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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第4章/猫の息吹(Juri)
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10.届かない、なんて(前編)



ーージュリ!




ーー待って、ジュリ……!!





せわしなく足を繰り出して。いくつもの呼ぶ声を置き去りにしていった。彼女は無我夢中で走った。



あっという間に建物を出て度々彼を待っていたあの草原へ飛び出した。ままならない呼吸に息が切れる。失速していく両足に反して上半身は前へ前へ行こうとして、すごくバランスの悪い格好になっていた、その途中。



うぉぉぉぉおお!!



遠く後ろから獣のような唸り声と地響きを与える足音が迫る。それでも前のめりに進む姿勢をやめない彼女の小さな肩は、とうとう追い付いた大きな手に強く掴まれた。



「待てって、ジュリ!」



「離して…っ!!」



がっしり羽交い締めにしてくるエドの腕の中で浮いた手足をじたばたさせる彼女は噛み付くように叫ぶ。



レイを…



途切れる息の中から精一杯に放つ。



「レイを助けなきゃ…!!」



振り乱した黒髪の隙間から飛んだ雫が星屑みたいに宙を舞う。




曇りがちな藍色の空に強めの風が混じる、冷たく荒れた夜。エドに続いて追い付いてきたみんなも近くで足を止めた。




「大丈夫よ、ジュリ。レイならきっと…」


「これから人員増やして探しに行くからよ」



お前はここで…




続いた優しげな声を容赦もなく、嫌!と遮った。驚いたせいか力を緩めたエドの腕からすり抜けて



「ジュリ…?」



今度は走らず、振り返る。皆の方へ向き合う彼女はいくつも雫を流しながら。



嫌…



嫌……です。




『……!?』




何か異変に気付いたみんなの表情が固まったが、両の拳を強く握って立ち尽くす、当の彼女は気付かない。気付かないまま、続けていく。




「ーーずっと探していました。私を助けてくれたあの人を…あの人だけを求めて…私は、私は……っ」



ぐっ、と喉元を詰まらせた、直後。





ーー怜…!!ーー





解き放たれた。




まるで稲妻が天へ逆登りするみたいな光の柱は他でもない、痩せっぽちのケット・シーを中心に起こったのだ。何、何?皆のざわめきが落ち着く頃ーー




「えっ……」



……ジュリ…?




そこに居たのは……



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



ーー好きだよッ!同じに決まってんじゃねぇか!!ーー




ーー時は、あの言葉を受け取った日から一夜明けた朝まで遡る。




「本当にいいの?ジュリ」



サシャの問いかけにこくり、と頷いた。半身だけ起こす自室のベッドの上。頬のあたり、ほんのり色付いた白い顔をうつむかせるジュリを見下ろすサシャが寂しげに笑う。



「まぁ熱があるんじゃあ仕方ないけどね。だけど意外だわ。アンタのことだから例えこっちが止めても、絶対行く!って駄々こねると思っていたのだけど…」



「ん…」



本当に小さな呟きと薄い笑みだけをちらりと向けると、どうやらサシャはますます心配したようだ。ついにはその場にしゃがんで視線を合わせるようにして、遠慮がちな様子ながらも尋ねる。



「…ジュリ?何かあったの?」



ふるふる、首を横に振るけれど



「隠せてないよ。何かあったんでしょう?…アイツの、こと?」


「………」



図星。本当はそれ以外なんてない。自身の中ではっきり定まっていながらも口にする気にはなれなかった。あんな顔を見てしまったら…ううん、とジュリは内心だけでかぶりを振る。



愛の言葉を放ちながらも苦しく悶えるようだった顔。だけどそんなの今更だと思った。今までにだって何度も見ていた、だけど見えなかっただけなのだと。


見ようとしていなかったのかも知れない、と。




じっと動かず視線もろくに合わせないジュリの様子を心配そうに見ていたサシャもやがて吹っ切るように腰を上げた。聞こえるか聞こえないかくらいの小さな息をシャープな鼻から漏らした彼女は落ち着いた声色でまた語りかける。



「じゃあ私も任務があるから行くね。ちゃんと大人しく寝ているのよ?レイには事情を伝えておくから…」



そうして滑らかに踵を返しドアへ向かおうとした。そこへ透けた細い手が伸びて、掴む。



サシャ姉…



か細い声で呼ぶ。振り返った彼女にジュリは言った。消え入りそうな笑みで。



「…言わなくていいよ。大丈夫、だから」



「ジュリ…」



サシャは更に驚き戸惑ったように見下ろすけれど、やはり言わなくていい、そう思った。今日は彼にとっての特別な日。こんなときに、こんな日に、悩みなんてただの一つも与えたくはないと、ごく自然に思えたからだった。



「笑っていて欲しいの、レイに」



そんなことを願った。ろくに笑いもしない一匹狼だと知っているのに。





やがてサシャは部屋を出た。背後の無機質なものがパタン、と閉ざす音を響かせる頃、陰った表情の彼女は独り言を言った。




いい訳ないじゃない…




「そんなの余計気にするわよ、アイツは」



絹のような白金をなびかせて、閉め切られたドアを振り返った。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



ーー今日は彼にとっての特別な日。



今までの努力の成果を存分に見せ付けた誇らしげな狼はきっと、もっと遥か上の高みを目指す。きっと振り返りもしない。そんな必要も暇も今になくなっていくのだろう。





いいよなぁ…レイモンドの奴は。



エド隊長に可愛がられてるからって…



ひいきもいいところだぜ。





最近になってやっと届くようになってきた、周りの声。今までもこんな風に言われてきたの?ずるいとか、悪者とか、そんな風に見られてきたの?数人ばかりがまばらに見える、廊下でジュリは振り返る。



「あっ…ジュリ」


「いや、今のは、その…なぁ?ほんの冗談?っていうか…」


「そうだ」




お前の彼氏はすげぇぞ…




慌てて取り繕う男二人からふい、と冷たい視線をそらすとジュリはまた歩き出した。何事もなかったかのように。進む差中で一人、思う。




ーー彼氏?



意味は何となく知ってる。女の子にとって大切な男の人。そして相手も同じように想ってくれているとき、その呼び名が使えるんだ、って。



そう…なるのかな?



甘い痺れを胸に覚えて小さく呻く。その条件だけで言えばそういうことになる、多分。どうやら周りにもそう見えているよう。だけど。



…違う。



甘さの中に生まれた鋭いものが深くを突き刺す。周りばかりがじんじん痺れてる、奥まで届かない、効果のない麻酔。



この朝までだけでもう何度も脳内でリピートさせた、眠れないくらいに繰り返した、暗く冷たい昨夜を思い出す。



ーー彼は。



彼は抱き締め返してはくれなかった。これ以上は駄目だと言った。もうこれ以上は踏み込めない、届かない、高く高くへ行ってしまう。あんな風に閉ざしたまま、一人で。



それがどんなに孤独でも。




人気ひとけのなくなったあたりでジュリはふと足を止めた。天を仰いだ。


冷たげな白い天井に閉ざされている、遠い空に思いを馳せた。レイ…細く放ったその名は閉ざすものに弾かれて、虚しく返ってくるだけだった。






「ジュリ!」



廊下を曲がったところで鉢合わせた。マギーだった。



「熱、どぉ?残念だったね、よりによって今日なんて」


「うん、ちょっとは楽に…」


「レイさんきっと寂しがってたよ」



「そう…かな…」



そうだよ!言い切ったマギーが白い歯を見せて笑った。ぽんぽんと軽く肩を叩きながら彼女は言った。



「まぁそこは私がファンクラブ代表として、ちゃんと見送ったけどね。あの横断幕もジュリと一緒に作ったんだって言ったらもげそうなくらい鼻こすってた…照れてるんでしょ?あれって」



うふふっ、と笑うマギーの声にジュリもほんの小さな笑みを混じらせる。うん、多分…そう返したときマギーの様子がふっと落ち着いた。



「大丈夫だよ、ジュリ。心配しなくてもレイさんならできるから」



その語りかけに、ん、と視線を上げた。優しい目をしたマギーの姿が目に飛び込むと、すごく自然に返していた。



右手を左側へ、流れるように、しなやかに髪をかき上げながら。





ーーええ、それは…





「当然でございましょう」












「…ジュリ?」









探るような声に気付いて、ん?と呟いた。何故か驚いたような顔をしているマギーの前、ゆらり、首を傾げたジュリは円らな目を見開いてこう尋ねた。




「なぁに?マギー」




幼げないつもの声で。



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