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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第6章/猫の眠り(J.Iwakura)
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6.見つめる彼方に孤高の貴方



ーー昼下がりの保健室は実に静かで清潔で、ついさっきまで起こっていた凄まじい状況など跡形もなく。



昼食を終えて様子を見に来てくれた浅葉さんに、樹里は深々と頭を下げて早退を願い出た。彼女は快く承諾してくれた。しかし見上げるその目は確かに隣の彼を捉えて、戸惑いに見開かれていた。




「たまたま隣に居たんだけど、苦しそうな声がして…」



俺が送っていきます。




まだ対面して数十分程の彼、柏原という人はそう説明して納得を引き出した。当然ながら樹里は驚いた。そこまで求めてはいなかったからこそ、何故そこまで…と。




二人で校舎を出た。獣と化した葛城の影を落ち着きなく探す樹里をまるで隠すかの如く、長身の彼が前を歩いた。



景色は流れ行く。ブロック塀の向こうの松の木に瓦屋根。どれもこれも見慣れたものである中、前にそびえる背中だけが、慣れない。



家はどっちだ?



目的の為の必要最低限の問いかけ以降、交わす言葉の一つもなかった。樹里はただひたすらにつのる、気まずさと胸の痛みに耐えようと息を潜め、唇を噛んでいた。




あの…




柏原…さん…




それくらいなら多分、言えた。だけど続きが何一つ、思い浮かばない。吐瀉物としゃぶつに手を汚して水も買って来てくれて…



樹里は胸元に視線を落とす。そこはもう汚れてなどいない。小さく、本当に小さく書いてある“柏原”の文字をブカブカに余った袖で触れる。



二年という学年を示す青のジャージ。下の方は何重にも捲り上げて穿いている。上の方はお尻の下まで、ワンピースとしても成り立ってしまいそう。



こんなことまでしてくれて…



余った袖をそっと口元まで近付けると男性っぽい匂いがかすかに届いて心臓が即座に反応する。何をしているの、私…!無意識だった自らの行いに戸惑いを覚えて袖を離した。うつむく顔はみるみる熱くなった。どうしようもなく。



後ろの女はこんなにも忙しいと言うのに、前を行く彼の背中は変わらず、静か。こういう人なのだろうと思った。あちらの稼業の人は堅気かたぎには案外優しいのだと祖父母からも聞いている。何も自分にばかりではない、と自らに言い聞かせていた。



そんなとき。




……?





ふと歩調を緩めた、広い背中にぶつかりそうになった。



何故か立ち止まって上を向いている。彼の視線の先を樹里は追う。




あれは…




続いたのは意外な言葉だった。





「何故、魚が空を泳いでいるんだ?」




え…?




魚。鋭い目を限りなく丸の形へ見開いて動きを止めている、彼の言うそれは魚と呼ぶにはあまりにも平べったいと樹里は知っていた。いや、この国に住まう者なら誰でも知っているはずのもの。



恐る恐る隣へ並んだ、樹里は恐る恐る彼へ言う。



「端午の節句、ですよ。知らないんですか?」



最初は何かの冗談かと思った。笑った方がいいところなのだろうか、なんて。しかし。




タンゴ…?




見下ろした彼の顔は相変わらず驚きに満ちている。しかも、同じ響きを繰り返していながら、何か、違う…?




あの…




失礼かとも思った。だけどもし、これが冗談なら。もし、冗談でないなら。いずれしても伝えておくべきだろう、と。



「ダンスのことじゃないですよ?……柏原さん」



「え…っ」



更に目を見開いた彼の顔はやがて困惑へ。嘘…本当に?もしかして長年海外にでも住んでいたの?と、なると…


もしかして、海外のマフィアの方々とも通じて?



それは本来、恐ろしい仮説のはずだった。なのに不思議な事態は待たず、起こった。あろうことか。




樹里はそこで、彼の前で、初めて笑ったのだ。




「あれは鯉のぼりと言うんですよ。5月5日が端午の節句と呼ばれている日です。ご家庭によってはもうこのくらいの時期からあのように…」


「魚を泳がせるのか!」


「ええ、そうです」




ワントーン高くなった声が彼の興味を示している。意図せず乗り出したのであろう大きな背丈に一瞬、仰け反りこそしたものの、単なる怯えとはまた違う感覚のようだった。



それからまたしばらく歩くと今度は田園風景が二人を迎える。その途中で彼がまた問う。



「気になっていたんだが、あの水辺では何を育てているんだ?」


「稲ですよ」


「なるほど、米の栽培か。この鳴き声は?」


カエルですよ」



交わす言葉の差中でやっと気付いた。凄まじい威圧感への恐怖、それ以上に芽生えたのは…




周囲をしきりに見回す鋭い目は、焦げ茶の瞳は、まるで大きな昆虫を捕まえた少年みたいに輝いている。怖そうだと思った。遠い人だと思った。狼みたいだと思った…かつては。なのに今ではこんな姿を、私に。



…嬉しい。



紛れもなくそれだった。戸惑いさえ追いつかない程、温かな熱が胸を占めた。




田園の細道からまた別の細道へ。再び古びた住宅街がみっちりと両端に続く。もうすぐ着く、その途中でまた彼が立ち止まる。




あれは…




神社の側、見上げて呟く声に、今度は何かしら、と微笑ましく思って同じように見上げた。彼が言った。



「オーク…?」



枯葉と新緑を共に従えたその木に向かって聞き慣れない名を口にする。また何かと間違えて…?樹里はふふ、と笑みをこぼした。教えてあげようとした。




「違いますよ。あれは…」




………





そこで一度、止まった。同じ。同じ響きがあるって、気付いてしまって。




“カシワ”



……ですよ。




……柏原…さん。





繰り返すとなおさら熱さが込み上げた。ただほんの一部ばかり同じなだけ。それだけ。自身に言い聞かせているのにどうしようもなくつのって、ついに視線を伏せてしまった。




カシワ…



あれが、か。




彼の声が続いた。またしても意外な方向へ。



「間違いではない」


「えっ?」



「“カシワ”は英語…?だったか…?“ダイミョウ・オーク”と言う」



「え!」



今度は樹里が驚きの声を上げる番だった。それも一度ではない。



「“ジャパニーズ・エンペラー・オーク”とも言う」


「今度は皇帝、ですか!?」



まさか、とはまさにこのこと。植物に詳しいという意外な一面を噛み締める樹里にブツブツと呟く低い声が届く。どうやら独り言のようだ。




“J・オーク”でもアリだったのか…




それは大して気にも止めなかった。ただ、樹里の口からは、ごく自然にこぼれた。




……かっこいい。




「あ…?」



振り向いた彼が目を丸くする。それからちょっとばかり頬を染め、長い指先で鼻をこすって答えた。



「まぁ…そうなのかもな。大名に皇帝、だから…」



ーーいいえ。




樹里はゆっくりかぶりを振る。




「か…」




言いかけてしまった。瞬時に後悔しそうになったけれど、口にせずにはいられなかった。





「柏原、さんが…です」




「……え……っ」






まるで引力に導かれたみたいに。




あ……




「やだ、私…ごめんなさい」




何ということを。何て大胆かつ迷惑なことを。



悔いる樹里は慌てて目をそらし、声だけで詫びた。それが精一杯だった。



高鳴りはもう、天まで届きそう。男性への好意なんて、はっきり示したことはなかったのに。こんな私が居たなんて、信じられない。



ああ、空よ。この晴れ空の向こうにも確かに存在する、月よ。これもあなたの引力なのですか…?




苦し紛れの言葉を内心で紡いでいた。熱が冷めるのを、待っていた。




「お前、よく噛むよな」



思わぬ形で再開された会話。きっかけは彼だった。声色の変化を感じた樹里は驚いて見上げる。



笑っ…てる…?




高みの顔にまた驚く。





笑って、る。




「呼びにくいんだろ?“カシワバラ”」



「あっ、その…ごめん、なさ…」




だったら…




彼は言った。息を飲む程眩しい光を背に、優しく細い眼差しで。





ーー柏原かしわばら れい




「…“怜”でいい」




え…




「え……えっ…!?」




視線のやり場がなくて身体のそこかしこから汗が滲む。告げられたばかりのそれを…呼んでみたい。だけど、だけど…



あたふたとするばかりの樹里の頭にやがて降りてきた、大きく包み込む感触がわしゃわしゃと撫でた。




怜…



怜、さん…




「行くか」



ひと段落終えたとばかりに手を離して歩き出すその背中に樹里は声を張り上げる。




樹里、です…っ!




振り返った、驚きに満ちた顔の彼へ。




「磐座樹里と申します」




怜、さん…っ!





頑張りました。私、頑張って呼びましたよ。だから、どうか




あなたも…







「ーー樹里」




……っ。





「樹里、か。いい名前だな」




ああ…



嗚呼。




引力の殿方。孤高の狼…名は、柏原怜さん。



遠いと思っていました。忘れようとしました。それなのに、あなたは現れた。思い出させてしまいました。私はもう…戻れません。ならば…




樹里は再び口を開く。不器用なのは自分もだと、彼の指摘通り、きっと噛んでいるのだと知りながら。それでも不思議と恐れずに。




「また、会えますか?」




それは胸の奥で響きを変える。甘く焦がれる音…“逢えますか?”と。




知ったばかりの名…怜。その人は薄く笑う。堪えるような声で言う。




「何言ってんだ、お前。同じ学校じゃねぇか。それに…」



少し、困ったような顔をして。




「まだ着いてねぇぞ」



…目的地に。





カシワの木漏れ日のもと、何事もなかったように歩き出す彼の後ろを小走りで追いかける。ここだ、という距離で落ち着いた、それはさっきよりもずっと、近い。



“目的地”



思い返しながら。まばらの光を受け入れる広い背中へ視線で問いかけた。痛みが付いてきた。




あなたと共に向かうその場所は…




あの家でなくてはなりませんか?





もう止まらない。この想いは、奥に沈めようにももう叶わないと知った。それならばと、せめて、と、樹里は一つ願い事をした。




どれくらいぶりでしょう。“生きている”感覚がこんなにはっきりしているなど。


引力の前に無力な令嬢はなおさら無力です。高いカシワの木の葉には手が届きません。手に入りません。



だけれども。




ーー怜さん。




この気持ちだけは残しておいていいですか?手離さなくてもいいですか?



居てもいいですか?私……




ーーあなたの傍にーー



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