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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第5章/狼の遠吠え(R.Kashiwabara)
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5.ブチのめしたい俺の野郎(前編)



磐座樹里、それから葛城拓真。二人と出会ったのは去年の4月末。ゴールデンウィークとかいう期間に突入した連休初日。学校の片隅に位置するとある一室だった。



この世界に来てからまだ一ヶ月。慣れない肉体の重圧にいい加減疲れていた。連日ろくに眠らずに報告書の作成を続けていたこともあるだろう。


それでも暑苦しいくらいに熱心だった俺はこの日も図書室の書物を漁りに来た。頭が痛くなってきたところで、一度休むことにした。



無防備に開いたままだった保健室。保険医が休みなのにこれはどうなのかとも思ったが、何のことはない、ほんの数分程度だとベッドを拝借した。早々に落ちそうになっていた。


カーテンで遮られた隣に誰か居る気配がした。やはり同じ思考の奴がいたか、と安堵を覚えた。微睡みに身を任せているうち、何処かの時点で感じ取った。隣の気配が増えたと、虚ろながらも。



やがて声がした。



ーーなぁ…いいだろ?ーー



低くはなくとも男だとわかる声が囁いた後に、細く上がった女の声。



ーーいや…っ……あっ…ーー



ーー葛城君…っ!ーー



って、おい待て。意識は完全に覚めた。布一枚で分断されたすぐ隣で何かいかがわしげなことが始まろうとしていると察して頭を抱えた。



ーーふざっ…けんなよ、ガキのくせに。



これじゃあ落ち着いて眠れやしないし、事が済むまで出られもしない。いや、むしろこの声を聞きながらちょっとくらい…とか一瞬でも思った自分の頬を引っ叩きたくなった。



ともかく。所詮は他人…そう納得しようとしていた。だけど気付いた。女の喘ぐ声の合間に所々、やめて、とか、助けて、とか混じっているような…?



ーー助けて…!ーー



また聞こえた。震える声。嫌よ嫌よも…とかいう言葉が脳裏をかすめた一方で極めてまともな可能性も浮かんだ。もしそうなら…



言うなら今だと思った。始まってしまう前に、と。




シャッ




カーテンを開いた。




ーー…おいーー




見下ろすとそれはまだ目の当てられる段階だった。馬乗りになった男の片手はしっかりスカートの中に突っ込まれていたが。



ーーかっ…柏原…先輩ーー



ーーあぁ?ーー



名乗った覚えもないのに顔面を蒼白させた男の方がそう呼んだ。にじり寄るとそいつはあっという間に尻尾を巻いて逃げた。



ベッドの上に残された彼女の方を見た。女の方も女の方だ…呆れてため息をついたとき、さっきの奴と同じように逃げようとした彼女がベッドから転がり落ちて、そのままうずくまった。



うっ…


うう…っ……



震える背中から聞こえた呻きを耳にして、さすがに尋常じゃないものを感じた。おい…呼びかけて肩に手をかけようとしたとき、ゲボッと音を立ててそれは床にぶちまけられた。





…汚い、とは思わなかった。



嘔吐した上激しくむせ返っている涙目の彼女の背中をさすりながら、ただ一つを確信していた。




開けて良かったんだ、と。








ーー未遂でこそあったものの、あの日彼女を無理矢理犯そうとした男の名を後に知った。それだけじゃない。あの日の後も、前も、彼女に度重なる仕打ちを与えていたという歪んだ感情の持ち主。



葛城拓真。そいつが今、俺の隣に居る。そしてどういう訳か、消したはずの柏原怜を知っているもう一人でもあるのだ。



ふわふわ風になびく柔らかい髪、伏せていても大きいとわかる目。黙っていれば優しげで、むしろ女に近くさえ見える。そいつの横顔を見ていたとき、彼女の言葉が蘇ってきた。




ーー昔は優しかったんです…葛城君ーー



うつむいて、少し笑んだ口元。その意味を察するなり何か粘度の高いものが自身の中で動き出した気がした。


彼女はある過去を話してくれた。それで知った。その過去さえなければ、コイツは、きっと…




ーー初夏の夕暮れ時。不快な疼きが始まった瞬間だった。










病院の裏側にはちょうど人気ひとけのない河川敷があった。一歩遅れて付いてくる葛城と一緒に斜面の階段を下った。



「…いかにもって場所だな」


やはりいくらか怯えているのか、震えを帯びた葛城の声が問う。


「いつ戻ってきたんだよ?アンタ」


「………」


更に問いかけてくるが怜は相変わらずのだんまりを決め込む。というより、むしろ答えようがない、というのが正直なところだった。



「ーーあの手配書をバラ撒いたのはお前か」



階段を下りきり、足を止めたところでやっと口にしたのがそれだった。手配書って…戸惑った様子の葛城が返す。



「だってアンタ、何処を探してもいないんだもん。みんなもどうかしてるよ。こんなデカくて目立つ男を覚えてないなんて…」



デカかろうが悪人ヅラだろうが、存在そのものを消してしまえばこっちのものだ。物質世界の人間には想像もつかない発想なんだろうがな…と、怜は自分だけが知る事実を胸の内でこぼした。



冷たい風が流れ込む。あんなに晴れていた空にはもう暗雲の魔の手が迫っていた。不穏に。



縦長の身体を振り返らせた、柏原怜が切り出した。



「お前に聞きたいことがある。俺を探していた目的、それから樹里の病室にノコノコやってきた目的だ」



狼と称された鋭い双眼で睨む。ありったけの敵意を込めて。



「…何を企んでいる?」



うっ、と喉を詰まらせてたじろいた葛城。落ち着きなく泳がせていた大きな目が、何処かの時点で形を変えた。覚悟を決めたかのようだった。



「だから…!企むとかそういうのじゃねぇよ!俺はただアイツが目覚めるのを…」


「それを樹里が喜ぶと思っているのか?」


「それは…っ」




「…目の毒だ」



未だ動く気配のない彼女。だけどいつか目覚めたとき、あの綺麗な漆黒の目に映るのがこんなやからであっていいはずがないと思った。慎ましく大切に守ってきた貞操を強引に壊そうとした男など誰が見たいものか。



「もう来るな……二度と」



ドスを効かせた声で言った。それから背を向けた。聞きたいことの前者の方などすっかり忘れて歩き出した。遠ざけられればいいと思っていた、この時までは。




……んなよ……




「…あ?」




草のざわめきに掻き消されそうな程小さな声は確かにこの耳へ届いた。眉間に川の字バージョンの筋を作って振り向いた怜に同じ声が言い放った。すぐにだった。



「ふざけんなよッ!!アイツの“女”を目覚めさせた上に置き去りにしたのはアンタだろ!?」



「…な……っ」



「俺のしたことは…認めるよ。悪かったって。だけどアンタにだけは言われたかねぇ!磐座の気持ちを知っていながら手を離して、勝手に何処かへ消えて、こんなことになった後も今の今まで現れなかった、アンタにだけは…!」



ちがっ…!



さすがに反論しそうになった。だけど反抗的な目で睨み上げる葛城はその隙さえ与えてはくれない。彼は続けた、更に、鋭利に言い放った。




「傍に居てやろうともしなかった無責任なアンタに、そんなことを言う資格はねぇだろ!」



柏原ァ!!




滅茶苦茶に髪を振り乱しながら噛み付くように叫ぶ仔犬系男子・葛城拓真。だけど…



ブルネットに染めた怜の双眼が震えた。その奥がみるみる縮まっていく。頼りなげな両脚を震わせながら立っている、そいつを見て、懐かしんだ。



あのときもそうだった。この反抗的な目…ものの数日で上級生である俺を呼び捨てにした生意気でいけすかない奴。やることなすこと姑息で男の風上にもおけない軟弱者。嫌いだ。虫唾が走るくらい嫌いだ。



だけど、その無防備なまでの心意気は、俺をここまで狂わせるその姿勢くらいは…




か…っ



「葛城ィィィィィッッ!!」





ーー認めてやるよ。










一体どれくらいの間だろうか。



人の目があるかどうかなんてすっかり忘れて拳を振るった。軟弱者!卑怯者!どっちかがどっちかにそんなことを言い合っていた。


身長185cmのこちらに対して相手はせいぜい170cm弱。体格だってまるで違う。動きづらい肉体を着ていたって優勢なのは俺の方だった。



それなのに何という不覚だろうか。共にもつれ合って草むらを転げる差中で耳にした、調子が狂った元凶。




…アンタの……っ



アンタの、せいで……っ!




仰向けに倒された葛城が途切れ途切れに言っていた。何だ、言いたきゃあ言え、と両腕を地面へ押さえ付けたとき、見上げるその目にいっぱいの涙が溜まっていることに気が付いた。



一瞬、息を止めた怜。そこへ葛城が叫んだ。



「アイツは…磐座はなぁっ!世間知らずな女なんだ!あんな色気のだだ漏れてる女、周りがほっとくわけがねぇ。だから遠ざけたんだよ、必死に!誰一人、指一本触れられないように…!」



「それで…あんな真似を……?」



奴が彼女にしてきたことを思い出した。いくつもいくつも、知っている限りの断片を掻き集めるとまた抑えようのない怒りが登りつめた。



「ふざけんなッ!やり方ってモンがあるだろ!!」



顔いっぱいにしわを刻んで怜は叫んだ。再び拳を振るった。ついに口の中の何処かを切った葛城が溢れ出した血を横に吐き出してから、言った。



「俺は諦めちゃいなかった!アイツの家に反対されても、いつか金持ちになって迎えに行くって決めてた!近付けない以上、やり方なんて…あれくらいしか…」



ーー汚かったと思う。だけど…




「そうやってアイツを守ってたんだ!それをアンタが横取りした!女にさせちまった!そこまでしておいて捨てるなんて…柏原、アンタは最低だ!俺以上の最低野郎だ…!!」





か……




「葛城……ッ!」




…きっと通り越してしまったんだ。怒りとかいう枠を突き抜けるとこうなるんだ、と自らの身を持って知った。わなわなと震える手、軋む歯。強烈な毒を放ったそいつの名を恨めしげに呼ぶくらいがせいぜいだった。




ミシッ…!




頬が軋みを立てたのはそのすぐ後だった。すぐにわかった。これは…この痛みは、きっと…





君たち!!




頬を押さえて半身を起こしたとき、ちょうど制服に身を包んだ男が斜面を下ってくるところだった。怜は目を凝らした。


青い服、腰に棒、頭に乗っけてるのは学生帽?いや…それにしてはやけに年をくってるような……



「やべっ、警察!」


「それか!」



合点がいって声を上げると腰を上げた葛城が、はぁ?と訝しげに呟いた。しょうがないだろ、あっちには親衛隊こそいれど警察なるものは存在しないのだから。



警察の男は足早にこちらに向かってきて片方の肩を掴んだ。もちろん、俺。言うまでもなかったか。



「何をしているんだね?こんな少年相手に!」



俺も今は17歳。それって少年のたぐいに入らなかったか?確か。



悔いてみてももう遅い。葛城は年相応の容姿な上に制服。こっちは年相応ならぬ風貌な上に私服。参った。天界から貸し出してもらった免許証ならあるが釈放はきっと明日になる。助けなど来ない。もう日が暮れかかっているというのに…



ここまでか…



腹を括ろうとしていたとき。




「違います!」



仔犬がキャン!と鳴くような響きだった。出処の奴が言った。



「その人は…俺の兄貴です!ちょっと喧嘩しちゃったけど、もう和解したんで大丈夫です!」



「かつ……」



口を開きかけたとき、仔犬の目がギロ、と睨んだ。怜はとっさに思考を巡らせる。



「かつ…ひこ」



こんなんで良かったか?言った後で全く良くないと気が付いた。もしここで身分証明を求められたらこいつが『かつひこ』じゃないとすぐにバレるではないかと。



しかしすぐに思い知らされた。



「お兄さん?随分と似ていないんだねぇ…?」



「血の繋がった兄ではないんです…」




でも…




「父親代わりになって俺を育ててくれたたった一人の家族です!俺にとっては本当の兄も同然なんだ!それなのに…っ」



「お、おい、君…」




「似てないなんて…酷いよ、おじさん」



潤んだ瞳で見上げる葛城。向かい合う警察の男がぐっ、と喉を詰まらせるまでの過程を…見た。



「かつ………ひこ」



認めよう。俺はコイツを見くびっていたようだ、と。







本当に仲直りしたのかい?と確認をする警官に怜と葛城は揃って頷く。



「ごめんね、兄貴」


「お、おう…」



擦り寄ってくる葛城が滅茶苦茶っ、気持ち悪かったが、ここはひとまず乗り切らねばならないと覚悟を決めてそいつの肩を抱いてやった。



うんうん、と満足気に頷いて去って行った警官。青春の一幕。どうやら彼の中ではそのように落ち着いたみたいだ。



遠くでカァー、カァー、と鳴くカラスとやらの声がした。熱に染め上げられていく、川の向こうの瓦屋根の群れ。ぐっ、と押しのけられる感覚があった。身体を離した葛城の真顔がこちらを向いた。



「それで、柏原」



「お前切り替え早ぇな」



もう一戦やる気か?と身構えていた。しかし。




「葛城…?」




切り出しておきながら奴は黙ったままだった。苦しそうに顔をしかめ、制服の裾を握っている。そんな状態が数秒続いた。



柏原…



やっと口を開いた。そいつの身体が一瞬のうちに地に伏した。怜は目を見張った。



「頼む!戻ってきてくれ!いえ、戻ってきて下さい!!」



かつひこ…じゃない。



「葛城…」



「アイツの…磐座の傍に居てやって下さい。俺だって本当は気付いてたんだ…もう遅いって。アイツの気持ちはアンタのものになっちまった…」



俺の…もの…?震える怜の唇は声を発さず形だけを作る。地面を頭を打ち付けた、葛城はなおも言う。



「学校に居る時間も惜しくて、俺…今日もサボってここに来たけど…いくら話しかけても駄目なんだ。好きな花を作ってやっても見ちゃくれない。まるで背を向けられているみたいだ…」



花。それに覚えがあった。怜は恐る恐る尋ねる。



「あの紫陽花あじさい…お前が?」



好きな花を…この5月を越えて6月の景色を迎えられるように……って?


そこまで語られてはいない。でもそうなんだと思った。眼下の茶の髪が揺れた。激しく。



「だから頼むよ、柏原…」



唾だか涙だかわからない、大粒の雫まで撒き散らして。



「アイツにはアンタしかいないんだよッ!!」




ーーアンタが居れば、もしかすると…




最後に続いた言葉。それに怜は弱々しくかぶりを振った。見上げた葛城の目もその動きを捉えた。



「何で!ヤクザだからか?マフィアに追われてるからか?」



こんなことを言う、コイツは決してふざけてなどいない。本気でそう思い込んでいる。高校生として過ごしていたあのとき、いつの間にか広がっていたけしからん噂のせいだ。それに、何より…



「…違う」


「何が!?」



「世界が、違う」



文字通りの意味だ。伝わりはしないとわかっていながらも口にした。当然とも思える反応が、すぐに。



「そんなの俺だって知ってるよ!磐座んちは大金持ちだ。アンタは極道の跡取りだ。だけどそれが何だよ?俺だって…こんな俺だって乗り越えようとしたんだ。アンタだってできるだろ!?」



そう言われたって…いくら罵られても、泣きつかれても、答えなんて一つしかない。



ーー無理だ。




「おい、柏原!!」



地面に膝を着いたままの葛城に背を向けた。必死に追いかけてくるのがわかったが、こんなときこそ並外れた長い脚の出番。早足で進むだけで、距離はみるみる開いていった。



見損なったぜ…!



背後からギャンギャン叫ぶ声がした。うるさい。それはいつまでもいつまでも、きっと見えなくなる距離まで続いた。




「好きな女一人守れねぇで何が極道だ!跡取りだッ!!」



馬鹿野郎!



役立たずのでくのぼう!



アンタなんてただデカイだけで…



………!



………!





遠のく河川敷。風情を取り戻していく景色。




ふと足を止めた、怜は一度だけ振り返る。



葛城、お前…



「いつか刺されても知らねぇぞ」



ヤクザと思い込んでいるはずの相手にここまで言って、こんな気分にまでさせる、無鉄砲なガキ。何だかわかったような気がした。



アイツに記憶が残った理由が……わかったような気がした。



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