1.この世で一番愛しい猫
ーー霧が濃くなっていく。見上げれば遥か高くにあるはずの藍色も、底知れぬ闇と木々との境も、白く霞んで溶かしていく。そこにあるはずのものが見えない。気配さえも。
今は一体何時なのだろうか。そして、こんな事態になってから一体どれ程の時が経ったのだろうか。
試験の為に訪れた広大な森のどの辺りに居るのか、もう察することもできない。乱れた息を必死の思いで潜めるレイは前を見据える。こっちで合っているのかもわからないまま、鋭く睨む。再び現れるであろう気配を待って。
衣服の湿った感覚が不快だった。こんな視界の悪い中で確認することはできないが、そこかしこが濡れている、そして痛いとわかる。
きっと汗まみれ…いや、血まみれなのかも知れないと思うなり意識が遠のきそうになった。
顔には痺れ。目はこうして見えているけれど、鼻はもう無いかも知れない。頬が抉れているかも知れない。身体の至るところが削られて、ギリギリの状態で立っているのかも知れない。
はぁ…
はぁ…っ
また息が切れ始める。
じわじわ登りつめてくる恐怖に発狂しそう。それでもまだ無事である聴覚をすませる。何処がどうにかなっていようがもう後戻りはできない。戻る気もない、と自身に言い聞かせて意識を集中させる。
何処だ。何処にいる…
ただひたすらに集中する。そのとき、斜め後方がわずかに鳴った気がした。鎮静剤の瓶が備わった腕の機械を整えて、発射の姿勢で振り返った。もう何発目になるかもわからないけれど、もしかするとこの一発で…そんな淡い期待の途中、凍り付いた。総毛立った。
闇と霞の中から現れた緑の双眼。猫。紛れもなくそれである姿にレイは目を凝らした。
艶やかな黒い毛の胸の部分には白いブチ模様。全身から並々ならぬ殺気を滾らせていながらもなお、存在し続けている気高く涼しげな顔。気配を自在に操れる能力に苦戦した。本などで語り継がれているままのように思えた。
己の置かれている状況を忘れて魅入るレイはまたすぐに我に返った。そんな場合ではない、だってコイツは…喉を鳴らして見上げた。
身長190cm弱。人間という種の中では十分にでかいとされる自分でさえ見上げてしまう巨体に実感が増す。地を踏みしめる前足の爪…次に食らったらひとたまりもないだろう。
さすがに両足が震えた。怖い。なのに、滑稽だ。こんなときにまた思い出しているなんて。
「…来いよ」
レイは言った。決心はもう固まっていた。
戻れない。戻りたくない。だって…
ーーもう俺に近付くなーー
ああして置き去りにしたのも
ーーこれ以上は、駄目なんだーー
再び会えた彼女をああして振り切ったのも…全部この為だったんだ。いつしか使命とさえ思えるようになったこの職務を全うする為、誇れる自分になる為、そんな身勝手な思いでこの世界に戻って
彼女をあんな目に遭わせて、まで。
霞の中でゆらりと立ち上がるのが見えた。二足歩行でこちらへ来るとてつもなく大きなケット・シー。その姿がよく知るケット・シーと重なった。
滲んだ。
「…ごめんな」
自然と構えの姿勢を解いて横へ広げていた、武器の一つもない無防備な両手。己の中でつのっていく思いに力を奪われた。レイは思った。
助けてやるって、傍に居てやるって、言ってやれない。何も…できない。
唸りを上げる大きなケット・シーはまるで自らの理性と本能の狭間でもがき苦しんでいるかのよう。レイはそこへ囁く。もはやよく知る方にしか見えない姿に哀しく微笑みながら。
振り下ろされる前足の刃を見ながら。
――ごめん……な……――