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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第6章/猫の眠り(J.Iwakura)
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7.焼け野原に咲く青き花(前編)



ーー5月6日。



透明な隔たりを溶かして射し込む昼の明かりは柔らかく、ここに真夏以上の紫外線の脅威が存在するなど信じがたいくらい。


研究員たちは昼食へ。ほぼ欠かすことなく毎度のようにここを訪れるヤナギも今は床に伏したサシャの看病に赴いている。あんなことが起こってしまったのだ。ただでさえ人一倍のダメージを受けていた元フェミニストの彼女に、これ程過酷な試練が襲いかかるとは世の無情とでも言うべきか。



手首上まで捲りあげた白衣の袖からしなやかに伸びた手がゆっくり窓を開け放つ。うーん、と唸りながら伸びをしたナツメは、上げたままの両腕を後ろへ、まとめ髪をごそごそといじり出した。



いや、ほどいた。



外した眼鏡をデスクの顕微鏡横へ。結び直そうとかき集めた漆黒の束は吹き込んだ初夏の風にさらわれ、指の間を抜けて後方へ泳いだ。



ーー纏まらない。



面倒くさいとでも感じたのか、彼女はそのまま窓枠に腕を着く。漆黒のまとわりは向きを変えた風によって顔にまで及んだ。しかし。



「おや」



彼女は呟く。見るからに鬱陶うっとうしげな長髪の間から覗いた同色の瞳は、確かに一点で止まり、捉えていたのだ。




食い入るように。












研究室の外側、裏庭と呼ばれるその場所に二人は居た。新緑の葉が見下ろす木陰、他に人なる姿はない。



「少しは気分が晴れたか?」



マギー。




彼の問いにわずかばかり顔を上げる彼女。だけど見上げはしないその視線は隣の彼の厚い胸元辺りで止まったまま。



…ありがとうございます。



消え入りそうに返した。答えではなかった。





限られた範囲。研究所内。



ただでさえ十分過ぎる程広がっていた“噂”は、昨夜の一件で更に加速を見せた。中心人物はもちろんあの二人。麗しき悲劇の令嬢・樹里ジュリと、そして…




ーーまさか掻っ攫うとはな…ーー



ーー彼女が不憫でならないわーー




もはや一人や二人の抗いなどではどうしようもない。廊下で、食堂で、絶えず続く囁きの中、憤りの震えに耐えていたマギーの力は徐々に失われていった。




ーー散々振り回しておいて、今度は…ーー



駆け落ち?




ーーひでぇ奴だ。あんなのと幸せになれる訳がないーー




あれは……





“罪人”だ。






切れ切れなマギーの息遣いを本格的に止めたのはきっと、二文字。ふくよかな顔面を蒼白させ、ついに口元を押さえた彼女の両肩を隣に居続けた彼が支えた。力強く。



「外、行こうぜ?」



精一杯と思われる笑顔で促した。そして現在、この場に至る。






ーーエドさん。




どれくらいぶりか、彼女がその名を口にした。ん、と優しげな呟きと共に見下ろすエド。マギーはやはり見上げない。だけど、前を見据えたままのその顔はわずかに笑んでいた。



「これ、ナツメさんには言ったんですけどね…」



そうして彼女は語り出す。自らのことを。もうこの場には居ない、何処かへ消えてしまった彼らと同じ道を辿った、過去を。




「身分違いの恋でした。あの頃の私はもっとか弱くて、ウエストも1cmくらい細かった…」


「1cm、か」



困惑気味な引き吊り笑い。何か言いたげなエドをよそにマギーは続ける。



「もうどうなってもいいって思ったんです。彼さえいれば、って。だからレイさんばっかり追いかけてるジュリの気持ちがわかる気がした…」



でも…



マギーがふっとうつむく。




「レイさんも…だったんですよね」



「マギー…」




「レイさんにとってもジュリは唯一だった。あの子の為ならどんな危険なことにも身を投じられる。無茶もできる。もし、置いていかれたのがレイさんの方だったとしても、きっと同じようにしたんじゃないかな…」



「………」




もうほとんどを知っている。聞かされている。だからこそ、目にした光景が、振り回されたと言ってもいい程の刺激に満ちた日々が、より実感となって二人に迫ったのかも知れない。



お互いに口をつぐむ、マギーとエド。長い沈黙が破られたのはしばらく後。



「…それでお前はどうだったんだ?」



短い問いが彼から。それでもすんなり察したのであろうマギーが小さく頷き、照れくさげに答えた。



「幸せでしたよ。こういうやり方は長く続かないなんてよく聞いたけど、私たちは生涯添い遂げたんです。財産も地位も全部手放して、それでも私を大切にしてくれる彼を、私も精一杯支えたつもりです」



「すげぇじゃねぇか!」



ほぉ〜、とため息のような声を漏らしてエドは関心を露わにする。柄にもなくうっとりとした表情の彼が、ぽつりともう一言をこぼす。



「やっぱり想いってのは偉大だな」



受け止めた。マギーがちらりと彼を見た。それからゆらりと下へ傾く視線、一連の流れに気付いたエドが、ん、と彼女を覗き込む。




…だけど、もう居ない。




消えそうな響きは確かにエドに届いたようだ。凍り付いた笑顔が示している。



「それでも私、平気なんです。今まで出会った誰の中にも彼の気配はなかった。あの人も今頃はきっと遠い何処かで、新しい姿となって新しい人生を歩んでいるってことです」



「あ…でも、まぁ、その、何だ…」



寂しげに見える。彼女にしどろもどろな口調のエドが言う。



「まだわかんねぇじゃねぇか。そんだけ情熱的に愛し合った者同士だ。何処かで、また…」



そこでマギーが見上げた。はっきりと強い眼差しを受けて固まるエドに彼女は




ーー聞いてました?エドさん。




ぞくりときそうな程、落ち着いた声色で告げる。




「私、平気なんですよ。きっと彼も。私たちはこういう形だったんです。その人生、その人生で、精一杯でいられればそれでいい。そっちの方が私には似合ってる。もう逢えなくても辛くも感じない。こんな“正解”があってもいいって思うくらい」



「マギー…」



「男の人に優しくされれば嬉しい。ちやほやされたい。私そういうの大好きです。ぶりっ子と言う人がいるんなら別にそれでも。美人じゃない分、美人より得をできるようにって、いろいろ身に付けたつもりなんですよ。愛嬌とか!」



ひとしきり熱弁したマギーはお得意の愛嬌を見せ付ける。苦笑したエドからハハ…!と豪快な笑い声が。



「本当、清々しいくらいの開き直りっぷりだな。確かに、誰もが美人と言うサシャの方がよほど不器用に見える。そんでお前の方は…」




したたかな…




お腹を抱えて笑っていた、エドの声はやがて薄れる。先に薄れ始めた彼女の気迫を感じ取って、なのか。



だけど…



マギーが呟いた。それから天を仰いで。




新緑の向こうの青を見つめて。




「やっぱりちょっと羨ましいなぁ…あの二人。愛は数じゃないって全身で主張しているみたい」




ーーレイ!ーー



ーージュリ…!ーー




青々としたそこに、見つめる先に、名を呼び合う二人の姿でも映っているのだろうか。そして、先程から釘付けとなっているブラウンの瞳がじんわりと滲んだのは、眩しさからなのか。




「だから私…」




あんなこと…




弱々しい声だった。くるっと風を切って振り返った、マギーの目はもう一杯に満たされていた。




エドさん…!




彼女は叫ぶ。ポロポロと絶えずこぼしながら、続く声を震わせながら。



「大丈夫ですよね?二人とも…心中とか、ないですよね!?」


「マギー…」



「私があんなこと言ったから…駆け落ちでもしちゃえば、なんて…」



私が……っ!




「マギー…!!」




もう立っていることもままならない様子の彼女をエドが抱きすくめる。崩れないよう、しっかりと。



「大丈夫だ。だってあいつらは今、一番好きな相手と一緒に居るんだぞ。一番幸せなときだ。散々振り回してくれやがったけど…」



「本当ですよ!二人とも、すっごい、勝手…っ」



「だな」




太く逞しいエドの腕は背中をさするようにして緩やかに上へ移動する。辿り着いた三つ編みの根元を優しく撫で始める。



だけど…だけど…っ



嗚咽は続いていた。よしよし、とエドも呟き出した。




「自分が得することばかり考えていた私がやっと見付けられたんです。ジュリも、レイさんも、大切って思えた。大好きな…友達だったのに…!」



「ああ、そうだな。わかってる」



泣きじゃくる少女を離さない、彼は囁いた。優しく。




「マギー、お前は優しい子だ」




きっと、いつまでも傍に居る覚悟で。



この世界、この人生




この瞬間において。









ーー想い、か。






聞こえる距離でもなかろうに、ごく自然と呟いたのは、ナツメ。



くるりと窓枠に背を向けた、白と漆黒をなびかせる彼女は緩やかな足取りで、彷徨う。道標みちしるべの如く、独り言を落としていく。




ーー想いが世の仕組みさえ覆す。



それを罪とするならば…




私もではあるまいか?ーー





膝までのタイトスカートから覗く、色香の漂うしなやかな脚はカーテンを押し分け、薄暗い奥へと向かう。電源の落ちた、もう必要もないモニターの横、ひっそり佇む本棚の隙間から取り出したのは




写真立て。




ーーあなたばかりでなく、後世まで巻き込むことになろうとはーー




ガラスの隔たりの向こう、柔らかに微笑むその人は彼女と同じような形状の白に身を包んでいる。




だけど…



レイは彼女に生かされたのだよ。




微笑みを返し、懐かしげに見つめる。その人に向かってナツメはついに、問う。




この皮肉をどうしてくれようか。



……ねぇ?





冬樹ふゆきさん」



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