11.届かない、なんて(後編)
両手いっぱいに抱えたひと月分のデータ書類は時折はらりとそこからすり抜ける。もう!などとささやかな苛立ちを吐き出しつつも彼女はやっと研究室の前まで。
「ナツメさぁん、提出遅くなってすみませーん!」
わずかに動かせる片手で器用にドアノブを捻った後は、開いた隙間に差し入れた足でガン!と一気に押しやる。椅子にかけた白衣の背中がゆっくり降り返る。
「こら。お行儀が悪いぞ、マーガレット」
「だってこんなにいっぱいじゃあ…っていうか、マギーって呼んで下さいよ。もうそっちの方が聞き慣れちゃった」
「うむ…どうも淑女は生まれたままの名で呼びたい性分でな」
いくらか照れているのだろうか、指先で頬を掻く仕草のナツメにマギーは気障ですか、なんて返して笑う。
「前世はさぞかし紳士だったんでしょうね、ナツメさん」
「あぁ、聞いたか。だが今はちゃんと女の気持ちなるものも身に付けていっているぞ」
「どんな気分なんですか?両方経験するって」
「複雑なものだ。おかげで私は今、バイセクシャルという分類に括られているらしい」
周囲に数人いる研究員たちが不自然に視線を硬直させ、聞こえないふりでもしているかのような中でただ一人、マギーの表情だけが晴れていく。
「何だ、じゃあヤナギさんにも可能性が…」
「何か言ったか?」
「い、いえ!!」
ぴんと背筋を伸ばしてニシシ、と笑って見せるマギーの様子は、まるで盗み食いしようとしたお菓子を隠す子どものよう。涼しさを保った顔を少しばかり傾けたナツメはまた顕微鏡に向かうとこう言った。
「そんな複雑な枠内に居る私だが、学んだこともあってだな…」
デスク上に書類を置いたマギーが側から覗き込んで、何ですか?と問う。相変わらず黙々と微生物の凝視を続けているナツメ。しかし変化は確かにあった。静かな横顔がほんの少し、笑みを帯びたのだ。
ーー人を愛するということだよ。
その言葉は時を止めた。止まり、静まった中で彼女だけが続けていく。
「男だからとか女だから、とかではなく、ただそこにいるだけで特別と思えるたった一人の“人”をな」
続く沈黙。会話を交わしていた二人だけでは成し得ない空気は、きっとこの場の誰もが聞き入り、飲み込まれたのであろうことを示している。
うーん…
顎に手を当て唸っていた、マギーがやっと放った。
「深い!いやぁ、深いですねっ!!」
「お前わかってないだろう」
ぎく、と一瞬固まったマギーが次にしたことは、実にありがちな手段だった。
「あぁ、それより!気になることがあるんですけどね!」
会話の方向転換。ありがちだ。それでも、何だい?と聞き返す麗しき紳士にマギーは答える。
「ジュリ…もしかして前世を思い出し始めてるのかなって」
あの子ももう16歳だから、本来なら…
続く声の途中でナツメが動いた。椅子ごとくるりとそちらを向いて
「何故そう思うのだ?」
彼女に問いかける。
「ん~、何ていうか…前よりおしとやかになった?時々話し方も違うし…」
視線を斜め上、思い返す角度で心当たりなるものを続けていたマギーはやがて閃いたように向き直った。彼女は言った。
「案外何処ぞの令嬢だったりして!ジュリの前世」
導き出したそれをきっかけに、見上げる眼鏡ごしの漆黒が見開かれた。ほんのわずか微弱に震えていた、ナツメの唇が動き出す。
「なかなかの洞察力だな。直接生物たちと触れ合う保護班に送ったのはやはり正解だったか…」
「え、知ってるんですか?もしかして正解?」
「…いや。よく見ているな、と感心したのだよ」
感心、そのあたりでマギーの頬がほんのり染まり出す。そこへ一呼吸置いたナツメが問う。涼しく細めた目をして。
「ジュリとレイ、だが…お前いつか言ったな?駆け落ちでもすれば、と」
「あ…」
一転して気まずそうな表情へと移り変わった、マギーに向かってナツメは緩く首を横に振る。大丈夫、責めてはいない、と示すような彼女がまた問う。
「実に興味深かった。何故そう思ったのだろうか?」
「あ、あの…実は…」
どういう訳か、もじもじと身をよじらせ始めたマギーは一層鮮やかに頬を染めた。ちら、と上目で伺ってはまた伏せる。そんな動作を何度か繰り返した頃、語られた。
「それ、私なんです」
…前世に駆け落ちしたんです。
なかなか勇気のいる告白だったようだ。ほぅ…と興味深げに身体を反らせるナツメの前、マギーが湿ったため息を漏らす。羞恥、罪悪感、それでいて惚けているような、複雑な色合いを滲ませている。
「何だか似ている気がしたんです、あの頃の私たちに」
「と、言うと?」
「ん…そう、ですね…」
容赦もなく淡々と探る銀縁に囲まれた静かな瞳。問われたマギーはしばし口ごもった。だけどやがて形にした、彼女は言った。
「何だか危ういんですよ。お互いばかりを想って、だけど心まで届かなくって…それが不安で苦しくて…」
奪われたがっているみたいに見える、二人とも。
紡ぎ出した言葉は誰もが息を潜める静寂の中へ消えかかる。聞き取るには十分な声量であっただろうが、口を開く者はいなかった。柔らかく目を細めた、ただ一人を除いて。
「ーーやはり私には人選の才があるらしい」
白衣の袖から覗く白魚のような手が伸びて恥じらう乙女の肩へと辿り着く。元紳士は言った。きっと男女など問わず誰もが息を止めてしまうような深い眼差しで。
「期待しているぞ…マギー」
案の定呼吸を止めた、マギーがやがて紛らわすように笑って。
「…何かあざといです、ナツメさん」
撃ち抜かれた元メイドを憐れんだのかも知れない。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
一生懸命作った横断幕に盛大に撒き散らすはずだった紙吹雪。それからエドの航空ショー。
今思えば応援の域なんて超えている先走った演出。羨んだり妬んだりする声ならいくつか聞いた。だけど異議という程のものは聞こえてこなかった。
きっと誰もが彼の成功を信じて疑わなかったからだろう。
そして照れ屋な彼はきっと顔をしかめるのだろう。困惑に疼く高い鼻をこすったりなんてするのだろう。わかっていながらも楽しみだった。むしろそんな姿を見て笑いたかったくらい。
だけどそれは叶わなかった。目をすることも手にすることもなく終わった。予期せぬ熱。それじゃないってこともわかってた。引っかかっているのはそれより前の、予期せぬ出来事。あの痛みのせいなんだって
わかってた。
叶わなかったんじゃなくて手離したんだ、って。私が。
サシャに言われた通り、ひたすらベッドの上でぼんやりと過ごした。眠っては目覚めてを繰り返した。
そして、もう何度目かもわからない、目覚めのとき。
……ん…
だるさの響く感覚に小さく唸りながらジュリは重い身体を起こした。多分夜だろうって肌で感じはしたものの、まだ十分に覚めていない虚ろな意識に目がとろんとなる。
節々には鈍痛。熱に浮かされ思うようにならない小さな身体。その中のただ一ヶ所だけに変化が起きた。
ぴん、と震わせた猫の耳は捉えた。閉ざすドアの向こうで起こっている“何か”。裸足のままでベッドから降りたジュリは、導かれるように歩き出す。
ガチャ、と開いた、その瞬間にはもうはっきりと伝わった。
どうしよう…どうしよう…私…っ
落ち着け、サシャ。アイツなら大丈夫だ、きっと…
一人でなんて無理よ。あんなの……
レイ……っ
「レイ?」
いつの間にか。きっとそんな感じだったのだろう。玄関近くの廊下に固まった数人が振り返った。揃って下へ目を止めた。
立ち尽くしているジュリを見下ろすその顔に次々と浮かび始めた、色。困惑。
「レイが…どうしたの?」
不思議な感覚だった。不穏な気配なら確かに感じ取っているはずなのに、何故こうも自然に聞けてしまうのだろう。
「ジュリ…」
鼻を摘ままれたようなサシャの声を聞いても。
「レイが……」
ただその名の響きを恋しく感じるだけで。
ん?と首を傾げて見上げるジュリの双眼は、特にいつもと変わらない、円らで澄んだものだった。気まずそうに目をそむける大多数の中で一人、やっと振り返った。普段のまとめ髪は解かれていた。艶やかな黒髪をひらりと宙になびかせた、ナツメが言った。
「…実技試験の途中、大型ケット・シーが現れた。誰も見たこともないくらい原始的でとてつもなく大きなやつだ。エドが応援を呼んで加勢しようとしたのだが、レイは一人で暴走を止めようと向かっていって…」
ーー消息不明に……
「…え?」
よくわからず丸い目で見上げてた。そんな無防備さが、保ってきた無邪気さが
………
………っ!
こんなにも呆気なく崩れるなんて。
ーー音も何もしなかった。だけど確かに崩れた。
原型がなくなって塵みたいになったが最後、全ての感覚が、途切れた。
「待てって、ジュリ!」
気が付くと曇った夜空の下、後ろから締め付けるエドの太い腕の中でもがいていた。行かなきゃ、行かなきゃ。ただそればかりの思いで。
「レイ…ッ!!」
愛しい響きばかり、声を枯らして叫んで…
「駄目だジュリ!危険過ぎる。待ってろ、俺らが必ず助けるから…」」
耳元で響く声がエドのものだとわかったのはこのときだった。やっと、だった。
「だって、相手はケット・シーなんでしょ?私の仲間じゃん!私が行けば…」
「そんな規模の相手じゃない!本能に乗っ取られて獰猛になっちまってる…お前みたいな人型じゃないし、身体だってお前の何十倍もあるんだぞ!!」
瞬時に、喉の奥に何か押し込められるような感覚を覚えた。獰猛。獣と化した原始に近いケット・シー。妖力は如何程のものか。牙は、爪は…
ざわっ、と全身の毛を逆立てる、ジュリの瞳は見開かれていく。
お前はここで…
そんな声を聞いた瞬間には、もう声を張り上げていた。嫌!嫌…っ
エドの腕をすり抜けてそう続けていく差中で蘇ってきた。目の前の現実すら霞む、柔らかな光の中に浮かんだ。大きくて、強面で、でも何処か寂しそうな狼の彼は…
彼は…
黒いマントに身を包んでいて。
ーーレイ…
「怜…!!」
二度目、いや、二つ目を口にするなり身体の奥底から突き上げられる感覚に悲鳴を上げた。天に登った光の柱の中、激しく揺さぶられる小さな身体が炙られたように反り返っていく。
そんな中でもジュリは思い出す。
思い出す。
ーー目の前で起こっためまぐるしい変化にその場の誰もが動きを止めた。これは…?誰かが呟く。瞬きさえ忘れてひたすらに見入る、彼らの後ろから、声が。
「ーー物質世界のある国、ある町に、磐座樹里という16歳の孤独な令嬢がいた」
「ちょっと、ナツメ!こんなときに何の話…」
後ろを振り返ったサシャ。彼女はそれから間もなく目を見開いた。大きく。
「…ちょっと待って……“樹里”?」
何か気付いてしまったグリーンの瞳の奥が暗闇であるにも関わらずみるみる縮まっていく。
皆の注目を集める、ナツメは構わず歩いてくる。静かな語りかけが続く。
「ずっと固く心を閉ざしてきた彼女は、一年前、出逢ったある男と恋に落ちた。17歳、長身、強面。偽った年齢以外はほとんどあのまんま。それが…」
ーー柏原 怜。
「怜…」
すっかり冷えきったサシャの唇が震えて象る、一つの名。そんな彼女のすぐ傍まで辿り着いた、ナツメが頷きで示す。それからまた言う。
「察してもらえただろうか。一年前、保護班が内密に遂行した試みが、フィジカルでの生態系調査。【柏原怜】とはあっちの世界におけるレイモンド・D・オークの仮の姿と名だ…」
それはまるで何かの演説のようだった。だけど語るナツメの目は、遠い。遠く先で今まさに佇んでいる“彼女”を見つめながら、告げた。
「レイは本来こちらの世界の人間。“仮”はいずれ消さねばならなかった。誰もが柏原怜の存在を忘れていった。しかし…残ってしまったのだよ」
樹里にだけは、な。
そんな……サシャが細く呟いた。そしてまた元の方へ振り返る。
「それじゃあジュリは、レイを追って…?」
ジュリ、いや、樹里。皆が再び見つめる先に彼女は居た。神々しくさえ思える光が舞い散る中、明らかな変化をありありと見せつけながら。
ーー繋がったか。
ナツメが呟いた。
ーー探していました。
ゆっくり瞼を開いた、ジュリは言う。
風になびく艶やかな黒髪の長さは背中まで。パジャマの袖、裾からはすらりとしなやかな肌が覗いている。前ボタンの胸はぴん、と横に張っている。
やがて建物の方からどやどやと集まり始めた人の群れが、何だ、何だ、と騒いでも
「ジュリが清楚系のマブいちゃんねーに…!!」
頬を紅潮させたエドが震える声でこんなことを叫んでも
令嬢は静かだった。ついさっきまで滅茶苦茶に暴れていた者と同じとは、きっと誰にとっても信じがたい。だけど確かにある。猫の耳も、尻尾も、半透明の身体も。
年相応の少し先までいったような大人びた風貌のジュリは言う。はらはらと頬を伝う煌めきを携えながら。
「ずっと探していたのです。誰一人覚えていなくても、彼は、確かに…」
白く細い指先で
「…ここに居た、から」
頬、唇、腕……彼に触れたところをなぞりながら。熱く湿った吐息をこぼして。
「探していたのです、怜を」
ーー探していたのーー