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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第6章/猫の眠り(J.Iwakura)
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8.焼け野原に咲く青き花(後編)



ーー5月5日。



しかし時は一日どころか一周分程遡る。場所もまた。




あの世界へ、戻る。









かし……




「怜…さん…?」





恐る恐る声をかけた。デニムとカットソーのシンプルな普段着姿。背中を丸めてしゃがんでいてもなお十分過ぎる高さを誇る後ろ姿に、まさか、と思いつつもだった。誰もが遠巻きに、異様なものでも見るようにして通り過ぎていく。



ゴールデンウィーク期間。今日は端午の節句。現在地は川原町の中でも観光スポットと呼ばれる道中。晴れの昼下がり。




ーー逢えますか?ーー




あんなことを願ったからなのか。それにしたって早過ぎはしないか、と樹里の胸は高鳴りを始める。しかもこんな場所で、と。




その人は振り返った。見上げた鋭い目が一瞬で見開かれた。柏原さん…胸の内では慣れた響きの方が蘇る。



声をかけたはいいが、何と続けようか。



欄干の側でしゃがむ彼を前に樹里は思考を凝らしていた。しかし、気付いてしまった。



「…怜、さん?」



呼びながらも樹里の視線は下向きに止まる。それからくすぐったく溢れてくる。



ふふっ…



笑みが満ちてくる。真っ赤に染まった彼の顔を目にしてなお、それはなかなか落ち着いてはくれなかった。無理もない。だって…



強面な彼の、大きな手に守られるよう、包まれていたのは




「怜さんって、お花が好きなんですね?」




小さな小さな露草つゆくさだったから。






ーーやっぱギャップっていいよねぇーー



ーーわかる!ーー



ーー優しそうな人が強引だったり?ーー



ーー怖そうな人が紳士的だったり!ーー



ーーそんな恋がしてみたーいーー




『きゃーーーっ!!』






興味もなく。聞き流したつもりでいた、同級生の女子たちの黄色い声が今更のように蘇った。


『ギャップ』


それが今目の前にある。ありありと、実感を覚えさせてくる。



すっと身を立ち上がらせると更に天まで届きそうな高さになる。何故か落ち着きなく鼻をこすり出した彼が口を開く。



「今日は随分と、きれ…」


んんっ!と咳払いをしてから、また。



「珍しい格好をしているな」



言われてやっと我に返った。そうだ、今日は…



「ご近所のお世話になっている方々にご挨拶周りをしてきたところなんですよ」


「何か祝い事か?」



「ええ、まぁ…」



消えそうに呟く、樹里の表情は寂しげに陰を帯びていく。それに気付いたのか気付いていないのか、しばらく黙って見つめていた怜がやがて、あっ、と合点のいった声を上げた。



「“端午の節句”か!その為の衣装なんだな?」



「いえ、そういう訳では…」


「違うのか?」



常に刻まれてる眉間の筋がもう一本増える。訝しげな表情の彼の顔は誰もが震え上がりそうな程怖いはずだった。しかし。



やっぱり知らないんですね?



樹里は微笑んだ。艶やかな袖を、裾を、ひらりと翻して一回転。こんな仕草などしたことはなかったのに、自然と。



「これははかまと言うのです。私もそうそう着る機会はないのですけど、ね」



一周終えてにこりとする樹里の前、立ちすくんだままの怜の喉仏がごくりと鳴って動く。近過ぎない、一定の距離は保ちつつも樹里は首を傾げて問う。



「怜さんってもしかして、帰国子女ですか?」



言った後にはっとなった。そうだ…あの噂を思い出して、強張った。



この人は極道のお方。もしかすると海外のマフィアとも通じた、遠い、遠い…



腰から背中へ駆け上る震え。だけどそれ以上に不思議に思った。これは前もって知っていたこと。ならば何故…



何故こうも自然と聞けてしまったのだろう?




ーーああ。




戸惑いの差中に居る樹里の元へ低い声が届いた。恐る恐る顔と上げると目に映ったのは同意の頷き。



いくらかやんわりとした表情になった、彼は言った。




「それだ。その……帰国女子」



真顔で、人差し指まで立てて、堂々と言い切った怜。ぽかんと見入っていた樹里はやがてクスクスと笑い出す。言うまでもなく、最後の響きに。



「“子女”ですよ、怜さん。あなたは…」



男性じゃないですか。



やっと気付いたのか、彼はしきりに視線を泳がせて更に高速で鼻をこする。もう覚えた。これは照れている仕草なのだ、と。



おのずとほころんでいく樹里はうつむいたその先へぽつりとこぼす。




「いいものですね…」



…“ギャップ”






「何か言ったか?」



「いいえ」




覗き込もうとばかりに身体をかがめる彼にかぶりを振って見せた。そこからは実に不思議な流れだった。




「もっといろんなお花がありますよ」



一緒に…




風にひらひら舞う袖から伸ばした手で、彼の白地の裾を引いた。驚きつつも続いて一歩を踏み出す長い脚が目に映った。




こんなこと…



まるで内なる何者かに突き動かされたみたい。




自身の行いが信じられず、何度か歩を止めそうになった。だけどそれ以上に広がってくる、染みてくる。木漏れ日のように優しく暖かい感覚が心地良かった。


ふと隣を見上げると逆光を受けている、その人。樹里はああ…と内心でため息をつく。




そうだわ、この人こそが



“光”なのね。





「おや、磐座さんとこの…!」



「まぁ、綺麗になって…」




顔見知りの夫婦が経営する花屋に行き着くと褒め称えるいくつもの声が樹里を迎えた。客の目さえも引く紫の色調で纏めた袴姿。しかしそればかりではない、と知っていた。だからこそうつむいた。不器用に。



「有名人なんだな、お前」



こそっと耳元で囁く彼の声。同時に耳奥まで撫でていく感覚にドク、と胸が鳴った。彼の息…だと気付いて。



わかってしまったが最後、鼓動は一層早まって止まらなかった。それは次第に痛みに変わった。



送り届けてもらったあの日を思い出した。






ーーすげぇな。




金持ちなんだな、お前ーー





富裕層の家屋ばかりが並ぶ地区。その中でも一際立派な門構えの屋敷を前にした怜が呆然とした様子で呟いた。違います…出来ればそう言いたい。だけどもう逃れられないよ、とでも主張してくるような、意地悪な“磐座”の表札。




本当は、知られたくなかった。






「樹里ちゃん」



呼びかける声でようやく現在へ、我が戻った。いつの間にかニヤニヤとした笑みを浮かべている店主が、樹里と怜とを交互に眺めて言った。



「ついに婚約者ができたのかい?」



なっ…!



先に驚愕の声を上げたのは怜の方だった。慌てて見上げた樹里も、みるみる朱に染まっていく彼の顔を捉えるなり、同じように登りつめていく。



「ちっ、違います…おじさん…っ!」



上ずった声でとっさに返した後、一つの策を思い付いた。樹里は迷わず口にした。




「お兄さん、です!」



「え?でも磐座さんのとこには…」




「親戚の…です…!」



もうこれしかなかった。婚約者なとど思われてしまっては町内に話が伝わるのも時間の問題。祖父母の耳にもきっと、届いてしまう。そして何より




怜さんにこれ以上の迷惑は…




助けてくれた彼だからこそ、巻き込みたくはなかったのだ。






何十分後かに店を後にした二人は再び古びた道中へと戻っていく。すっかり蒸気した頬。とろんと虚ろな目をした樹里の腕にはしっかりと花束が抱えられていた。



「ごめんなさい、怜さん…」



樹里は詫びた。親戚。そういうことにしておけば彼を守れると思ったのに、納得を示した店主はあろうことか…




ーーそれじゃあお兄さん!



久しぶりに会った樹里ちゃんをうんと祝ってあげてよーー




知られたくなかったこと、もう一つ。




「…誕生日だったんだな」


「ええ、まぁ…」



買わせるつもりなんてなかった。ただ草花が好きなこの人にいろんなしゅの花を見せてあげたかっただけ…



悔いる樹里は顔を上げることができない。しかし、直後に動かされることになった。思わぬ形で。




ーーおめでとう。




「…樹里」





……!





すぐさま跳ねるようにして見上げると、そこにあったのは彼の後頭部。だけどちらりと覗いている、やたらと血色の良い、耳。



怜さん…



想いがつのるのはあっという間だった。何処まで登りつめるのかという程。樹里はぐっ、と唇を結ぶ。



強面なのに、裏稼業の人なのに、照れ屋で、不器用で…花が好き。そんな不思議な彼、柏原怜をひたすらに見つめながら、声にはできない想いを内側で響かせる。



私が…



私が見たかったのは




じんわりと目元が滲んだ。響きは続いた。




ーーあなたの笑顔よ。




今度こそ引き出してみせる。そんなつもりで、たたっ、と小走りで前を行った。いつになく躍動する身体はくるりと彼を振り返って



「小江戸って呼ばれているんですよ、この町」



精一杯に微笑んで。




「良かったら、もし…私なんかで良かったら。案内しますよ」




怜…さん…!




風が吹く。新緑の香りに包まれる、小江戸の町。



青々とした空と咲き誇る草花にも負けない、新鮮な姿になれた気がした。不器用に笑って、ああ、と返した彼と一緒に。




木製の橋の下を流れ行く舟に見入る彼に気付いて、乗ってみますか?と聞いてみた。実際乗っているのは大多数が観光で訪れた外国人。故に帰国子女でこの町を知らない彼にはうってつけのように思えた。


時折通り過ぎる若いカップルの姿に気恥ずかしさを感じながらも河岸かしまで降りて乗り込んだ。




おや?磐座さんのお嬢様…




またしても。舟漕ぎが顔見知りであるという展開に遭遇するも、先程の花屋のときと同じようにしてやり過ごす。




ゆらり、動き出した舟の上から高みの欄干の先を見上げる、彼。鋭い輪郭のその目が輝きを帯びているのがわかった。嬉しくなった樹里はそんな彼の隣、次の行き先を考え始めた。



舟を降りた後も至るところを周り続ける。二人の散策は古びた町並みが焦げそうな紅に染まるまで続いた。



着物屋、駄菓子屋、手焼きのおせんべいの味、いろいろ教えた。珍しいものばかりが並ぶ骨董品の店内では、カタカタ動く絡繰人形からくりにんぎょうに本気で仰け反る彼の動作に笑ってしまった。



「ここが川原町で一番大きな病院です。何かあったときは、ここへ…」



そう指し示す頃、小江戸の町並みはもう遥か向こうで。



何となしに通りかかった河川敷で、歩き疲れた二人は自然な流れで腰を下ろした。



潰れた果実みたいに歪んで沈みゆく夕日を、ずっと、黙って、見ていた。




あっ…




しばらくした頃、彼の声が上がった。



「やっべー…これ、返しに行くつもりだったんだっけ」


そう言って紙袋の中から取り出した黒い布が何なのか、理解するまでに時間がかかった。だけどやがて気が付いた。



ーー嗚呼!



「演劇部の、ですか?」



「ああ、代役の為に借りた…」




「ごめんなさい!私が引っ張り回したから…」




え…




代役?




驚く樹里に続いて怜の方も目を見開く。それから苦笑いを浮かべて答える。



「お前、これが演劇部のツラだと思うか?これじゃあ悪役しか回ってこねぇぞ」



「そんなこと…」



怜は言った。前々日になって、急に、演劇部の主役が胃腸炎で倒れたと。怜が転校してくる前までは学校内で最も背が高いとされていたその人の代役を演劇部総出で懇願されたのだと。



「しかも妙な噂まで広がってるみてぇでよ、俺。海外のマフィアだとか、ヤクザの跡取りだとか…」


「えっ、違うんですか?」



「…お前まで信じ込んでたのか」



勘弁してくれよ…と怜はため息混じりにぼやいた。呆然と見上げる樹里の胸の奥に、一抹の光が宿った。




もしかしたら…変えられる…?




光。それは希望の象徴。



だけど手には取れない。求める手を、指先を、呆気なくすり抜けていくもの。長くも続きはしない。




そう、よね…




陰るのはすぐだった。そんな上手い話はない、と宿った冷たい感覚が温まっていたはずの胸奥を浸食していく。




ーー樹里。




だけど届いた声に溶かされた。真っ直ぐこちらを見つめる赤みの強面に囚われてしまう。



「そんなに気に入ったか?」



その花。




ん、視線で示すその場所を見た。袴の膝の上。丁寧に包まれて乗っているそれへ。



「はい…青い花が好きなんです」



自覚なんてなかった。だけど実際に食い入るように眺めていたその花は、あっと言う間に彼の手によって会計まで運ばれた。



「それは見たことがなかった。確か、名前は…」




勿忘草わすれなぐさ




「何だか寂しい名前だ」



「ロマンチストなんですね、怜さん」




ほんのり頬を染める、樹里はまた思い付いた。言ってみようと。



「花言葉って知ってますか?」



ロマンチストな彼に教えてあげようと。



「ああ、少しだったら…」


「だけどこの花のは、知らない…?」



「ああ」




そして告げた。



願いがこもってしまったとも、知らず。




ーー“私を忘れないで”ーー





それは彼の、怜の動きを止めた。夕の陽の赤みが混じった焦げ茶の瞳を震わせた、彼が…





ーーうん。





「忘れない」







「怜……さ、ん…?」





引力はこの場にも生まれた。あのときとは比較にならないくらい強い力に、陰った二人が、近付いていく。



触れた指先。反射的に逃げようとした樹里の方を怜の大きな手が押し付けるように重ねた。



……っ。



息を飲む。そんな樹里もやがて導かれるように、近付く。陰となった二つの横顔がもう少しで…




チリン!チリン!





「……!」



「……っ!?」





高く響き渡った自転車のベルの音で二人の身体は離れた。共に草むらに手を着いて上がった息を整えた。



私、一体何を…!?



ドクドクと続く脈打ちは抑えようのない熱を起こす。それは彼も同じだったようだ。やっと絞り出したような声色が示していた。



「あっ…暑い、な」



「は、はい。すごく…」




暑……




…くしゅっ…!!





それは口にしたばかりの言葉を真正面から否定するような現象だった。そう、自然ではない。気温ではない、と。




「…冷えたか?」




案ずる声に振り向こうとした。そのとき、ふわ、と被せられた。背中から。



「返す前だけど、ちょっと着るくらいいいだろ」


「怜さん…」




吸い込まれそうな闇色のマントを羽織った樹里はその感触を、温かさを、残っているかも知れない匂いを確かめる。おのずと笑みが浮かんだ。独り言みたいにこぼした。




「カッコイイですね、これ…」




ーーあなたによく似合ってた。




最後は言えなかった。だけど何か感じ取ったのだろうか。



「引き受けた甲斐があった」



照れくさげに、でもこんな嬉しそうな声で返してくるなんて。




「好きな花はまだあるんです。来月になったらこの町でも、たくさん…」




隣の彼は、光と引力のその人は、私をことごとく変えていってしまう。こんなにも大胆にしてしまう。




「すごく綺麗なんです、紫陽花あじさい。早く見たいな…」



…一緒に。





「…うん」




そして彼は返してくれた。穏やかで心地の良い声色だった。



「本当に綺麗だな、この町は。古いと思ったけど、知れば知る程、味を感じる」



本当に心地の良い、低い響きは町のことを語っている。なのに、何故?樹里は見上げる。



何故、私ばかりを見ているの…?




「怜さん…」



呟いてみると、何かがほどけていく気がした。力を無くした身体をそっと彼へ預けた。ぴく、と反応を示したのがわかった。だけど、気付かないフリなんかして。




「…聞き流してくれて、いいです。ほんの昔話です」




樹里は口を開いた。ぽつり、ぽつり、雨だれみたいな音を、落としていった。





ーー私は。




いいえ、私も…“代役”なのです。



亡き磐座家長男の代わりに仕方なく引き取られた、形だけの令嬢です。幼い頃、祖父母の話を聞いてしまいました。



両親は自殺してしまったから、もうここしか帰る場所がなくて…



喘息持ちで身体が弱いからってやたらと守られて…





昔は優しかったんです、葛城君。



だけど引き離されてから、彼は変わってしまった。



全部、全部、祖父母の認めるものしか許されない。それ以外は剥がされていくの。





話の順序なんて、きっと滅茶苦茶だった。わかっていた。わかっていながら出し切った。雫と共に。




樹里…




彼の囁きを聞いた。樹里はやっと見上げた。つうっ、と顎まで伝った、それが最後の一雫だった。



再び彼の名を呼ぶ頃、満ちていたのは笑顔だった。




「今日は本当に綺麗に見えました。この町。だって…怜さんが居たから」



「樹里。俺、忘れないから」


「怜さ…」



「怜って呼べ」





ーー敬語も要らない。



素直になれーー




牙が似合いそうな野性味のある唇が命じる。真摯な眼差しが正面から、絡み付く。





「樹里」




「怜…」





ありのままで呼び合った。その響きを、大切な時を、閉じ込めるように額を合わせた。



そう。



そうなの、怜。あなたがいなければ。私にとって、この町は




空っぽで、寂しい




独りぼっちの





ーー焼け野原なのーー



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