に返った。がむしゃらな抵抗の結果がそこにあった。頬に三本程の筋を走らされたその子の泣き顔と、自身の爪の赤い名残に見入った。呆然と。
いけないことをしてしまった。
不思議と先生にはそれ程怒られなかったけれど、幼心に確信していた。幸い深い傷ではないと聞かされたけれど、ずん、とのしかかる罪悪感にいつになく沈んだ。その夜はよく眠れなかった。
おじいちゃん?
おばあちゃん…?
トイレくらい一人で平気。古くて広い屋敷に来てまだ二年くらいだったけど、勝気な私は過保護な祖父母にそう強がっていた。本当は怖かったけど。
大丈夫、大丈夫、ってこの日も自分に言い聞かせていた。もう少しで着く。襖の隙間から漏れる灯りと祖父母の声に安堵した。はっきりと、聞こえてくるその時までは。
…困ったものだわ…
…樹里…
自分の名に気付いて、ドキッと胸が高鳴った。思い当たる節ならつい数時間前。やっぱりあのこと?おじいちゃんもおばあちゃんも本当は怒って…?
聞くのが怖かった。それなのに耳を寄せてしまった。今思うと大多数の人間が持ち合わせている心理というものだ。
「元気なのはいいことですけどね…いずれあの子には自覚してもらわないと…磐座家を継ぐ者として」
「まだ早いだろう。樹里は9歳の子どもなんだよ」
「ですけど…!」
何だかやけに重い響きに感じられた。今日私がしてしまったことは間違いなく、いけないこと。だけどそれだけではない?確信こそなくとも規模の大きさみたいな感覚を肌に感じていた。しかも。
「もうあの子しか希望はないのですよ。この家を継ぐはずだったあの子は事故で…そのたった半年後に今度は春樹まで…!」
皺枯れた祖母の声に震えを感じた。おばあちゃんが…泣いてる?言い知れぬ不安に痛みを覚えた。止まらない嫌な鼓動の要因はもう一つあった。
ハルキ。
忘れてなどいなかった。それは父の名。
何故ここで?と更に耳を襖に押し付けた。追い打ちはすぐにやってきた。
「だから何が何でも探すべきだったのです。止めるべきだったのですよ、駆け落ちなんて…!」
カケオチ?
「無知なままあんなことをするから…大して親しくもない人間に保証人にされて…借金を背負って、挙句に…自殺」
……自殺。
二つ目に呟いた。それなら知っていた。自分で死ぬこと。父も母も、私を残してそうしたんだってことも。
「やめなさい。今頃悔やんでもあの子たちは戻って来ない。それより今は…あの子を、樹里を。立派に育てよう」
なだめる祖父の声色は優しかった。優しすぎるが故に身を滅ぼしてしまった父のものに似ていた。だけど…
「大丈夫。樹里は賢いから、いずれわかるときが来る。ちゃんと自覚して、磐座を継いでくれるさ」
…終わりはしない。
祖父母の声はおろか、うるさい鼓動も、遠くから響く振り子時計の刻みも、全てが止まったような気がした。“自覚”なんて言葉もよく知らないはずなのに、確かな自覚を覚えた。
その為に。
私は、その為に
ここに居るんだ、って。
それからの私は徐々に、だけど確かに、変わっていった。
慎ましく、しとやかに。令嬢らしく。
意識し過ぎるあまりか、私はすっかり大人しくなった。男子との喧嘩もなくなった。それどころか仲の良かった女子たちまで遠のいて…それでも
ーー身に付いてきましたね、樹里。前はおてんばでどうなることかと思いましたけど…ーー
背丈を伸ばしていくに連れて時折本音らしきものをこぼすようになった、祖母。安堵したような笑みを前にする度、私は自身に納得させた。
これでいいんだわ。
もう慣れてきていた。そんな日々に変化が訪れたのは14を迎えて間もない頃。
急激な変化ではなかった。本当は少し前から気付いていた。ずっと同じ学校、同じ道のりを歩み過ごしてきた彼との距離が、かつてより縮まっていることに。
「磐座」
「葛城君」
呼び合う響きが質を変えていることに。
しばらく忘れていた色が戻ってくるみたいだった。草木の息吹も自身の息吹も、蘇ったみたいだった。二人並んで帰路を辿る、それだけで、温かい。春も、夏も、涼み始めた秋も。そして冬。
冬、までは続かなかった。
ーー樹里。
ある日、呼び出された。厳かな空気が占める居間で、祖母に告げられたのだ。
「葛城君…でしたっけ。仲が良いのは構いませんが、あなたもそろそろ女性といえる年頃です。この町をより知ってもらう為にも高校は町内でと考えています。だからこそ、今のうちに…」
適度な距離を。
意味するものがわかった。そう、これは当たり前のこと、とすんなり納得を覚える頃には
瑞々しい息吹も、陽射しも、匂いも
彼と共に得た全てが遠くなっていた。小さな灯火が薄れるみたいに。
だからなのだろう。だから
ーーごめんなさい、葛城君。
「私たち、もう…一緒には帰れません。会うのも学校だけで…」
ああも淡々と彼に告げられたのだろう。見開かれた瞳の乱反射を目にしても、哀しげに戦慄く唇を目にしても。
彼は彼で、きっと釘を刺されていたのだ。寝耳に水ならば、あれ程瞬時に傷付きはしない。あんな壊れそうな目は…しない。
ーーあれから彼は、葛城拓真は変わってしまった。180°とも言える角度へ、嘘みたいに。
ーー磐座に気を付けろーー
ーーアイツにとって男は玩具、女は使用人に過ぎないーー
ーー下手に敵に回すな。何と言ってもデカイのがバックに付いてるからな。馬鹿を見るのはこっちの方ーー
ーー近付かないのが一番、いいーー
不名誉な噂。ありもしないことまで。あれを撒き散らしたのは他でもない彼だ。目が合う度に見せ付けてくる、勝ち誇ったように満足気な笑み。察する為の種ならそれで十分だった。
それは今もなお続いている。酷いことをされている、紛れもなく。それでも私は。
…無理もないわ。
瞳を閉じて飲み下してしまう。かつての光だった、温かい憩いの存在だった、彼を嫌いにはなり切れないのだ。今がどんなに違っても、見る影もないくらいひっくり返っていても、痛み以上に残り続ける罪悪感を拭い去ることはできない。
あなたなんて…!
無理矢理に押し倒された、あのときも思った。その続きは…やはり言えないのだ。
陽が落ちていく。藍に染まる空が、景色が、孤独を実感させてくる。まだいくつかの枯葉が残っている、カシワの木が揺れている。
途中まで怜と一緒に歩いた。帰らざるを得ない屋敷が見える手前で別れる。たった一度だけ彼と顔を合わせた祖父母に知られない為に。あの一回だと知らしめる為に。おのずとそうしてくれた、彼の気遣いだった。
名残惜しさを胸に自室へ戻った樹里は制服から解き放たれ、ゆったりとした部屋着に身を包む。動きやすい。確かにそうだけれど、楽ではない。この胸は。
薄暗い室内でおもむろに窓を開け放った。夕日と見紛う赤い月があった。狂気じみた満月は二階という位置へ間近に迫る。狼の遠吠えが聞こえそうだと思った。
ーー狼。
その名称と共にあの姿が浮かぶのは何故か。単に強面な外見によるもの、なのか。
奪われたい。
ふとよぎった言葉が願望だと気付いてかぶりを振った。あの日保健室で無理矢理に奪われたところに恐る恐る伸びた指先が触れる。あの人だったなら…そう思いかけたとこでまたかぶりを振った。激しく振った。
自分がこんなに穢らわしい女だとは思ってもみなかった。わかってる、もう、わかっているのに…って、哀しい実感が迫った。
私は…
私は。
これをしてはならないの。あってはならないの、って。
「…ごめんなさい、葛城君」
未だ残り続ける罪悪感。その意味だってもうわかっている。痛いくらい。
彼に対する罪は、背を向けたことじゃない。恋したことなのだと。
昼間、階段で目にした彼の表情を思い出す。あの意味だってわかってる…わかってる。憎まれ口を叩いていたって、あれは、あの顔は、傷付いたときのものよ。
同年代の者がどうしていようと関係ない。この屋敷で生きる以上、磐座を継ぐ以上、恋をしてはいけないのだ。恋することが罪なのだ。いずれ用意される伴侶を大人しく待っていれば良いのだ。さすれば誰も傷付かない。
登りゆく満月が次第に小さく、熱を薄れさせていく。冷たげな青に向かって進みゆく、遠ざかる、孤高の彼を彷彿とさせるその流れは止められない。
そしてもう一つ、止められない。
まるで置いていかないでと追うように上昇を続ける内なる感覚に熱いため息がこぼれた。ごめんなさい…もう一度呟いた。樹里の瞳はかすかに滲んでしまう。
こうしていればいいと、わかっています。されど、嗚呼…
止められません。消せません。
葛城君、あなたの傷を目の当たりにしてもやはり同じ場所を選ぶでしょう。更に深く抉ると知りながらそうする私は、何て酷い女なのでしょう。
あなたの言う通りなのです。近付いてはいけない女、なのです。
だけど全力で受け入れてくれるあの人だけは信じたくなってしまうのです。誰に何と言われても、どれ程の人に蔑まれても…傍に、居たい。
「怜…」
「れ…い……っ」
あなたに。
ーー恋してしまったのーー