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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第6章/猫の眠り(J.Iwakura)
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5.皐月の私に水無月を



ーー忘れようなんて、無理な話だったのだ。最初から。



起きたての目で夜空を見上げるジュリの身体はゆらりと傾ぐ。あの頃、あの舞台で、彼の背後に浮かんで見えたまん丸な月に吸い込まれていくよう。新月なのに、見えもしないのに。だけど確かにそこにある、月。



共通点を見出した。彼も同じだったと。例え見失っても、皆の記憶から失われても…



「着陸するぞ」



彼の声に振り返った。眉間に消えない二本を刻んだまま、不器用に微笑むその顔に、眼差しに魅入った。こんなの…甘い胸の痛みと共にまた実感する。



こんなの…逃れられる訳がなかったんだ。



この人の持つ引力は、異なる世界に隔てられてなお、失われることはないのだから、と。



レイの操縦する機体は霧を押し分け、ゆっくり垂直に下降する。窓の外が徐々に鮮明になっていく。機体の唸りが消える頃、彼に促されて外へと踏み出した。




そこは実に寂しい場所。崖と崖の間に挟まれた焼け野原のような谷には痩せた木々がまばらに生えているくらい。わずかな生命の息吹を探すように下向きの視線を廻らせるジュリに、やがて彼の声が。



「ーー酷い有様だろ?」



寂しげに告げる。



「これを見ると、お前と出逢ったのが今で良かったと思っちまう。ここには戦争があったんだ。それもたった2年程前の話…」


「そう…だったの?」



「俺も大切な人を何人か失った。家族なんて知らない俺だけど、もし居たならこんな感じだったのか…っていう奴らも。俺の感覚はだんだん麻痺していった。憧れだった上司に近付くことばかり考えて、無茶を承知でフィジカルにまで向かった」



だけど…



彼は続けた。霧に遮られそうなその顔に胸が瞬時に締め上げられる。



「…お前が取り戻した。痛みも、温度も、何もかも。俺は、もう…」




ーー失えない。




「お前だけは。失ったりしたら気が狂うって…確信がある」



「レイ…」




無防備に垂れた大きな手をジュリは思わず両手で握った。真っ直ぐ見上げる目に精一杯の力を込めて彼に言う。



「ここに居るよ、レイ。ずっとずっと、一生。レイを守るから…!」



見下ろす目は見開かれ、それからすぐに揺れた。次第に細まった。苦笑の形を作った彼が泣きそうな声で返した。



「…馬鹿」



ついにきつく瞼をつぶって。




「それは俺の役目だろ」



そんな彼に言い返したくなった。馬鹿ねって。もういいのに、って。





二人は手を繋いで深夜の荒野を進み行く。その途中でいくつかの会話が交わされた。




ーーお前、もう思い出したのか?前世。



レイの問いにジュリは頷く。きっと興味津々なのだろうと可笑しく思いながら教えてあげる。



「きっとうんと昔だよ。レイの言う戦争なんてなかったもの。まだ全部は思い出せないけど、そう、あの頃は…」



断片的に語り出した。このケット・シーの身体で生きていた前世。今の大人びた姿が完全体で、つい最近までの幼い姿が妖力を最小限に抑えたときの休息の姿。あれになることは滅多になかった。膨大な妖力を必要とした後くらい、しか。



「平和だったもの」



それは必要がそれ程なかったことを意味する。何処かでそんな出来事があった気もするけれど、だからこそ確信があるのだろうけれど…



ーー私は、無邪気だった。



住処である森を駆け回り、心の赴くまま眠って、食べて、それから…



「ママにもなったんだっけ。私…」



同じ種族の青年に恋をして、想いが通じて子宝も得た。とりわけ刺激のある日々ではなかったけど、幸せなときだったと思う。



「へぇ…」



やがて小さく届いた彼の呟きのトーンにはっとなった。前方だけを見ている陰った目を捉えたジュリの胸は疼き出す。罪悪感を覚えつつも、沸いてくる感覚が抑えられない。



「…妬いてくれてるの?」



「……っ!」



すごくストレートに問いかけてみるとすぐに顔をそむけたレイ。口ごもりながら、別に、と。前世は前世だろ、と。そう言いがならも耳まで真っ赤に染まっている。図星だと全身で示しているかのような仕草にジュリはふふ、と笑う。くすぐったく。



「レイは?」



聞かせるばかりでも悪いと思った。単純に知ってみたい気持ちでもあった。だれど彼は黙ったまま。心配になって覗き込んだとき



「…聞く程のモンでもねぇよ、俺のなんて」



レイ…



またそんなことを言うの?あのときみたいに?私はレイのことなら何でも聞くのに。受け入れるのに。もう、気付いてよ。



寂しさに思わずうつむいてしまった。そのとき、握る手にぎゅっと強い感覚を覚えて顔を上げた。



「もう少しで着く。その前に、ちょっと付き合ってくれねぇか?」



歩調が速度を早めた。向かう先、密度を増した木々の先に水の気配を感じた。ほんの一瞬ばかり立ちすくんだジュリに気が付いたレイが振り返った。



「まだ水が怖いか?」



心配そうに尋ねてくれた。ジュリは小さく喉を鳴らす。


今もはっきり残っている。凍て付く感覚と容赦のないうねり…濁流。怖くないと言ったら嘘になる。だけど、あのときと違うものが、今は、ここに。



ーー大丈夫。



ジュリは言った。微笑んでまた踏み出した。半透明の足で。




ーー怜…っ!ーー




朝日を受けて光の粒を散らす、冬の海の中で叫んだ。もうあのときとは、違う。




ーーレイ。




彼は今、ここに居るから。








森とまではいかない、林くらいの密度の場所をくぐり抜けて、辿り着いたのは湖のほとり。



待ってて、と言い残したレイが生い茂る草むらの陰に身を潜らせた。もう離れることはないけれど、置いていかれるはずはないけれど、こうして姿が見えなくなるだけでも不穏な鼓動が始まってしまう。


不安を紛らわす手段としてジュリは腰を下ろしたところの草を指先でもて遊ぶ。ぼんやり見下ろしていた、その視界に捉えた……白。



あ……



覚えのある形に呟きが漏れた。そこからは自然な流れ。摘んでは繋ぎ、摘んでは繋ぎ、を繰り返した。



ジュリ…?



少し切れ気味な息遣い。彼の声が耳に届いた。ぱっ、と見上げたジュリの二色の目に飛び込んだ色。今度は…




……青。




「レイ…これを…?」



ゆっくりと手を伸ばして受け取ると、額をうっすら光らせたレイが相変わらずの不器用な微笑みらしき表情で。




「この気候と湿地だからこそひと月先に満開になる」



…好きだろ、お前。




視界が滲む。星明かりを受けた青の色も、一緒に。




…うん。




手の中へ頷いた。滲みの元がはらりと落ちると寄り添う形が鮮明になった。覚えててくれたんだ……紫陽花。私が好きだって。



「せっかくの誕生日にこんなことしかできなくて…」



わる……




続きを聞く前に、いっぱいに伸ばした身体で彼へしがみ付いた。耳まで迫った唇でジュリは囁いた。



「レイの気持ちが最高のプレゼントだよ…!」



耐え切れず震え出すと、よしよしとなだめるみたいに彼の腕が応えた。しばらくそうしていた。いつまででもそうしていられる気がした。



思えば今日の昼から。想いと真実をを打ち明け合ったあのときから、私たちはもう何度も求め合っていると気付く。あっちの世界の者が見たら、破廉恥だとか、みっともないだとか言いそうだ。令嬢などと呼ばれていた私の立場ならなおのこと。



だけどもう、帰らない。これからはここでずっと、この人ばかりを見ていても、もう咎める者も知る者も居ないのだ。




ーーレイ。




そっと身体を離した、ジュリは先程の場所へと引き返す。ちょうどいい長さまで繋いだそれを拾い上げて、また彼の首元へすがる。そこでまた、繋ぐ。



「これ…」



「シロツメクサ。何だか懐かしくなっちゃって…」



夜は藍に、夕は朱に、降り注ぐ温度に染められる白は



「レイはやっぱり白が似合うね」



不器用で優し過ぎる彼に、よく似合ってる。




「レイの誕生日…日にちはわからないんだっけ?」


「ああ、俺は捨て子だから。発見された日から推測して大体これくらい、ってところしか」


「それが10月?」



「…ああ」




それはあまりに哀しい返答。事実。だけど、世界は想いで変えられる。彩れるのだともう知った。他でもないこの人が、教えてくれた。



じゃあ…



切り出したジュリは次に提案をする。



「日にちはおんなじにしよう?10月5日。私は5月5日。5ヶ月違い。どれも区切りが良くて覚えやすいでしょう?」



なかなかの名案だと内心自画自賛していた。それでもこの人は、レイは、いつだって私の予想を上回る。いや…と、否定を示すかぶりを振って。



「今日、だよ。俺はまた変われたと思う」



ジュリと…樹里。



「お前に逢えたから」




潤んだ青の瞳が静かに伏せる。頬へ手を当てがい、静かにこちらへ。



藍を映し出す湖のほとり。青を胸に抱いたジュリと白を携えたレイが顔を寄せる。入り混じって青白く染まりゆく二つの横顔がより深くを求めて傾いて…




甘さと切なさと、可笑しさと。いろんな想いが入り混じる。ジュリは声には出さずに問いかける。




今日だけで、もう…何度目?




やっぱり少し可笑しい。すっかり素直になった彼も、こんな大胆な自分も。




だけど何度でも欲しくなる。




もう決して手離したくないからこそ。





――触れて――




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