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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第6章/猫の眠り(J.Iwakura)
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3.再来に打ち震えた日



ーー古臭いだなんて声が聞こえてきそうだけど、事実として存在するのだから仕方がない。


由緒正しいだなんて言われる富豪の本家。実際のところ、何が正しいのかなんてわからない。しかし、それでも、身を置くだけで染まっていく。知っていく。長きに渡る風習や決まり。それに従うことこそがこの狭い世界における正しさなのだと。



川原町に越してきて数年経ったある日、一つの“真相”を知った。しわがれた二つの声で語られるそれは、ある程度の言葉も理解できる歳だった私を深く貫いて痕を残した。




ーー私の存在は、その為に……?




希望を捨て、夢を捨て、目に映る全てから遠ざかり始めたのはその頃からだった。暗黙の了解を受け入れるとき、もうこの胸は麻痺したように何も感じなくなっていた。



ほんの少し、取り戻したときがあったけれど、それもすぐに終わった。いや、終わらされたと言った方が適切か。




私。



無力な令嬢・磐座樹里はきっとこのままでくのだと思った。狭いこの町で、この世界で、用意された安全な道のりを歩むだけ。用意された学業を経て職に就き、大人と呼べる歳をある程度重ねたなら、今度は用意された誰かがやってきて私の伴侶となる。



町並みこそ古けれど、住まう者は皆姿、形、在り方などを変えていく。都会に限ったものだとばかり思っていた、華やかな化粧に様々な色の髪、露出の高い危うげな服装に身を包んだ同年代の者の姿を目にする頻度も増えた。家屋だって今や瓦屋根ばかりではなく、洒落た外観の集合住宅も増え始めている。



ーー令嬢など名ばかり。



全ては確かに変わっていっている。“由緒正しく”を植え付けられた私は置いていかれるばかりの存在なのだ。



これじゃあまるで昔話のお姫様。だけどこれが現実だ。


大人に監視され、大人になりゆく道のりの途中で何を目にしても…




水田の中を走る一本道。その真ん中で樹里は天を仰ぐ。また一つ大人へ近付く、5月はもう目の前。刺すような紫外線たっぷりの初夏の陽気に漆黒の瞳が細まった。また一つ、言い聞かせた。




例え、ほんのいっときばかり心揺さぶられようとも。



全ては為す術もなく“無意味”に変わっていく。残像すらきっと残らない。だから…




ーー嗚呼…!ーー




嗚呼。




……忘れて。




全てを掴み手繰り寄せるような引力の人。どうか私の中からお消え下さい。いいえ、もうかすみの奥へ薄れかけていますから、心配はないのでしょうが。



裏社会を継ぐ御子息、でしたっけ?何だか長い名字でしたね。だけどもう、覚えてもおりませんよ。ひとときの夢を見せて下さった、ただそのことに感謝致します。




ーーさようなら。



どうかお怪我をなさらぬよう。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



残像に別れを告げた。もう思い出すこともないと思っていた。割り切るすべも覚えたつもりだった。死を目前にしてなお幸せの象徴のように微笑んでいた、あの父と母の血を引いているのだ。何のことはない、とさえ。



それが何故、よりにもよってこんな形で?



だらしなく開けた襟を直したくてもそんな余裕すらない。何度でも突き上げそうになる喉の奥に鎮まれと命じるくらいが精一杯で。


吐瀉物としゃぶつで濡れた口元。乱れた制服。両膝から崩れた床はもう、酷い有様。こんな、こんな姿……



涙の濁流も治まらぬまま、再び傍に現れた気配を見上げた。その姿を捉えるなり震える唇を噛んだ。



獣のように鋭利な輪郭に象られた焦げ茶の瞳に為す術もなく囚われる。



どうして……



よりにもよって、この人に。




おかげで思い出してしまった。ぶり返してしまった……熱、響きが混じり合い、軋みを立ててあの名を紡いだ。





――柏原さん――



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