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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第5章/狼の遠吠え(R.Kashiwabara)
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2.鈍感とか、今更



こんな事態が訪れるとはまだ思いもしなかった、昼。



――レイ。



筆記試験の会場を後にしたばかりのところで呼び止められた。会話を取り戻して間もないからなのか、まだきごちない笑みを浮かべたサシャが胸のあたりで手招きした。


「ちょっと、いい?」


遠慮がちな声色だった。予測もつかなかった。





「ジュリと何かあったの?」



会場の外、人が行き交うところからわずかに遠のいた場所で問われた。いや、別に…そう返しながらも視線はしっかりそらしてしまった。だから、なのだろうか。



「ジュリの様子がおかしかったの。風邪のせいだけには見えなかった。何か悩んでいるみたいで…」


彼女は言った。



「そんなの、あなたしかいないと思うんだけど」



伺うような視線。だけどはっきり言い切る口調だった。それは…レイはいよいよ口ごもる。まだ目を合わせられないまま。



「レイも好きなんでしょう?あの子。だったら…」


「そんなんじゃない」


「何が?」



「…そんなんじゃ……」




「何がよッ!!」




荒々しく上がった声に思わず顔を上げた。目を見張った。


言葉を失くした。真っ直ぐこちらを見るサシャの目が、あられもない姿を目撃されてしまったあの日のものとよく似ていたからだ。そこに涙がないだけで。



「アンタは何だかんだ言って要領がいいわよね。筆記だって難なくこなしたんでしょ?上司から可愛がれるすべも知ってる。強面なんて言うけれど、関わるうちにみんな気付いていく。この人は来るもの拒まずなんだって…実際にそうよね?」


やがてふっと鼻から吐き出す息の音がした。一瞬横を向いた後、再びこちらを向いた顔には軽蔑の色が宿っていた。



でも…でもね…



彼女は言った。更に強く。



「あの子には…ジュリには、アンタしかいないのよ!アンタとは違ってね…!」



お、おい…



何か言おうとした時には遅かった。すでに半分程身を翻しかけているサシャが最後に言い放った。



「実際に付き合うのは重いって訳?受け止める自信がないって訳?見損なったわ!そんなんだから何も気付かないのよ。何も…」




鈍感!!




サラ、となびく白金の残像を残して彼女はみるみる遠くへ走り去った。残されたレイは呆然と立ち尽くす。後ろからの気配にさえ気付かず。



「ーー大変だな、お前も」



ポン、と肩に乗せられる重い感覚に、思わずわぁ!と叫んだ。振り返ると彼がいた。



「エド、か…」


「おぅ、ばっちり聞いたぞ」



同情しているかのような表情でうんうん、と頷く様子にイラッとくる。レイはふてくされてそっぽを向く。



「だけど鈍感は認めろよ、お前。さすがに気付いただろ?」


「何がだよ」


「え…嘘だろ?」



「だから何が!」



あんぐりと口を開いていた、エドがやがて気だるいため息を落とした。何なんだ、さっきから…更に増していくレイの苛立ちは、すぐに鎮まることに。




「だから。ジュリもサシャも、多分マギーも、みんなお前に惚れてんだよ。他にもいる。反対に男共はお前を妬んでる。女の子たちの熱い視線に男たちの冷たい視線、毎日全身に浴びている当の本人が気付いてないとは笑えるぜ」





………





「全く、俺からしてみたら羨ましい話だけどな」




ガハハハ……




豪快かつ大音量であるはずのエドの笑い声が、遠い。




えっ…と…




やっとわずかに口を開いた、レイは言う。ギシギシ軋む首を横へ傾いで。



「ナニヲイッテイルノデスカ、エドワードサン」



「えっ…レイ?」



「ソンナワケナイデショウ、オレノカオ、コンナニ、コワイ…」



「やべぇ!レイが壊れた!!」




誰か!おい、誰かぁ!



何処ぞへ遠のいていく焦燥しきったエドの声。またしても取り残された一人ぼっちのレイは虚ろに繰り返す。




ドンカン…



ドンカン…




「…鈍感」




実感が戻ってきた。じわじわ上がってきた熱の後に訪れたのは



チク。



細く鋭利な痛みだった。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



午後の実技試験は湖近くの森の中、空が赤く染まるまで続いた。対象の詳細は伝えられていなかった。想定外の事態でも対応できるか見る為だという。



一体どれ程大柄な生物なのか?そんな予測をしていた。しかし…




「よーし、よーし。いい子だ」




…何だこれは。




いくらか落ち着いてきた息遣いと、時々グルル…と鳴る蛇の喉元から腹へと向かってさすっていく。滑稽。何がって、よーし、よしよし、なんて甘々しい声で囁き続けている自分が、だ。


側には試験官の目。これはなかなか恥ずかしい。とは言えこれも立派な試験であり任務なのだ、と自身を戒めつつ続けていく。



要は長期戦、という話だったようだ。蛇の種の中ではそれなりの大きさを持つ虹蛇レインボー・スネーク。神話から拾った名が付いたコイツはこうして戯れている分には大人しい。一方、わずかな環境の変化にも敏感な反応を示し、危機感をいだくと液状の毒を鱗から垂れ流して多くの植物を枯らしてしまう、なかなか繊細かつ危険な生物でもあるのだ。



きっともう少しで手なづけられる。研究所で目を覚ました際にはさすがに毒を流すだろうから、ゲージは底の深いL型を使って、タオルを…



もう最終段階の計画まで立てていた。そこで更なる不測の事態が起こった。



ついに、そのときが。



ざわめき出した、試験官と仲間数人の見上げる方向へ振り向いた。一体いつから距離を詰めていたのか。見たこともないくらい巨大な黒猫が静かに見下ろしていた。



シャアアアッ!!



「あっ…おい!」



恐怖の悲鳴を上げた蛇が激しくうねりながら湖の方面へと去っていく。飛び散る毒の飛沫しぶきを寸前のところで避けた。


木々の間をぬって小さくなっていく長い胴体を呆然と見ていた、レイはゆっくり顔を上げて気付いた。




グルル…



ウウ…ッ!




喉を鳴らしている巨大な猫。気品漂う佇まいから漂っているのは、殺気。そして…



「ケット・シー…」



いつの間にか呟いていた。後ろからは駆け付けるいくつもの地響きがした。



「レイ!」


「無事か、レイ!今、応援を…」



サシャとエドの声だとわかった。だけどレイは振り向かないまま。



「何をしているの、レイ!」




…レイ?




サシャの声が細く呼んだ。どうやら異変に気付いたようだ。彼女は俺の、そして俺は…



感じ取ってしまった。本能に乗っ取られた唸りの中に確かにあった、悲鳴。


レイはふらりと歩き出した。前へ。




「大丈夫だ」



だからこんなこと



「ひとりなんかじゃない」



一体どの口が言う。



胸の内で自身を嘲りながら、歩んでいく。もう一度口を開く、そのときには何故か頬を緩めていて。




「だからもう、自分を傷付けるな」



ーージュリ。






「レイ!待って、レイ!無理よ…!!」




牙を剥き、爪を立て、襲いかかる黒の巨体と木々を薙ぎ倒しながらもつれ合った。何ヶ所も切り裂かれた感覚があった。続く悲鳴が遠くなっていった。やがて気付いた。



「待てよ…待てって…!!」



目の前で左右に揺らぐ黒の尻尾を見据えながら、自分が走っているんだと、遠のいているんだと、気付いた。




それから何度も繰り返した。見つけてはもつれ、また見失い、また襲われ。



空が藍に染まるまで…



彼女と再会したあの日のような、濃い霧に包まれるまで…




立てなくなるまで。







ああ…





もう腕の一本でももげたんじゃないだろうか。だけど不思議と痛みはなく、ただ伏した身体の前面へひんやりと伝わる感覚くらいだった。



そして他にも、感じた。静かに地を踏む足音。こちらへ迫る気配。息。多分口を開いたからだ。牙を立ててこの首へ、とどめを刺す気なのだと察した。



動けないままのレイは思った。不思議と恐怖はなく、ただ一人の姿が自身の中で、巡って。




ジュリ…




どうせケット・シーに奪われるなら、それはお前であってほしかった。いや、お前はそんなことしないか。



だけど、この心は確かに奪われていた。このまま奪ってほしかった。それが本音だった。俺にはできないから、口にすることも…できない、から。




叶わないなら、せめて。最期に。





――逢いたかった――



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