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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第6章/猫の眠り(J.Iwakura)
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2.焦がれたのは光ゆえ



ーー4月中旬。



川原かわはら町立川原南高等学校にて。




体育館へ向かう学生たちの群れは所々で対や塊になって進んでいた。肩の浮いたブレザー姿が大多数である一年生たちも同様。そこかしこか沸く女子たちの黄色い笑い声に、いくらか太くなった男子たちのふざけ合う声。春の陽気のもとで続くそれらは実に活気に満ちた響き、それでいて、実に遠い。



地元で進学を繰り返すのが風習なのではというくらい地域性の濃いこの田舎町では、中学どころか小学生あたりからよく知る顔ぶれが多い。故に入学したての一年生たちも決して浮くことなく、すでに親しい友人やグループで行動していた。ごく自然な流れだった。



そんな大多数の中で口を紡いで歩だけを進める、磐座いわくら樹里じゅりに接する者はいない。存在が薄い、という解釈も当てはまらない。視線はそこらじゅうから、確かに彼女へ向けられているからだ。


5月5日生まれ、ギリギリの15歳。遠巻きに見ている同級生たちにとってもそれは決して珍しいことでないはずだ。しかし。容姿から雰囲気に至るまで、彼女の持つそれは明らかにかけ離れているとわかる。



伏せ気味の長い睫毛まつげに小ぶりな唇。しっとりとした白い肌の頬にはちゃんと薄紅梅の血色がある。周りよりも少しばかり高い背丈に、全身を象るしなやかな曲線。腰までの漆黒の髪は所々でいい具合の毛束を作って、揺れる。やや重そうな質感がまるで水を含んでいるかのよう。



制服でなければきっと誰もが見紛う。推定する年齢と言ったら20歳くらいだろうか。



年相応ならぬ美形の少女は化粧にも頭髪の染料にも染まっていない。制服のスカートは規律通り。それでも隠しきれない色香を従えて存在する彼女に向けられるのは当然、羨望、憧れ、そんなたぐいの眼差しのはずだった。



確かにそれもある。しかし、事態はそれ程簡単ではなかった。



彼女は知っていた。惚ける視線など本当に最初の最初、入学式のときくらい。今やはっきりと感じ取れる。



恐れ。それから



…蔑み。



ひしひしと全身に伝わる感覚は初めてではなかった。気付いたのは中学の後半から。そしてここへ来てまた知った。



不名誉な語り継ぎが水面下で成されていることを、早々に知ってしまったのだ。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



その日は新入生歓迎会の翌日。部活PRの時間枠に収まることを断固拒否した唯一の部、演劇部による公演が行われるとのことだった。



面倒くさいとか、興味ない、とか、散々ぼやきながらも一年生たちは結局素直に足を運んだ。変わらぬ表情で見つめる樹里が今度は気だるいため息を漏らす。




興味ないなんて、嘘じゃない。




一人、権力のある者がこうだと言えば、皆もこうだ!と口を揃える。ありがちなことだ。そして恐ろしいことだ、と怯えていた。



団結が生まれるすべも実はこんなものなのかも知れない。だけど団結は所詮結果ではない。向かう方向性を誤れば、寄ってたかって攻撃姿勢をとる、どす黒い塊になるだけだ、と。



誰ともただの一言も交わすことなく体育館に敷き詰められたパイプ椅子の一つに落ち着いた。一体どんな物語を見せてくれるのか…淡く浮かんだ一抹の好奇心も長くは持たない。



気が付けばいつもこんな調子だった。何を前にしたって心の日没はすぐに訪れた。時は長く、一日は短く、退屈に、虚ろに過ぎていった。




照明が落ち、全体を闇が占めた。やがて一際明るく灯った舞台へ、樹里の虚ろな目がゆらりと向いた。何を見たって同じ…変わらない今日という日を、この時間を、疑いもしなかった。




その人を目にするまで。







「………っ」





おのずと小さく詰まった、息。自らの異変に気付く頃、感じ取ったのは自分ばかりではないと知った。




ザワ…



ザワ……





遠慮がちで密やかなざわつきがそこらじゅうから。その中のいくつかを樹里の聴覚は言葉として捉えた。





何か凄い、あの人…



ってかヤバイ。背高過ぎでしょ!



日本人離れしてるよね…



ハーフじゃない?





ーーそれはいつしか忘れられない光景となる。




眩きも忘れて見入る中でかろうじて理解できたのは、どうやら大正浪漫を模した舞台らしい、ということくらい。背景のセットすらない殺風景な舞台の上、ひたすら眩い光の中に佇むただ一人が、長い闇色を翻し高らかに何かを叫ぶ。



ひらり、舞うマントの隙間から時折覗く同色の学生服。焦げ茶の頭には学生帽。寸足らずの袖と裾は仕様なのか、はたまた規格外とも言える長身の為なのか。



遠く離れていたって見上げる錯覚を覚える、高校生とは思えない佇まいの彼の背後には自然と風景が浮かび上がった。煉瓦レンガ造りの町並みから汽車の駆け抜ける草原、厳かなチャペル、そして断崖絶壁へと台詞に合わせてめくるめく。



嗚呼…!



太い声が一際高く、切なく焦がれる声色を放つと胸の奥がぎゅっと締め上げられた。こちらへ伸びる大きな手に何もかも掴まれてしまいそう。言うまでもなく、凄まじい存在感以上に凄まじい表現力。その頃私の目に映っていた光景は夜。恐るべき引力の満月が居座る夜空だった。



台詞などろくに理解してはいなかった。情景を思わせる言葉に付いていくのがやっと。だけど時折、不意打ちの如く放たれる、愛の言葉らしき響きに胸の奥が高く響く。ただひたすらに奪われる、樹里の目は次第に惚ける滲みを帯びていく。辺りからはまたいくつかの声が。




私、知ってる!あの人…



有名人だよ!



2年の柏原先輩。



演劇部だったんだぁ、意外。





ーーカシワバラ…?



そこで樹里はやっと振り向く。誰もかれもが落ち着きなく隣と顔を見合わせてはまた戻す。出処はわからなかった。届いてくる情報に耳を傾けるくらいで。




今年転校してきたばかりの…



極道の跡取りなんだって。



マジで!?本物?



ヤバイ〜、カッコいいかも…




聞き捨てならないいくつかに惚ける感覚は遠のき、背中から寒気が駆け抜けた。カッコいい?誰が放ったかもわからないそれに樹里は訝しく眉を潜めた。思った。




これだから無知は、無知というものは。


もしそれが本当ならば生きる世界が違うということよ。簡単に触れていい人じゃない。遥か先のあの舞台より、更に遠い遠い存在なのだわ。


ぎゅっ…また胸元に圧迫を覚えた。何のことはない、いつの間にか自分自身手で握り締めていた。




川原という名のこの地にて代々続く大地主。磐座本家。令嬢と呼ばれる娘、磐座樹里は知っていた。



両親亡き後引き取ってくれた祖父母は歴史の色を濃く残したこの町をよく知っている。皆が恐れをなす、だけど無知が故にこうして憧れをいだく者さえいる、“あの世界”の人たちとも関わりがある。しかし、だ。



柏原。



そんな名は聞いたことがない。おおやけにはされていないのか、はたまた姓が異なるのか。この町は小さい。決して広くはない。私が知るその筋の人より更にしっくりくるくらいだけれど、磐座本家と近しい者ならば何処かで耳にしているのが自然ではなかろうか。



町内の出ではない?確信めいた感覚がよぎった。それが意味するものも、また。


ああ…樹里は密やかに息を漏らす。何故だか熱を帯びているようだった。




もしそうなら、今この場で浮かれている、無知な彼女たちよりも、むしろ…



私の方が…




こんなことをわずかばかり考えた、自分はおかしいのかと思った。未だ高みに居るその人はこちらに気付くはずもない。関わりの一つもないというのに。


黒髪が揺れる。振り払わんと小さくかぶりを振る。それなのに不思議な感覚はなかなか遠のいてくれなかった。



その人…柏原というその男性ひとの目は、奥まって陰になっているにも関わらず、真っ直ぐこちらを見下ろしているような気がした。何故だか哀しさを感じた。



孤高の狼。



そんな響きがあまりに相応しくて。










ーーあの場所から意識を連れ戻した。機内の“ジュリ”は彼を見上げる。あの頃みたいに胸元を握った。やっぱり…奥深くの魂にまでいだき続けた想いがつのった。


高い鼻、青い目。あのときとは違う。だけどやっぱり同じなんだ、と。



藍色を埋め尽くすかすみの白を背に彼がこちらを向いた。優しい声色で言った。



「…疲れたろ。行き先なら決めてある。寝てもいいぞ、ジュリ」



あのときとはもう違う。情熱と静寂。相反する色をしたジュリの二色の瞳が震えた。



うん…



小さく呟いて身体を寄せた。触れ合った部分が焦げ付きそうに熱くって、吐息がこぼれた。止まらない愛おしさにまた、泣きそうになる。




この人と、何処までも行くって決めた。それはやっぱり、あのときからだったんだ。



微睡みの差中でジュリは問いかける。口にはせずに、だけど伝わると信じて。




ーーねぇ、レイ。



こんなに想い合ってる。通じ合ってる。もう全部、全部、あなたにあげられるのに…



これでもまだ、運命じゃないの?




二人きりの旅立ちの途中、ジュリの想いもまた旅立つ。また戻る。唯一の存在を得てやっと息づいた孤独な令嬢、磐座樹里の中へ。




レイ。光の呼び名を持つあなたは、やっぱり




ーー光だったよーー



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