9.愛する者に言うことか?(前編)
ーー陽は登っていく。正午という呼び名に相応しい高く真っ直ぐな位置から照らし出す。草木の青臭さと焼けた土の匂いが漂ってくる、真夏のような日。
憩いの場の食堂ではそこかしこから囁きが生まれゆく。人が増えるごとに、一つ、また一つと、新緑が芽吹くかのように。
レイさんって硬派だと思ったのになぁ…
フィジカルの女子高生なんて私たちからしたら幼児も同然よ。
やだ、犯罪…!
でもあれって悲恋よね…
切ないわぁ。
非難ばかりではなく時折同情らしきものと、惚けたような気だるいため息が混じる、女性職員の声。有る事無い事。表面上しか知らない者の憶測。その点は今朝の男たちと何ら変わりはないが、受け止め方の違いとやらが随所から伝わってくるよう。
「…本当に勝手」
憮然とした表情で呟いたマギーはやるせなさを紛らわすみたいに定食のヒレカツにがっつく。自分のものよりもはるかに早いスピードで減っていく彼女の皿の中を見つめるエドは困惑気味だ。
「あらあら、喉に詰まらせるわよ。はい、お水」
いいタイミングで現れたマドカがピッチャーからグラスへなみなみと水を注ぐ。ん、と小さく会釈をしたマギーはそれをががっと一気にあおった。長テーブルの端に居た男性職員二人が引きつった顔で彼女に着目した。
すげー…さすが鋼鉄のマーガレット…潜めたつもりなのであろう呟きだが、五感の一つが存分に満たされていてもなお、彼女の聴覚は優れたものだった。敏感に捉えた後は横目で鋭く睨み付ける。膨らんだ頬で迫力半減といったところだが、睨まれた男二人はすぐさま気まずそうに目をそむけた。
「ちったぁ落ち着けって、マギー。ホラ、俺のプリンもやるから」
「落ち着いてますよ」
ふれくされたように吐き捨てながらもその手はちゃっかり押し進められたプリンを掴む。やれやれ。そんな具合にエドが苦笑した。
プリンを頬張る途中、マギーの目は向かいのエドの後ろを捉えて見開かれた。ごく、と飲み下してから空の口を開く。
「サシャさん」
「おお、ヤナギも」
振り向いた二人の前、ゆらりと会釈の手が上がった。目の下にクマ。血の気なく痩けた頬のサシャが笑った。薄く。
「…はい。勘違いフェミニスト女のサシャです」
「は?」
「私のように痛い女がこの場に居て良いものかは存じませんが、本日は皆様お日柄も良く…」
「おい、何かヤベェぞ!!」
虚ろな目で軽く左右に揺らいでいる。自慢のプラチナブロンドも今や老婆の白髪のようにさえ見える生気のない彼女にエドが焦燥を露わにする。苛立っていたばかりのマギーもさすがに身体を起こした。
「とにかく何か食え。なっ?」
「そうですよ、サシャさん!私のプリンあげますから!…食べかけだけど」
気遣う二人の隣へゆっくり腰を下ろしたサシャはゆらりとそちらを向いて。
「…いいのです。私は今後神に身を捧げる身として、己を甘やかすものなど一切口にせず……」
「…口調まで変わってるぞ」
「…変わってますね」
目を閉じ、胸の前で手を組み、祈りのポーズを決めるサシャを前にいよいよ凍り付いたエドとマギー。その向こうで相変わらず静かな表情のヤナギが口を開く。
「サシャ、重症」
「見りゃわかるよ!!」
エドの太い突っ込みが響いた。
ーー重症…なら、
どれくらいか経った頃に細く消えそうな声がした。煌めくペリドットのような瞳を薄く開いたサシャからだった。
「…それはレイの方よ。ジュリも…あんなに深く傷付いていたなんて…」
サシャ…
潤いで満ちていくグリーンの目。美しくも儚げな彼女に誰もが見入った。「大丈夫だ」やがてエドが頷きながら言った。彼は続けた。
「アイツらなら案外ぴんぴんしているぞ。今頃大いにじゃれ合って…」
ドスッ!
テーブルの上に置いた彼の無防備な手の甲に勢いよくプリンの容器がめり込んだ。いってぇぇぇ!!と悲痛な叫びが上がった。
「大丈夫?エド」
優しげな声がした。誰が言ったのかと辺りと見回していた当のエドは心当たりを見付けなり、はた、と止まった。呆然とした。
「サシャ…か?」
「嘘…サシャさんが男に優しいなんて…!」
一撃を与えた当のマギーも慌てふためいている。彼女の方を向いたサシャが、いいのよ…と小さく言った。
「私はずっと勘違いしていたの。痛い勘違い女だったの」
「サシャさん、そんなこと…」
なだめるマギーに彼女はかぶりを振る。
「私の前世…今思うとお金持ちの家系だったのよ。ジュリと同じ。お嬢様なんて持て囃されていたわ」
だけどね…
彼女は言った。語り出した。
「そんなのは形ばかり。結婚相手も好きに選ばせてもらえなかったし、やりたい仕事もできなかった。本当はパイロットになりたかったのよ。だけど許してもらえなかった。危ないって、そんなのは男がやればいいんだって…」
ーー悔しかったわ。
「サシャさん…」
ふっと瞼が伏せられた。表情、顔色、全てが衰弱したようなサシャが膝の上の拳にだけ力を込めた。
「正直、この世界に生まれてからもそれ程変わりないんだって思ったわ。平等なんて口では言うけれど結局男が先頭をきってる。だったら平等じゃなくてもいい。そんな慰めは要らない。女がもっと上にいってやればいいんだと思ったの。思い知らせてやりたかったの」
はらはら、伝い始めた雫に皆が息を飲む。ついに両手で顔を覆ったサシャはくぐもった声を漏らす。
「だからいつしか忘れてしまった。男だろうが女だろうが、刺されればすぐに傷付く、柔らかい心を持ってるって。エドにもレイにも辛く当たったりしたわ…」
「サシャ、俺は気にしてないぞ」
「…辛いわ。今は、何よりも……」
明るい表情を見せ付けようとするエドに彼女は気付かない。苦しげに詰まった声で締めくくる。
「好きだって言えなかったことより…レイの苦しみに気付けなかったことが……っ」
悲鳴のように終わった。残った余韻に一同は黙り込む。端の席の職員二人も何か察したようにトレーを持ってそそくさと去っていく。
ーーサシャ。
やがて一人が呼んだ。ずっと無表情で存在そのものさえ霞ませていたヤナギだった。
「私、わかる。ナツメのとき、そうだった」
小さな手でサシャの背中を撫でる。労わるような眼差しの彼女を目にしたエドとマギーは新たな驚きを得た。
「ナツメさんのとき…って?」
「そう言えば何か意味深なこと言ってたな、アイツ…」
ーー…私のような思いは…ーー
「ありゃどういう意味だ?」
「………」
エドの問いかけにヤナギは口をつぐんでいる。表情は相変わらず薄い。だけどまるで酸素が足りていないかのように苦しげな様子がわずかに、見える。長く下りた睫毛の影が更に意味深な暗さを与えていく。
そのとき皆は気配を感じ取った。揃って見上げた。
「ナツメさん、ね。もうそろそろ話してくれると思うよ」
いつの間にか見下ろしていた。いつになく寂しげな表情のマドカが言った。