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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第5章/狼の遠吠え(R.Kashiwabara)
53/101

11.居場所はただ、一つだけ(前編)



各々の場所で日々の職務を進めていく。そろそろ休憩がしたいね、なんて声が聞こえ始めてくる。集中力の途切れる…午後3時。


研究室の職員もお茶やら糖分やらを求めて出て行った。その流れに逆らって重々しい足音を連れた二人が入ってくる。



「ナツメ、いるか!」


「ナツメさんっ!」



顕微鏡の置かれたデスクの前。どう見てもそこに居る彼女をわざわざ呼ぶエドとマギー。キリのいいところまで終わらせたいのか、しばらく顕微鏡を覗き込んでペンを走らせていたデスク前の彼女が遅れて振り返る。



「今日は随分と早い戻りだな」



「おう!後のフライトは部下たちに任せてきた」


「私も今日はこれで上がりにしてもらいました」



どうだ、と言わんばかりの得意気な笑顔を見せ付ける二人にナツメは深いため息を漏らす。呆れたような顔で言う。



「任務に私情を持ち込むのは、プロフェッショナルとしてどうかと思うのだが」



気だるくも鋭利な言葉を突き付けられた二人は、ぐっ、と喉を詰まらせて黙り込む。しかし、すぐに。



「わかってるよ…わかってるけどよぉ」


「今、二人の味方になれるのは私たちくらいじゃないですか!」



熱くみなぎった様子で身を乗り出す。揃いも揃って。うむ…という低い唸りがナツメから起こった。思うところがあったのか、小さな頷きを後から加えた。



「まぁいい。お前たちもそうしなければ気が済まないのであろう?」



返答するなり安堵して、早速自分の座るパイプ椅子を集めてくる二人に顕微鏡側へ向き直ったナツメは背中から聞く。



「サシャの様子はどうだ?」



「ああ、相当ショックがデカかったのか、まだ飯も食えない状態だからな。今、ヤナギが付き添って自室で休んでる」


「サシャさん、自分のせいでレイさんが怪我したと思ってるから…」



ドス、ドス、と立て続けに腰掛けたエドとマギーが顔を見合わせて、ため息混じりにうつむいた。





レース素材のカーテンが敷かれた窓からやんわりと射し込んでくる光。鋭くない、斜陽。


ワーカーホリックと陰で称されるナツメは二つの小窓の中の微生物をじっと眺め続けている。言葉もなく。その後ろの二人が何やらそわそわとし出す。




どうします?



あれ、聞くか…?




お前聞けよ。いや、エドさんが……肘で小突き合いながら小声で交わしている。ナツメは振り向かない。まるで気付いていない、かのように思われた。




ーーレイとジュリ。




ナツメは振り向かない。だけど確かに声がした。エドとマギーが顔を上げる。白衣の背中からそれは続いた。



「二人は今日、ある選択をするだろう」



選択…?



聞き返す声のタイミングでナツメはやっと振り向いた。斜陽を反射させた眼鏡が白く光った。



ーー私の過去の話…



「それで理解してもらえると思う」



強張り喉を鳴らす二人の前、さらりとそう言ってのけたナツメは、やはり自らのタイミングを察していたのかも知れない。









ーー若かりし頃、ある人間と恋に落ちた。




フィジカルの男だった。




「ナツメさん…も…?」



目を見張って尋ねるマギーに彼女は頷く。続きは静かに語られた。



「私もその頃、フィジカルへ調査に行ったのだよ。大学生と称してキャンパスに潜り込んだ。そこで出逢った」



ふっと視線を下へ傾けた、ナツメは薄く笑みを浮かべる。



「その人は私より一回り程上の准教授だった。それだけでも許されざる関係と言えたが、私たちが惹かれ合うのはあっという間だった」




初めて共に過ごした夜。呼吸を忘れる程美しかった星空。



細いながらも全て包んでくれるような二の腕の温かさ。甘い声の囁き。




「……決して忘れはしまい」




「ナツメがすげぇ恥ずかしい話してるぞ」


「ロマンチックじゃないですか」



頬を染めているという共通点こそあれど、エドとマギーの捉え方はそれぞれに異なっているようだ。それでもナツメは変わらぬ調子で続ける。気付いているのか、いないのか。



「だけど所詮私も仮の姿。レイがしたように私も、関わった者たちの記憶を消してこの世界へ戻ってきた。彼のことは忘れるよう、心に決めた、つもりだった」



しかし……



彼女は続けた。じんわり浮かんだ自らの潤いに気付いているのか、いないのか。




「あろうことか、彼はこの世界に来てしまったのだよ。事故で瀕死の重症を負ったことによる、幽体離脱。どうやら私の想いが引き寄せてしまったらしい」




「そんな……」



「じゃあジュリも、レイの想い……が?」




恐らく、と彼女は頷いた。ようやく気付いたのか、眼鏡を軽く上げ、指先で拭いながらまた言う。



「研究所前に倒れていた、記憶喪失の痩せ細った男。何日か歩いてきたらしい。姿形は変わっていたけれどすぐに彼だとわかった。そのとき初めて知った」




ーーフィジカルの人間の幽体がこの世界に入ると、何日かかけて前世の姿に戻る。




「知ってるぞ、それ」



目をいっぱいに見開いたエドが呟いた。乾いた唇がわずかに震える。



「今や知ってる者も少なくない。誰が前例かと思ったら、お前だったのか、ナツメ」




ああ。



そうだよ。




白衣を翻して、斜陽を前面に受け入れる。木漏れ日のように儚げなナツメの声が言う。




ーーここからが“選択”だった。




「私は天界に求めた。仮に今までにもあったのだとしても、私はその前例を知らない。このまま彼がここに居たとしたらどうなるのか、早急に情報をくれ、と願った」



天界は二つの選択肢を提示した。




一つは離脱した幽体である彼自身が強く願って肉体に還ること。



もう一つは幽体のままアストラルに留まり、フィジカルの肉体を見捨てること。




「私には決められなかった。愛したのは間違いなくフィジカルの彼。だけどここに居る彼も魂は同じであるのだ、と」



だけど見抜かれてしまったのだろうな。




背を向けたままのナツメ。しかしその声にわずかな揺らぎが起こったのをエドとマギーは聞き逃さなかったようだ。




「彼はきっと、私の為に、後者を選んだ。准教授としての実績や名誉、全て投げ捨ててでも私と一緒になりたいと言った」



ーーこの世界に君が居るなら……ーー



「そう言った。浅はかだったのは…私だ。寄り添おうとしてくれる彼の言葉に、内心では浮かれていたのだからな」



ーーそれがどれ程恐ろしいことかも知らず。





不穏に続いた響きにエドとマギーの表情が強張る。それで……と、恐る恐る、エドの方が口を開く。



「どうなったんだ?」




「幸せだったよ。しばらくの間はな。離れていた時間を埋めるように私たちは愛を交わして合った。彼も幸せそうに見えた。だけどやがて、崩れていった」




「崩れた、って……?」



恐る恐る、マギーの方が問う。振り向かないままの背中から、結末への経緯が語られた。



「前世の姿に戻る。それは見てわかった。だけどもう一つ戻るものがあると、私は知らなかった」



はっ、と見開かれたのはエドの双眼だった。思い出したそれを彼が言った。



「ーー記憶」



「その通りだ」




逆光に陰った後ろ向きの彼女が縦に揺れた。頷いた。




「戻るのは前世の姿だけではない。記憶も、だ。この選択をした魂は、アストラルでの前世、フィジカルでの今世、そして現代のアストラルの記憶…この三つを抱えて生きていくことになる。彼は耐え切れなかった。ついには精神崩壊を起こして……」




大量の薬を飲んで、逝ってしまったよ。




「そんな……ナツメさん……」



マギーはとうとう、声を詰まらせて泣き出す。震える彼女の背中をエドがさする。しかし、彼の目にも。




「あれは相当強靭な精神力でないと、無理だ。優しく繊細な彼には荷が重すぎた。そして私は、天界から、更に恐ろしいことを聞いたのだよ」




ーー試練は現世を持って乗り越えなければならない。



途中放棄をした場合、それは許されないカルマとして天界に記憶され



来世、また同じ世に生まれ、同じ試練を背負うーー




「彼はまた同じ運命を辿る可能性があるのだ。そして私は未だ、別の世。手を差し伸べることは叶わない。彼を救えるのならこの身などいくらでも犠牲にしようと思った。だけどできない。幽体しか持たぬ私にとって肉体は天からの借り物。フィジカルに残ろうとしたところで、いずれ強制返還されてしまうだろう」




肉体がなければ姿さえ見えない。幽体であるが故に。




「……お手上げ、というやつなのだよ」




すっかり赤くなった目で見上げる、エドとマギーもう、何も返せない。そこへナツメが振り返った。眼鏡の向こうの潤いは取り払われていた。



「そういうリスクを伴うんだ。何故それを先に教えてくれなかったのか…私は天を恨んだよ。だけどいつしか気が付いたんだ」



恨み。そう口にしながらも表情は至って静か。もう過去の思いだと予感させるかのような。




「私が聞かなかったのだよ。思い付きもしなかった。生態系や心理の研究を続けてきた私になら想像のしようがあること…だから天界は告げなかったのだろう」



ーー未来を変えられる可能性を持つ二人。




「そう判断してのことだったのだと、思いたい」




ナツメがそっと眼鏡を外した。白衣のポケットから取り出した布で拭きながら



恋は盲目、だな。



なんて言う。ずっと黙っていたエドも、やっと切り出す。




「ーーレイたちは知っているのか?そのこと…」



ああ…と呟き何事もなかったかのように眼鏡をかける、ナツメが答える。



「私の与えられる情報なら与えたよ。その上で選択させることにした。今はきっと、葛藤の差中だ。これ以上に繋がるか、繋がらないか……」



「繋がる……って?」



不思議そうに首を傾げて問うマギーにナツメは少々戸惑ったようだ。遅れながら聞き返す。




「……言った方がいいか?それ」





………




……あ。




間の抜けた声を漏らしたのはエドの方。その隣のマギーはまだ訳がわからない顔をしている。しかしその顔色は確実に、変わっていく。そこへナツメが追い打ちをかける。




「言った方がいいか?」




「やっぱいいですッ!!」



いよいよ最高潮まで登りつめた熱に耐え切れず、彼女は口を結んでうつむいた。









それからそっと席に落ち着いた、ナツメがやがて語り出した。



「世間一般ではいかがわしいとか恥ずかしいとか、中にははしたないと言う者もいるな。しかし、魂の観点からすると、あれは波長の融合だ。想い合っている者同士ならなおのこと。幽体と幽体が絡み合い、波長が強く結び付く…」



たまらない熱にうぅ…と呻くマギーにはお構いなしに続けた。



「そんなことになったら、ジュリはもう戻れはしないだろう。磐座樹里の肉体は完全に切り離されて、終わりを迎える」



マジかよ……



呆然と呟きをこぼしたエドはやがて何か気が付いたように顔を上げた。カーテンで仕切られた方面を見て。



「でも、そんなことになったらさすがにわかるよな?声とか音とか……」



………





そして更に、気が付く。




「やけに静かだな」




消えそうに呟いた後は、駆り立てられるように大柄な身体が動く。カーテンを開け放って奥へ、足早に向かっていく。




おい!




向こう側に消えた、彼の声が叫んだ。づかづかと戻ってくるなりナツメに向かって更に叫ぶ。




「何故モニターがついていないんだ!?監視カメラは!?」




「決めさせる、と言ったであろう」



「何、妙なところで空気読んでんだよ!アンタ……」



エドの奥まった目は明らかに、怒りと焦燥に満たされている。彼は言う。



「アンタだって辛い思いをしたんだろ?だったら止めてやらなきゃ駄目じゃねぇか!あっちの“樹里”が死んでもいいのかッ!?」



「ちょっと、エドさん」




正面から近付いたエドとナツメの間、先に何か感じ取った様子のマギーが制止に入ろうとする。しかし静止は思わぬ形で。




「彼は言っていたのだよ。死を選ぶ前日まで、君と居られて幸せだ、ってな」


「ナツメ……!」



「わかっていたはずだよ、彼も。肉体は瀕死の重症。戻ったところで元の生活は手に入らない。障害を負った身体の苦痛と愛する者が居ないという苦痛、両方を背負って生きていくことになるのだ、と」




ーー要は未来を選ぶか、今を選ぶか。





「……私にもどちらが正解だったのか、未だにわからないんだ」




言葉を失ったエドの顔から強張りが薄れていく。寂しげな笑みだけを残して再び背を向けた、彼女に次の言葉がかけられることはなかった。



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