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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第6章/猫の眠り(J.Iwakura)
57/101

1.過去は偽り、二人は真実



ーー5月5日。



あの世界のあの国では【端午の節句】と呼ぶ日。それももうすぐ終わろうとしている。夜。



細く細くしなる糸のような月が夜空高くから見下ろしている。きっと明日には消え、新月と称される、頼りない形のそれが教えてくれているよう。



生も死も皆平等に。生まれしものはやがて消える。そしてまた生まれる。新たな姿となって新たな場所へ。



それは記憶を取り戻した今、ごく自然に感じられるこの世のルーティンだった。なのに不思議なものだ。決まり切った世の摂理さえ覆したのは、広大な夜空のもとではあまりに小さい、たった二人による一つの愛だったのだから。



この世が非力なのか?それとも、ちっぽけに見える個々の魂の持つ力が思いのほか強大ということなのか?



浮かんだ疑問に答えさえ見出せないまま、私は今夜“例外”となる。見据えたのはきっと、過去でも未来でもなく…




ーージュリ。




いつの間にか足を止め、天を仰いでいた私を、振り返った彼が呼ぶ。それなりの距離はあったけれど卓越した猫の視力ではっきり見て取れた。



心配そうな顔。もう何度か目にしている。彼をこんな表情にさせる、その意味だってもう知っている。だけど、これからは…




「ーーレイ」




柔らかく微笑んで見せた、その表情とは反する力強い足取りで歩き出す。真っ直ぐ前を見て、彼を見て、もう決して揺るがないと決めた思いを内側で反芻はんすうさせながら、緑の地を踏み歩いていく。




ーーこれからは。




今を生きる。私を受け入れてくれたこの世界で、唯一無二の彼の傍に居続ける。命尽きるまで。




全うしてみせる。私が、彼の居場所になり続けるんだ。










ーーいいじゃねぇか…ーー




新たな一歩となる今夜。選んだ衣服はあのデートの日、彼がぶっきらぼうながらも褒めてくれた白いワンピースだった。透けた手足はすらりと長く、当然ながら丈も短い。胴は細いままだったから何とか着られたけれど、張り出した胸のあたりが本当は少しきつい。同じ者が着ているのに、もう同じものには見えないくらい。



柔らかく流れ込んでくる夜風は思いのほか冷たくて思わず腕をさすった。そんな仕草を見せてしまったせいか彼は大きなボストンバッグを地面に置き、ジップの隙間から取り出した上着を差し出して言った。



「あったかくして来いって言ったのに、お前は…」



呆れ気味の渋い声。しゃがんだ姿勢から見上げていた彼のちょうど目の前で、まるで図ったみたいに吹き付けた風が危うげな白い裾を浮き上がらせた。驚いたように目を見開いた彼はすぐに顔をそむけた。ブルネットの髪から覗く耳がみるみる赤みを帯びていく。



ん!と言って腕だけで突き出してくる彼から受け取った。可愛い、なんて、くすぐったく芽生えた感情に思わず笑みがこぼれた。目を細めてごく自然に言っていた。



「ありがとう、レイ。優しいね。やっぱり、変わらない」


「お前がそんな格好してるから…」



「…大好き」




……っ




息の詰まる気配を感じたジュリは頬を染めて、ふふ、と笑う。真っ赤な顔して硬直している眼下のその人は、ついさっき一線を超えようとした相手とは思えないくらい実に不器用で、うぶな少年のようにさえ見えてしまう。可笑しく思いながらもジュリは少しばかり反省する。



「行こう?」



その声でやっと顔を上げた、レイの前で上着を羽織った。前を寄せて胸元を隠し、



「ホラ、ちゃんと着たよ」



って悪戯いたずらに笑うと落ち着きなく鼻をこすりだした彼。逆効果だったかな?自身を罪に感じながらもまたくすぐったさに包まれて身をよじった。




それから互いに言葉もなく並んで歩いた。先を目指す途中でどちらからともなく手を繋いでいた。吸い付くような感触だった。すぐに温まっていった。



辿り着いたのは小型機の車庫。そこに居た思いがけない姿にレイの身体がぴくっと跳ね上がった。



「お前…っ!」



動揺の声が上がったのも無理はない。闇に浮かぶ大きな緑の双眼、というだけでも十分恐怖に値する上、こんな包帯だらけの身体にされた彼ならば。



しかしジュリは前へ進む。おい、と呼び止めようとするレイの声を背に、迷いなく伸ばした手で大きな猫の頬に触れた。




「見送ってくれるの?ミク」



にゃぁん



「…だと思った。あなたはきっと止めないって」




にゃぁ…





【ミク】?



恐る恐る隣へ並んで尋ねる彼にジュリは教えてあげた。



「この子の名前。未来って書いてミクって読むの。いい名前でしょ?女の子なの」


「お前がつけたのか?」


「うん」



未来ミク…か。呟く彼がきっと知らないことを、もう一つ。



「ナツメから聞いたよ。純血の妖精族は現代にはもう居ないって。それは動物妖精も同じだって。この子には人の血が受け継がれているから…」



察したようにのっそり上体を立ち上げたミク。倍の高さになると共に迫力まで倍増した姿にレイがわっ、と叫んでのけぞった。大丈夫、と笑うジュリは続けて言った。



「ほら、こうして二足歩行だってできるし人間の言葉だって少しはわかるの。レイの気持ちだってきっと届いてたんだよ。混乱して怖がってただけ。だけどわかってくれた。私のおかげなんかじゃないの」



「え…」



見上げるレイの目が見張られた。恐怖からゆるやかに解放されていく過程を目の当たりにしたジュリは小さく息を飲んだ。



「いや、やっぱりお前のおかげだよ。俺はこいつを怖がらせちまった…」



だけど…




「ありがとな、ミク。受け止めてくれて。俺らはもう会えないけど、ここの奴らはみんないい連中だ」



…元気でやれよ。




その声色は柔らかく、やがては甘さを帯びた。高鳴りに呼吸が危うくなる、ジュリが見上げる先の彼は、あの鋭い狼の目を細めてミクに歩み寄る。尋常じゃない引力を持つあの大きな手で彼女の湿った鼻先に触れた。



ああ…魅入るジュリはそっとため息をこぼす。やがて笑みが満ちていく。甘い痛みと共に。




ーーやっぱり、好き。



ずっと好きだった。



その優しい眼差しに、逢いたくて、逢いたくて、もう一度…




「行くぞ…ジュリ」




いつの間にかこちらを向いていた、差し伸べられていた。そこに自身の手を伸ばしながらまた胸の内で呟いた。




レイ。



あったかいその手に、あなたに……



もう一度、触れたくて。






もう離さないと示してくれているような握力に導かれて蒼の小型機へのステップを登った。彼は操縦席へ私は隣へ。初めてなどではなく二度目だけれど、距離感はもう、違う。



唸る振動こそあれど、ヘリコプターのような滑らかさで上昇していく機体の動きに今更ながら驚いた。あっちの世界にこんな技術はない。どうなっているのだろう、なんて考えた。でもそんなのは束の間のこと。



物珍しさに対する好奇心をやめたジュリはそっと隣に身を預ける。触れた肩に伝わるぬくもりを感じながらただ一つを思う。




遠くまで来たんだなぁ。



本当に、遠くまで。




これはもう家出なんてレベルではない。肉体から離れた幽体はこうして世界まで飛び越えてしまった。今空高くから見下ろしている景色。そこに宙を泳ぐ魚の群れはない。そんな文化はここにはないと改めて知った。



それでもこの胸の中、繰り返すものは変わらなかった。もう戻れないと。戻る気もないと。この人が居るならば、名残惜しくなどない、と。




ジュリ。



お前……




隣からの声に顔を上げた。操縦桿を握り、夜空を見据えたままの彼から続いた。



「17歳、だな」



忘れていた訳はないけれど思わず、あ、と呟きが漏れた。思い出したのは彼がそれを知っていたということ。あのとき、あの世界で、他でもない自分が告げたのだということ。



「誕生日、おめでとう」


「ありがとう……」



かすかに揺れたジュリの瞳は水の膜を纏って光る。満ちてきた熱いものがこぼれないよう努めながら、ゆっくり瞼を細めて彼に尋ねた。



「怜は10月って言ってた。あれって……」



「ああ、本当だ」


「……良かった」




良かった。



何故だかそう思えた。もう知っているのに。




あの姿が、柏原怜が偽りだったことも、本当は22歳だってことも知っているけれど。



「追いついたんだね、私。10月までは同じ……」



ジュリがぽつりと呟くとレイはハハ、と笑った。いつになく可笑しそうな横顔の彼が言った。



「何言ってんだ。あれは手の込んだ年齢詐称だぞ」



思った通りの反応にジュリもつられて笑い出す。だけど、やがて届いた言葉が




ーー10月まで、じゃない。




彼の声が




「もう置いてなんていかない。何処かに行くってんならお前も一緒だ。ずっと隣だ。ずっと……」



「レイ……」




再び鼓動を高まらせていく。切なく見上げるジュリの隣、水滴を振り払う獣の如く、素早く頭を振るったレイが半ばヤケになったように言った。真っ赤な顔で。



「後悔してるってんなら遅いぞ。もう離してなんてやらねぇからな……ッ!」



高鳴っているのは私のだけではない、彼もなんだとわかった。先に落ち着かなきゃ。使命感にも似た感覚が胸の奥を優しく撫でて鎮めていった。




ーーしないよ。




「後悔なんて、しないよ」




そう答えてジュリは微笑む。未だ罪悪感に締め付けられているとわかる彼に見せ付けるべく、精一杯。



ちら、と横目で見た青の瞳に早く楽になって、と願った。おのずと滲んでくる視界にあの光景が映り出した。霞が晴れて鮮明になっていくようだった。



今ではもう遠い。遠い場所の、世界の、瓦屋根の町並み。古びた商店街に、こじんまりとした神社。赤の木漏れ日を降らせるカシワの木。




そして





ーー柏原さんーー



ーー怜……さんーー




ーー怜ーー





ーー行かないで、怜……っ!ーー





何も知らない私に呼ばれる度、独りで耐えていた。悶え苦しんでいたと今ならわかる、彼の姿が。










出逢いと呼ぶには遠い距離だった。




誰もが息を潜めて見入る……いや、魅入る先。スポットライトの降り注ぐ高みで闇色を翻すその人の顔はろくに見えもしなかった。なのに何故だろう。




ーー知ってる!あの人……ーー




暗闇の中で小耳に挟んだだけのその響きが、その名が、何故ここまで染み渡ったのだろう。



満月の背景の前、凄まじい引力を我が物にしているこの人はよもや月の使者なのではあるまいか。




若しくは……




ーー狼男?ーー




そんな夢物語が自然と脳裏をかすめた。決して忘れられないこの感覚を後に運命と称した私は




――可笑しいですか?――



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