3.許せないのはあの野郎(前編)
ーーレイ兄ちゃん!ーー
ーーレイくんーー
いくつもの呼ぶ声がする。ここは何処だろう?目を開けているつもりでも色も景色も感じない。声以外の全てが、無。実感したところでまだ新しい記憶を思い出す。
ーーあぁ、そうか。
死んだのか、俺。
理解した。口を開けたケット・シーの気配。あの大きな牙で痛みを覚える間もなく息の根を止められたんだろう、と。今、魂だけになって走馬灯ってやつを楽しんでいる…そんなところだろうか。
そんな中でも俺は辺りを見回そうとする。見えもしないのに、幽体さえもうないのに、ただ一人を求めて。
ーーレイーー
あ、今聞こえた。無邪気で明るいあの声。
ーー怜ーー
あぁ、やっぱり。お前も呼ぶか。いや、そもそも同一人物なんだよな。文字にすると同じなのに違って聞こえる響き。これのせい、なんだよな。
ーー怜…ーー
ーー行かないで、怜ーー
切なげな声色に息が詰まりそうになる。息なんてもうないはずなのに。すすり泣く音。きっとその出処である彼女へ語りかける。
ーーそんな声で呼ぶな。もう泣くな。お前をそんな目に遭わせたから、罰が当たっただけだ。当然のことだ。
今思えば何ともぱっとしない人生だった。中身はてんでガキのままだったってのに、周りより頭二つ分くらいデカイからって当然のように頼られてた。同い年の奴にお兄ちゃん呼ばわりされるのもいつしか慣れて、弱音を吐くなんてことも忘れていった。
だけど…
ーー泣くなんて赤ん坊のとき以来思い出しもしなかったんじゃないのかい?ーー
世話になったマドカさんには悪いが、それは違う。この歳でもうすでに親しい者の死を何度か見てしまった。そのときはさすがに泣きもした。極力人目に触れないよう、細心の注意を払っていただけだ。
あのときだって…
そっと頬に手を当てる。もう触れられやしないけど、ついさっきまでの幽体にそれは確実にあった。
昨日。いや…もう、一昨日か。そのときのことを思い出した。
“柏原怜”の記憶を。
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ここまでの努力を成果として発揮する、大事な試験の前日だった。だからこそ、だったのだ。あの場所に向かったのは。
あまりにも重すぎる犠牲を払った、その実感を覚悟に変えたかった。今思うと、またしても身勝手な思いだった。
ふぅ…
慣れた道の途中で怜に扮したレイは弱い息を吐いた。この頃通う頻度が多かったからいくらか慣れはしたけれど、まだものにはできない肉体の重さがこたえていた。
幽体の世界の住人なんだから、当然だよな。
一人で苦笑した。今からこんな状態で、明日の実技に耐えられるのだろうか…なんて一抹を不安を覚えつつも前を見据えた。
ーー5月。
確か3日か、今日は。
晴れた日中。この時間帯、低い木造の建物が群れを成すこの場所を行き交うのはごく少数の老人ばかり。いつだったか人懐っこいじいさんに、外人さんかと思ったよ…なんて言われた。
外人どころか異世界人です。あなた方から見たら“あの世”の人間です、実は。
…なんて言えるはずもなく不器用な愛想笑いで誤魔化した日が懐かしい。
やがて差し掛かったなだらかな川。木製の橋がかかるその下を今日もまた一つの舟が通り過ぎた。
二人の客を乗せ、長い棒を水中に突っ込んで漕ぐ舟人はやたら防御力の高そうな横広の帽子を被っている。紫外線が怖いのか、はたまた水中に潜む獰猛な生物との戦闘に備えているのか未だに謎だ。
どうも頼りなく見えるこの木の橋を渡ったら、しばらく先に目的の場所がある。ぼんやり舟人を見送っていたレイは重い一歩を踏み出す。
ーー案内しますよーー
ーー怜…さんーー
ひらりと袖を翻し、橋の前で振り向く彼女の姿が浮かんだ。ニコ、と柔らかく微笑むと小股で前を歩き出す。一度喉を隆起させた、レイもその残像を追うように進んだ。
景色はまたガラリと移り変わった。風情と趣の町から一転して今度は車がせわしなく行き交う大通りへ。こんなにも境界がはっきりしているものなのか、と、初めて見たときも驚いた。それこそ世界から世界へ、移ったときの感覚に似ている、と。
横断歩道を渡ったらそのまま真っ直ぐ道なりに。T字路のところで右折する。その前に
ピーポー…ピーポー…
赤いシグナルを頭に付けた車が後ろから。自分のところで音を低く変えたそれをレイは遠くなるまで眺めた。アイツもあれに乗って…想像するなり痛み出した感覚にかぶりを振った。
しっかりしろ。
己に言い聞かせた。
ーー決して人が多いとは言えない、だけど一応救急指定だという田舎町の大病院。
最初にここを訪れたのは夜霧が占めるあっちの世界の森でジュリと出会った後だった。
抱き上げる前からすぐにわかった。アイツだと。樹里の幽体が何らかの形でここに来てしまったんだと気付いて、大急ぎでこの場所を見付けた。
面会人の欄に『柏原 怜』
患者の欄に『磐座樹里』
それと彼女の年齢、住所を受付で記した。
この国が、なのかはわからないが、この病院のセキュリティはなかなかしっかりしている。肉体でカムフラージュしてなお、こんな物騒な成りになってしまった俺は、こうして訪れる度に訝しげな視線を容赦もなく浴びせられる。
「どうぞ、F棟南の4階です」
内線で患者の確認がとれたらしい。こうして許可が下りる度に胸を撫で下ろしている。
冷静になってみればわかること。
17歳の高校生、ということにしたのは周囲から浮かない為の対策だった。成人の男が毎日仕事に向かう様子もなく町内をうろうろしていたのではいずれ不審者と間違われかねないと思ったからだ。
多くの人間が一ヶ所に集う『学校』という環境も好都合に思えた。だけどすぐに思い知った。
幽体の体格とあまりにも異なる肉体は借りられない。どう頑張っても身長185cmがいいところだった。鼻は低くしたけれど彫りの深さは隠せないまま。言うまでもない、俺は大いに目立っていた。
こうして面会が叶うのも、彼女の個人情報を何も照会せずに書けるのと、従兄と主張していること、更にこの世界から去る都度に天界へ申請を出して、関わった全ての者から俺の存在を消しているからこそだ。
こんな労力を強いられるとは当初思いもしなかった。間抜け過ぎる誤算にもう笑う気もしない。
点滴の滑車を連れた患者と一緒にエレベーターに乗った。登っている気配もしないよくできた箱に導かれる過程を移り変わる数字で確認した。
やがて『4』のところで止まった。口を開いたところから早速鼻を突く、あの苦い匂い。
F棟南、4階。
その意味ならもう知っている。重篤患者の為のICUと、意識不明の患者が眠る個室。当初前者に居た彼女はやがて後者の方へ移ったのだ。
ぎゅっ、と拳を握った。降りないのかい?とボタンを抑えながら問う点滴の老紳士に気付いて、すみませんと会釈をした。
誤算の産物『柏原怜』は歩き出した。暗く陰った、奥へ。