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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第5章/狼の遠吠え(R.Kashiwabara)
52/101

10.愛する者に言うことか?(後編)



「取り込み中悪いな、二人とも」



言いながら部屋に入ってきたナツメがベッドの上にちんまりと並んで座っているパジャマ姿の二人に言う。



「食欲が芳しくないようだからな、口にしやすい流動食を持ってきてやった。無理をせず、気が向いたときに摂ればいい」



「…ああ」


「ありがとうございます」



赤い目で見上げる人間と人型ケット・シー。うっすらと微笑んだ、ナツメはすぐに部屋を後にした。




「食欲…か」



レイが呟いた。隣のジュリがちら、と見た。







ーー本当は気付いている。



噂が出回っている。内容も大体察しが付く。と、なるとこれはやはりナツメの気遣いか…と推測できた。



ここへ来る道のりの途中、何人かの職員とすれ違った。自分に向けられる特徴的な視線でレイは感じ取っていた。



怪我をした。試験は中断、昇格の話もきっと見送り。そんな者にかける言葉や態度といったらある程度想像が付く。しかし彼らのそれは違っていた。



遠巻きに伺うような目。好奇、同情、それから…軽蔑。複雑に混じった感覚を肌に受けた。



結構な規模の事故さえ上回る、何かが語られているのだとわかった。その後に顔を合わせた、親しい彼らならなお、詳細まで耳にしているのだろう。




「…食えるか?」



「…はい」




ナツメからもらった一つを彼女に差し出す。そろりと伸びた半透明の手がそれを掴んだ。



真空パックに詰まったゼリー状の流動食を一緒に飲み下した。味はよくわからなかった。


小ぶりな口を付けては離し、付けては離しを繰り返している彼女を見下ろした。樹里…レイは小さく呼んだ。



「もうわかるか?この世界のこと」


「はい」


「…幽体の世界。物質世界のあっちの者からしたら、いわゆる“死後の世界”だ」



「怜……」



ゆっくり顔を上げた、彼女の目に涙が浮かんだ。



「怜は…やはり死んでしまったのですか?」



彼女が問う。悲壮に満ちた表情で。レイは首を横に振る。



やはり、と思った。予感は確かだったのだと知った。



きっとまだ混乱の差中にいる今の彼女に取って、頼りは自分だけ。レイは脳内で慎重に組み合わせた言葉を口にする。



「…違うんだ。俺は元々こっちの世界の人間。柏原怜なんて、本来は存在しないんだ」



見開かれていく、彼女の目の色に痛みを覚えつつも、続ける。



「フィジカルで生態系調査をする為の仮の姿だった。いずれは消さなければならなかった。関わった全ての者から俺の記憶を消し去るよう、天界に申請した。だけど…お前は覚えてた」



樹里…



震える声で呼ぶ。




「俺が死んだと思って、だからお前…死のうとしたのか?」


「…ごめんなさい」



「謝るなよ……っ」




そう、謝るべきは彼女ではない。謝る、ならば…




「俺のせいなんだよ」


「怜…?」



「申請が意味を成さなかった、それは俺のせいだ」



告げた。彼女がこんなことになってから知った、遅すぎる真相を。



【記憶の抹消】という名の申請。それは限りなく確実だ。しかし、稀に、その効力を失うときがあるのだという。



「執拗な未練、それから…後悔」



そんなことも調べずフィジカルに赴いた当時の自分に嫌気に感じずにはいられない。浅はかだった。そんな考えが彼女を巻き込んでしまった。



「お前に記憶が残ったのは、他でもない俺によるもの…」


「怜、それって…」



「…お前を愛し過ぎたんだ」





怜……っ。




流動食を得たばかりの彼女から、とめどなく続いた流動。収まりきらなくなった涙をこぼしていく彼女をまた性懲りも無く抱きすくめる…昼過ぎ。



泣きじゃくる彼女を胸に抱えたまま、レイはゆらりと天をあおいだ。海のような潤いに満たされた青の双眼が天井のスプリンクラーを捉えた。二つ。




ーーそうだ。




レイは我を取り戻していく。彼女に告げなければならないのは、こんな自分勝手な想いばかりではないのだ、と思い出した。



樹里…



そっと身体を離して切り出した。




「磐座樹里も…死んではいない。あの日ちょうど高台に居たサーファーが海に入っていくお前を見つけて、助けた」



だけど…



パジャマの裾から覗く白く透けた彼女の足を見て一度は躊躇ちゅうちょした。それでも覚悟を決めた。今こそ言わなければと思った。




…それがどんなに残酷でも。





「お前は一度心肺停止になった。蘇生には成功したが、未だに昏睡状態。半年間ずっとだ。酸素の行き渡らない状態が続いた脳には、障害が残った可能性が高い。お前があっちに戻って目覚めたなら…そのときは……」




半身不随…だ。





音はなかった。声もなかった。



ただ見上げる彼女の宝石のように綺麗な二色だけが見開かれていった。





怜…



私……





薄く開いた唇から小さくこぼした、彼女の肩をレイは強く掴む。彼女に言う。



「怖いのはわかる。今まで当たり前に動いていた足が動かなくなるのは…怖いと思う」



だけど…



ずっ、とすすり上げて、叫ぶように言った。



「例え歩けなくてもお前の魂は前に進めるんだ、生きてさえいれば…!フィジカルの医療もだいぶ発展しているそうだ。リハビリである程度元に戻る可能性だって、十分にある。だから…樹里…っ!」



「怜…」



「戻ってくれ、あっちの世界に。あれはお前の身体だ。磐座樹里として生きる為に与えられた尊い肉体なんだ!見捨てないでくれ…頼むから…!」




消えて…くれ……っ!




どうしようもないくらい、情けないくらい声が震えた。抑えようがないくらい、涙が溢れた。



すっかり濡れた頬に当てがわれるぬくもりを感じた。すぐ傍から見つめていた、彼女が言った。哀しく。




「怜は…【磐座樹里】が好きなのですか?」



……っ!



「私は、怜…ううん」




両の頬を押さえられた。彼女の唇が塞いできた。柔らかく重なり合った隙間に、どちらのものかもわからない塩辛い味が流れ込む。




「レイ。あなたが好きなの」




「ジュリ…」




顔を離して改めて見た。そこで気が付いた。



泣いてこそいるものの至って落ち着いる彼女の表情は、告げたばかりの衝撃的な事実とはあまりに、合わない。知っているのか。受け入れているのか。それとも…



「ジュリ…お前…」




戻る気が…ない?




震える目で見つめるレイにジュリは言う。熱く艶かしい眼差しに覚えがあった。



「私がこんな風になるのは…レイ、だけなの」


「だからって…」


「レイは…迷惑?」



苦し紛れに、ああ、と答えた。彼女が嘘、と言った。



「愛してるって言ってくれた…もう、遅いよ」



彼女はふっと上を向く。思いもしなかったことが続いた。




「あのスプリンクラー…“樹里”が聞いていたから、知ってる」



でも、今は…



はっ、と息を飲んだ、レイも見上げた。二つのうちの一つを。ここに来る前にナツメが耳元で囁いた、あの言葉が蘇る。




ーーここから先は、あえて見ないことにする。お前たちに任せるーー



ーー好きに決めるがいいーー




俺一人だけだったらギリギリで自制が効いたかも知れない。自信はないが。しかしまさか、彼女も聞いていたなんて…



もう逃れようがないじゃないか。




半透明の腕が伸びて首の後ろで絡まった。吐息混じりの願いが彼女から。



「レイ…私を、このまま…」


「お前、それがどういう意味か…」



「うん、知ってる」



確かな覚悟を頷きで示した、ジュリ。でも…と彼女は続けた。レイは葛藤に震え出す。



「聞かせて?レイの本当の気持ち」



もう、無理だ。




「私を奪って」



…あなたのものにして。






ーー無理だ。









傾ぐ勢いに疾風の錯覚を覚えた。艶やかな漆黒がはらりとほどけてシーツの純白の上に舞う。




仰向けに倒されたジュリは微笑む。寂しく、だけど優しい彼女の眼差しに覆い被さるレイは声を詰まらせて、叫ぶ。




「俺だって一緒に居たいよ…!世界が違ったって、世界中敵に回したって…ずっと、ずっと…お前が欲しいよ!お前が…っ」




ーー欲しいよーー



挿絵(By みてみん)



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