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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第6章/猫の眠り(J.Iwakura)
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4.優しき引力、凄まじく



「顔色悪いね、磐座さん」



その日、私の異変にまず気が付いたのは学級委員の浅葉さんだった。すでにクラスいちの冷静沈着ぶりで知られる彼女は、弱々しく見上げる私の視線を真正面から捉えるなり、うん、と一度頷いてすぐさま担任の元へ向かった。



「保健の先生はいないけど保健室は空いてるから使っていいって」



戻ってきた彼女が言う。優しく腕を引っ張り上げられた樹里は、ふらふらと定まらない足取りで教室を出た。





ーー4月末。



ゴールデンウィーク期間に入り、来月頭の月曜以外は休日。特に部活動に所属している訳でもない樹里にとっても今日は休みのはずだった。本来なら。


何でもこのゴールデンウィーク明けに課外授業があるとのこと。それに赴くに当たってしおりの作成や班の誘導などを執り行う委員の募集がかけられた。



当然の反応とでも言おうか。


我こそはと名乗り出る者などいなくて、休み時間耳障りな程賑わっていたのが嘘みたいに、クラスの皆は揃いも揃って口をつぐんでいた。


…普段からこうならいいのに。


無気力。疲労。げんなりとしたこんな感情を久しぶりに覚えたときだった。



ーー磐座さん、どうかな?ーー



浅葉さんの声により白羽の矢が立ったのは樹里だった。真面目そう。嫌がらずに引き受けてくれそうな大人しい子。教壇から真っ直ぐ見つめる彼女の眼差しにはそんな期待が込められているようだった。規律正しく、地味を決め込んだ身だしなみが見事に逆効果となったらしい。



それでも樹里は



…はい。




そう答えた。何故私が…そう思う前に気持ちはもう切り替わっていた。


何のことはない。ただ与えられた通りに遂行すればいいだけのこと。名乗り出る理由が無いように、断る理由もまた、無い。



ーー無い。



とりわけ害もないことならなおさら、従えばいいだけだと理解の元で自然と頷いた。限りなく“無”に戻っていた。ここで思いがけないことが起こった。




…じゃあ、俺も。




無の中の樹里がわずかに見開いた目で声の方を振り返る。覚えのある方へ。そしてやっとのように意識が覚めていく。




葛城君…?




斜め後ろの席。声にはしなかったその名の持ち主が顔の隣で手のひらを晒していた。真っ直ぐ教壇へ向いていた円らな目がゆらりとこちらを向いて意味ありげに細まると樹里はとっさに目をそらした。その後の変化を見届けることはなく。



何も知らない浅葉さんが、助かるわぁ、と言って心底安堵したように微笑んだ。





こうして同じ委員となったその人。彼。




葛城かつらぎ拓真たくま




中学の頃から同じ道のり、同じ校舎へ通った同級生故に、その万人受けの良い整った顔立ちも甘く優しげな声も、高校へ入ってから明るく色合いを変えた程良い長さのサラサラの髪も、どれもこれも知ったものだった。


だけどその名は、今や樹里にとって不穏な響きでしかない。頭のキレる彼とわずかの言葉も語らない樹里との双方の効力によって、真相を知る者などただの一人も居ないことだろう。




ーーごめんなさい…葛城君ーー



ーー私たち、もう…ーー




あの日、全てが壊れてしまった。彼を変えてしまった。




…そんなことなど、誰も。







浅葉さんに付き添われて誰もいない保健室を訪れた樹里は、力を入らない身体を硬く冷たい質感のベッドに横たえる。多分貧血。よくあること。こうなったとき自分にとって楽な体勢、横向きになって深く息を吐いた。



「これからお昼休憩を挟むけど、また後で様子を見に来るわね」



ミーティングのことは気にしないで。柔らかく布団をかけてくれた浅葉さんが優しい笑みと言葉を残して去っていった。





サワ…



サワ…




窓際ではないけれど、そんな音が聴こえる気がした。初夏の陽気、木漏れ日。ゆっくりとなびく新芽の木々。微睡みの中で幻想を見た。しかしそれも束の間のこと。



ガラッ…



浅葉さんが出ていってからまだ数分だ。引き戸の音を耳にしてそれが彼女だとは思わなかった。先生?でも休みだって言っていたし、誰か他にも…



近付く足音が途切れた。確かな気配がカーテンで遮られたすぐ隣で落ち着いたのがわかった。



寝息…



まだ来て間もないというのに早くもこちらに届いた規則的な息遣いをそう結論付けた。多分…男の人。イビキとまではいかないけれど、独特の低い息の震えを感じた。限りなく確信だった。



男の人は苦手。



あの関係が壊れて以来、それは樹里の意識…いや、むしろ本能と言っていいくらい深くまで根付いたもののはずだった。なのに、不思議と、嫌ではなくて。



低い寝息を傍に感じながら樹里も緩やかに呼吸する。隔たりの向こうの姿も見えないその人とリズムが合わさっていった。



束の間。不思議な束の間の安らぎ。



本当にそうだった。



この日は本当に何もかも長くは続かないのだと、すぐに知ることとなった。





ガラッ…





次の引き戸の音は、微睡みの差中の樹里の耳には先程よりも遠く感じられた。



ペタ、ペタ、と迫る足音は確実にこちらへ向かって、やがて、放たれた。





「ーー磐座」




……っ。




我に返ったときにはすでに、見下ろす彼の顔が。




「葛城…君…」



「気分はどうだ?」




ベッドの上の樹里は顔だけ仰向けにして目を見張る。思いのほか優しい眼差しを受けて懐かしさを覚えた。だけど、身体はまるで縛り付けられたように強張って、動かない。



「…迷惑をかけてごめんなさい。先程よりは楽に…」



言い終わる前だった。彼は、葛城拓真は、あろうことかベッドの淵に腰を下ろした。しかもそればかりではない。



ーー本当か?



真上から至近距離まで真顔を迫らせて、問う。一層固まる樹里に彼はまた尋ねる。



「襟、緩めた方が楽なんじゃねぇの?」



「だっ…大丈夫、ですから」



しなやかに胸元に伸びてくる手に気付いた樹里は息を飲む。逃げるように身体をうつ伏せまでよじって目をそらす。



磐座…



自分の名が呟かれた後、しばらくは沈黙が続いた。それでも遠のかない気配に鼓動が不穏な高鳴りを始めた。




なぁ、俺……




「…もう待てないよ」




ずっとずっと、無で居続けたせいなのか。寂しげな声色の意味を理解するまでに時間がかかった。彼の声はまた問いかけを始める。



「磐座、お前さ、もうすぐ16だろ?」


「は…はい」



「女が嫁に行ける歳。だよな?」



「………」




言いたいことは、あった。





確かに、私はあと数日で16歳を迎える。女が嫁に行ける歳、確かにその通りだ。



だけど、あなたも16歳じゃない。いいえ、お誕生日がまだだから15歳よね?男性は違うでしょう?そんなのはまだ先の、話……





言いたいこと。疑問。それは限界まで達した強張りのあまり口にはできない。樹里は恐る恐る顔を傾ける。彼へ。




「お前、夢とかあんの?この学校でやりたいこととか、何になりたい、とか」


「そんなたいそうなものではない、ですけど…」



「だよな」




完全に囚われた。見上げたのを後悔するくらい。


多くの人から可愛いと称される円らな瞳は今、まるで獣のような強い光を帯びている。鈍く、だけど、強く。




ーーなぁ、磐座。




その目が更に迫った。抉るような言葉もまた。




「既成事実さえ作っちまえばこっちのもんだと思わねぇか?」




え……




弱く呟いた樹里に葛城はニヤリと笑う。意地悪く、だけど何処かすがるような目つきだった。




「…マジでわかんねぇの?お前」




……っ!!




哀しげな問いのすぐ後、強い力がのしかかった。とっさに浮かせた両腕を為す術もなく押さえつけられて。



「俺が好きなんだろ…?」



馬乗りになった彼の容赦ない手は、抗う動きを押さえつけ、胸元のリボンを外し、襟を引き剥がそうとする。嫌っ…!細い悲鳴は唇に遮られ、ひるんだ隙を目ざとく狙ったのか、今度はスカートを押し分けて、中へ。



……っは……っ…!



散々重ねられた後、やっと呼吸が通ったけれど放つ声は途切れてしまう。虫酸の走る艶かしい息遣いが自分のものだと知るなり喉の奥が突き上げそうに震える。



それでも彼は言う。真上から、実に容赦のない獣の目をして。



「なぁ…いいだろ?磐座。お前だって本当は…」



「やめて下さい…やめて…っ!」




抗う声はやっぱり、苦しい。もう何も見たくなくて、知りたくなくて、きつくつぶった瞼の目尻にはじんわりと湿り気が滲んだ。



好き…


だったけれど、今はもう…



あなたなんて…!




「あっ…や……っ…」




もう受け入れたくない。こんな乱れ切った自分の声も




「…葛城…君…っ…!」




ーーこんなあなたも。






何が何だかわからなくて、やがては抗う力も失せていく。ああ、所詮私は…感覚という感覚が遠のきそうだった。永遠の地獄のように感じられて、終わりがすぐ傍まで迫っているなんて思いもしなかったくらい。




助けて…!!




やっと絞り出した声が本当にそう言ったかどうかの確信もなく。




シャッ




高く鳴り響いた音と共に、こちらへ降った強い斜陽と




……っ!




「……!!」




逆光を背負って高くそびえる柱のようなものを彼と揃って見上げた。




…おい。





柱、なんかじゃないと知った。それは確かに、人。それも見たこともないくらい高い…




いいえ。




見たこと、なら……




一度は奥深くに沈めた記憶を結び付けている最中、怒りのような、呆れのような低い声色がこちらへ言う。



「なんつぅところでおっ始めようとしてんだ、お前ら」




不機嫌。ああ、それだと思った。そして




かっ…



「柏原…先輩」




ーーその人だと思った。




眩い斜陽に目が慣れて、その姿がはっきりしてくる。眉間に三本のしわまで刻んで、じり…と迫る、彼。忘れもしない引力の人。



柏原…さん…。




「……っ、ーーーっ!!」




声とも言葉とも言えないような何かを漏らした葛城は転げ落ちるようにして樹里の身体から遠のく。膝は曲がったまま、四つん這いみたいな体勢でカーテンの隙間を分けて何処ぞへと去った。



走る足音が遠く、早くなって、やっと二足歩行を思い出したと残った二人へ示す。





布団ははだけ、全てが晒されていた。開いた襟からは下着が、めくれ上がったスカートからも…




……っ!




鋭く見下ろす彼のもと、やっと我に返った樹里は先程の葛城と同じようにして転がり落ちる。四つん這いみたいな体勢で…そこまでは同じだった。



だけど続かなかった。



奥から沸いてきたものに耐え切れず。




「おい…」



呼びかける声を背に、うずくまった樹里はついに吐き出した。それは何度も何度もせきを切ったみたいに流れ続けた。



乱れた制服も、顔も、膝を着いた床も、全部が汚れていく。立ち込める不快な匂いにまた吐き気が起こり、繰り返す。



もう何もわからなかった。何処にも意識を止める余裕がない中、かろうじて背後の彼の気配が遠のくのを感じた。



誰かを呼びに…?



そんな考えが浮かんだ。それとも…続いてまた浮かんだ。後者の方がはるかに確信めいているように思えて、樹里は一人、乾いた笑みを漏らす。




そう…



そう、よね。きっと、気持ち悪いって…




ハハ…



ハハ…ハ……





無残にぶちまけられた吐瀉物としゃぶつの上、震える肩を抱いていた。そこへ、何か感触があった。



温かい。





「大丈夫か?」




………






背中を撫でてくれる、温かい感触を。





「しっかりしろ、な?」




「…あ……」





気が付くと、大きな手で肩を支えてくれていた。見上げた樹里の目にそれは確かに映った。はっきりと。



嘘…



何で……



抑えが効かず泣きじゃくる、樹里の傍で彼は黙々と雑巾を床に這わせる。滲んでいてもわかった。間違いなく汚れてしまうであろう大きな手の動きには、躊躇ちゅうちょの一つも見えない、と。




「水、飲めよ」




そう言って蓋を開けたばかりのペットボトルを差し出す。笑ってはいない、相変わらずの険しい顔。だけど。




「磐座、だっけ?」



呼んでくれた。細まった目の色は支えてくれたときと、同じで。




柏原さん……





「柏原……さん……っ!」




わぁっ!と泣き叫ぶ途中でその名を呼んだ。えっ、と驚く彼の声に無理もないと思った。わかっていた。



だって彼にとっては初めてなんだもの。だけど、私は…



私は……




樹里の想いは蘇る、あの日に。動き出したが最後、後はもうつのるばかりだった。




ーー例えあなたは知らなくても。




眉間がひび割れていても、険しくても、確かにそこにある奥まった目の色を見ながら。



樹里の心は悲鳴のように震えて叫ぶ。




ずっと知っていた気がするんです。あの日から、あなたは……柏原さん、は……っ…




ーー優しいってーー



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