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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第5章/狼の遠吠え(R.Kashiwabara)
49/101

7.今更すぎて笑えるな



いつもと同じようでいつもと違う朝は静かに。



いつもと同じようでいつもと違う会話は密やかに。




ーーなぁ、聞いたか?ジュリのこと。


あぁ、フィジカルの女の子だったらしいな。


幽体離脱でここに来た?


マジかよ。




廊下の片隅。陽も届かないその場所で数人固まった職員たちが声を潜めて続けている。




何でもレイが手ェ出しちまったみたいでよ。


記憶も消さずに置き去りとか…


ショックのあまり、一人で海へ…


まだ16歳だとよ。


可哀想に…




話に夢中の職員たちは、近付いてくる新たな気配に気付かない。ちょうど角を曲がってきたマギーは一度、足を止めた後、また歩き出す。




お前ら見たか?今すげぇ美人になってるんだぞ、ジュリ。


見たとも!ありゃあヤベェな。


レイも罪な男だぜ。




脇目も振らずに歩いていく。ドスドス響く重い足音にやっと気付いた一人が振り向いた。マギーはそこへ迷うことなく突っ込んでいく。わっ!と驚く声が上がった。



「んだよ、マーガレット。ちゃんと前…」



『……っ!』




不機嫌に見下ろした職員たちの表情は一瞬で凍り付いた。口をへの字に、眉頭を寄せ、瞳全体までカッと露わに。毘沙門天。まさにそんな顔でマギーが睨み上げたからだ。




何だよ、アイツ…


可愛くねぇの。


なぁ、それよりジュリさぁ…




性懲りも無く再開した会話を後ろに置いて、マギーは早足に歩いた。辿り着いたところのドアをバン!と乱暴に開いた彼女は、ずんずん奥へ進んでカーテンをジャッ!開き、モニターを見下ろすエドの隣にどかっ!と座った。やかまし過ぎる生活音にエドが顔をしかめる。当然の反応と言えよう。



しかし座ってしまったら一転、彼女は静かだった。冷めた眼差しでモニターを見つめ、静かな口調で切り出した。



「みんな好き勝手言ってくれますね。レイさんだってあんな酷い目に遭ったっていうのに…」



じっと見下ろしていたエドも鼻でため息をつくと、すぐ隣の椅子に腰掛ける。マギーの声が続いた。



「…何も知らないくせに」


暗く。



「まぁ俺らもまだ全部はわかっちゃいないんだろうけどな」


「そうですけど。有る事無い事言いふらして…腹が立ちます」



ほんのわずかの間を置いてマギーはエドの方へ身体ごと振り向いた。火が付いたみたいに口調を強めた。



「っていうか!アイツらこんなときにジュリの容姿の話なんてしてるんですよ?美人だーとか、胸がデカイーとか、何なんです、あれ。馬鹿なんですか?」


「ん…そうだな。それはけしからんな」



顎に手を添えて、うんうん、と頷くエド。気だるくため息を落としたマギーが何か気付いたように顔を上げた。その目が細まっていった。冷ややかに。



「そういえばあのとき、エドさんも何か言ってましたね?“マブイちゃんねー”でしたっけ?どういう意味です、あれ」


「んっ!?あ、あれはな、俺が前世あの国に居たときに若い奴らが使ってた言葉で…」



んん~と唸って思考を凝らしていた、エドがぴん、と人差し指を立てた。白い歯を覗かせた引きつり気味の笑顔で。



「アレだ!すげぇ美人な姉ちゃんってことだ」



「…同じじゃないですか」



げんなり。そんな様子のマギーが視線をそらした。エドは顔を引きつらせたまま。



「本当、馬鹿みたい。これだから男は…」


「マギー…お前さ、だんだん気ィ強くなってねぇか?サシャの影響?」



恐る恐る尋ねるエドにマギーは何も答えなかった。何か諦めてしまったような冷めた目で、ただ眼下のものだけを眺めていた。



ブーン…と電子音が響く研究室の一角。二人の見下ろすモニターの中には猫の耳を生やした黒髪の淑女が眠っている。遠いベッドに仰向けになり、胸の下で手を組んでいるその姿はまるでお伽話とぎばなしのお姫様のよう。



鼻の下を伸ばしては戻し、伸ばして戻し、を繰り返しているエドの隣、ずっと黙っていたマギーが口を開いた。こう切り出した。



「私、ごっついじゃないですか。サシャさんみたいに綺麗でもないし、ジュリみたいに可愛くもない。骨太だから痩せようがない」


「な、何だ、急に?」


「さっきも可愛くないって言われたし」



いや、お前だって、その…



しどろもどろに何か返そうとしていたエドにマギーは一転して悪戯いたずらっぽく笑った。でも!と続く言葉が彼を更に困惑させた。



「結構愛着沸いてくるタイプだと思いません?私!」


「はぁ!?」



口をだらしないくらいに開いて唖然とするエド。だけど彼女はお構いなしだ。くるっと前を向き、天井しかないはずの上を見上げ、また言う。



「心得てるんですよ、素直が一番だって。隠さない、飾らない素直さが、容姿さえ上回るんだって」



見上げて言う。何もない場所へ。




「そういうの…教えてあげたかったなぁ」



…レイさんに。




疾風の狼。孤高を象徴するかのように称された彼の名で締め括られた。マギー…小さく呟くエドの声が消えかかった。沈黙が再び続くかに見えた、そんなとき。



シャッ



「失礼するぞ」



やはり開け放たれた後に続いた言葉。ドアだろうが引き戸だろうがカーテンだろうが、了承を待たないのは彼女も同じのようだ。



「人の噂も……何日だったか?」


両手を頭の後ろに。長い髪をまとめながらやってきたナツメが問う。しばらく何か思い返していた様子のエドが、やがて合点がいったように人差し指を立てて。



七十五日しちじゅうごにち!」


「ああ、それだ」



「えっ、長っ!」



淡々としたナツメに対し、驚きに目を見張ったマギー。その顔がどんどん渋くなっていく。いたたまれない、とでもいう風に。



「2ヶ月以上もあるじゃないですか!」


「あっちのあの国ではそう言うんだよ。っていうか、2ヶ月で済めばまだいい方だぜ?」



「言われている方からしたら十分長いですよ…」



エドがなだめるも彼女の表情は着実に陰を落としていく。再びモニターを眺めると深いため息をこぼした。



やがてマギーは一つの気がかりを口にした。




「ジュリに聞こえてなければいいけど。眠ってはいてもやっぱり猫だから……耳、いいし」



ぐっ、と膝の上で拳を作った。エドもきつく唇を噛んだ。その後ろから声がした。




そこ、ではないかも知れない。




マギーとエドが振り返る。未だ黙々と髪をまとめているナツメの背中からだった。



「ジュリが何かを感じ取る…その可能性は否定できない。しかし、心配すべきはむしろその後」




ーー狼が目覚めたなら…




そして振り向いた。すっきりまとまった漆黒の髪は冴えた彼女の眼差しを一層強調させる。数本残った後れ毛を顎を突き上げるようにして払い除けた、ナツメが言った。



「七十五日などでは済まない“永遠”が始まってしまうかも知れない」



モニターの白い光を受けた銀縁の眼鏡が奥を遮った。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



ーー不思議な女だと思った。



あの日、吐瀉物としゃぶつと嗚咽、大量の涙と、身体の水分という水分を流し切った彼女。ミイラになってしまうのでは、なんて危機感を覚えたのも束の間、弱々しく見上げる湿った漆黒の双眼を目の当たりにして気が付いた。



皮肉にも。限界まで追い詰められたその状況ゆえに、誰かにすがり生き残ろうとする本能が滲み出てしまったのではなかろうか。




ーーあんな色気のだだ漏れてる女…ーー



葛城がそう言ったのも頷ける。正直、俺も思った。


彼女の外見やら身なりやらは、いかにもなものではなかった。同年代の女の大多数と比較したとき、むしろそれは“地味”と分類されるたぐいなのだと知った。


日を追うごとに目を奪われていった、慎ましくしとやかな立ち振る舞い。何処か哀愁を帯びたような微笑みは現代らしからぬあの町の風景によく馴染んでいた。古風。きっとこういうことなのだろうと思った。



しかし隠せてなどいなかった。潤んだ目、ほんのり頬を染めてうつむく度にそれは伝わった。熱っぽく。



前世は今世にも波長を残すと聞いた。俺は想像した。


こいつの前世…幽体の世界アストラルに生きていた頃は妖精だったのかも知れない。いや、むしろ夢魔サキュバスの血を引く魔族のたぐいか、などと。



事実、彼女は連日夢にまで現れた。それ程に翻弄された。



妖力の強い人型ケット・シーの前世。そう知ったのは霧のけぶるあの森で再会したとき、だったが。



そうして俺の本来いるべき世界で生き始めた【ジュリ】。その姿は至って幼く色気などとは程遠い。しかし俺は実感していった。



あの野郎が全開にしていた、目をそらしたくなる程の見苦しい独占欲が己の中にもあったことを。



幽体を失った今もありありと蘇ってくる。神社の大木の下、赤の木漏れ日。情熱の欠片が降り注ぐ幻想の中で貪欲に。



飢えた獣にけがされる乙女。もし、あれを見ていた者がいたとしたら、きっとそんな風に見えたのではないだろうか。




ーー樹里。



磐座樹里。




今はただお前が目覚めることを。



そして




無責任でけがらわしいこの獣の存在が、お前の中から消えてくれることを。



消えてくれ。消してくれ。許さなくていいから



戻ってくれ




……ジュリ。









願いばかりを繰り返す、その途中で満ちていく白い光。ああ、ついに…予感をいだきながらレイは無いはずの目を細める。虚ろに、思う。



レイモンド・D・オークは死んだ。そして柏原怜も。




次の世では一体、何と名乗るのだろうか。



お前に逢える未来は来るのだろうか。












「おお、起きた起きた」






………







「動けるか?レイ」







………







レイ……



…だと?





「……ナツメ?」




薄く開いた青の双眼に映る彼女を呼ぶ。そして問う。



「お前も死んだのか?」



そう、何故か死後の世界に居る彼女に。




「随分と混乱しているようだな。安心しろ、私は死んでいない。そしてお前も死んでいない」



「え…」




やがてピントが合うように彼女のバックに天井が見えてきた。レイはやっと気が付いた。それが見慣れた色合いであることに。



「生きてる…のか…?俺…」



そう言って身体を起こした。割とすんなり動いた。所々痛みはするが。


手は?足は?浮いた布団の隙間から有無を確認する。右腕には肘まで覆う包帯。でもちゃんとある。動きもする。


あんなに滅茶苦茶に揉み合ったのに?実感の湧かないレイはナツメを見上げて



「顔、付いてるか?」



「無い顔で私が見れるとでも?」



やはり混乱しているな…彼女は言う。目も鼻も口もある。安心しろ、と。



「それなりの怪我はしているが、命に関わる程のものではなかったよ。あれ程の巨体を相手によくこの程度で済んだものだ」



「そう…か…」



ゆっくり、実感を得ていく。そして要らんものまで得た。大袈裟。そんな単語が脳裏に浮かんだ後は羞恥が込み上げてくる。たいそうなものでもないのに勝手にくたばった気になって、周りを盛大に振り回したのか、と。



しかし。レイは思い出した。たった今、耳にしたものだ。



ナツメは確かに“巨体”と言った。しかも“あれ程の”とまで。まるで実際に見たかのよう。何故…問いかけようとしたとき、視界に飛び込んだ。




「うわあぁぁぁ!!」




開いたままのドアの向こうにそれは居た。枠いっぱいに収まった黒の巨体。緑の目がこちらを見ている。涼しい顔を、ん?と傾げるナツメに、ベッドすれすれまで後ずさったレイは指で指し示す。



「あああアレ!何であいつがここに…!」



「ん?ああ、あの子か」



あの子?やけに親しげではないか。混乱に戦慄わななくレイの視線の先で、大型の猫がにゃあん、と鳴く。にゃあん、じゃない、と突っ込みたくなる。



「あの子がお前を研究所まで届けてくれたのだよ」



「何で…」



信じられなかった。しかし、少しばかり落ち着いてみればよくわかる。あれ程みなぎっていた殺気がもう感じられない。図体こそデカイが、至って普通の猫のよう。



「何で…お前……」



レイはゆっくり歩き出した。痛む片足を引きずるようにして近付いていく。疑問は尽きない。一時は殺そうとした相手を何故、と。



それでも思い浮かんだ。今に相応しいと思われる一つを口にする。




「…ありがとな」




ただ守りたかっただけ。その思いが伝わったのかと思うとじんわり目の奥から込み上げてきた。手を伸ばし滑らかな黒の毛並みを撫でた。ゴロゴロ気持ち良さげな喉の音に酔いしれるような感覚さえ覚えていた。だけど。



その後ろに居るナツメが言った。告げられたのは意外なものだった。



「その子も偉いが、まずジュリに言ってやってくれ」



え……



レイはゆっくり振り返る。



「…ジュリ?」



ナツメが頷いた。更に言った。




「ジュリが呼びかけたんだよ。こちらからしたら訳のわからない猫語だったが、そうだな…」



ーー私はケット・シーです。その人は私たちの仲間です。悪い人じゃありませんーー



ーーだからどうか返して下さいーー



「…こんな感じだったらしい。ヤナギが森の植物たちから聞き出した」



更に詳細が語られた。






記憶を取り戻し妖力の解き放たれたジュリは崖に連れて行ってくれ、とエドに懇願した。町から森まで一望できる高くから声を枯らして叫んだ。今放てる妖力を使い果たして、意識を失うまで。



そして明け方、この大型ケット・シーが俺を優しく咥えて研究所にやって来た。まるで子猫を連れた母猫のようだったという。




続く話の中、レイは終始目を見開いていた。瞬きも忘れ、乾く程。不穏な感覚が奥から沸いてきて顔が強張った頃、ナツメに問いかけた。



「ジュリは…?今、どうしている?」



弱々しい声の後は荒く乱れていく。



「どうなんだ、ナツメ!無事なのか、アイツはッ!?」



ついには白衣を掴んで揺すり出した、レイに彼女はあくまでも落ち着いた様子で返した。




「今は自室で眠っているよ。もちろん、命に別状はない」



…会いにいってやるといい。




続いた一言にレイは強く頷く。当たり前だ。むしろそれ以外の選択などあるものか、と逸る気持ちで駆け出そうとしたとき。




レイ。




呼び止められた。何だ!?苛立ちの声を上げて振り返った。そこへそっと歩み寄ってきたナツメ。口元に手を添え背伸びをする仕草で察した。レイはわずかに身体を傾ける。




耳を彼女の方へやった。そこへ告げられた。









「ナツメ……」





しかと受け止めた、レイの鼓動が速さを増す。それは俺を試しているのか?



それとも……




「さぁ、行け」



「………」




……ああ。




促す声と真っ直ぐな眼差しを受けて、レイは踵を返した。部屋を出た。




ただ一つの場所とそこに居るただ一人を求めて歩を進めていく、廊下。ぐっ、と歯を食いしばった、レイの中で思いが巡っていく。




ーーわかってる。


望むことならわかっている。だけどそれをしてしまったら…




散々傷付きやつれ切った心。正直、もう自信がなかった。レイは胸の内で己を嘲笑う。



何のことはない。一人、思った。




彼女の居場所を作るつもりでここまできた。耐えてきた、つもりだった。だけど…実際は




振り返る、無邪気なケット・シーの残像。




ーージュリ。




お前こそが俺の居場所だったんだ。





――ただ一つの――



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