9.その言葉が欲しかった
【単独任務】というあの言葉をまた聞いた。その日の夜。
大人しく眠ろうって決めたのにできなかった。いつまでもいつまでも廊下をうろうろして、それでも戻ってくることのない気配にジュリはついに痺れを切らした。
研究所前のあの草原まで駆け出した。はぁ、はぁ、と息が切れ始めると猫らしく四つ足状態になって走った。そうすると余計に疲れた。いつからこんなに体力が落ちたんだろうと戸惑った。
それでも今気になって仕方がないことと比べたら、そんなのは微々たるものに感じられた。試験は明日。なのにまだ帰って来ない彼…それに比べたら、って。
「遅いなぁ…」
もう散々かじられて、いい加減姿そのものを消しそうな細い月の下で、いつかみたいにくるくる回ってた。そうしているのも飽きてきて、いつかみたいに草むらに身体を横たえた。
透ける手を天へ伸ばした。いつかみたいに。
ーージュリ?
やっと。届いてきた。ひんやりした草の上、ジュリは半身を持ち上げる。いつかみたいに近付いてくる気配を見上げて。
「レイ…」
その名は、その響きは、まるで魔法みたい。見たこともないものへの例えが何故かしっくりきてしまう。頭から爪先まで軽くなっていく感覚に全身が持ち上がった。ジュリは歩き出した。陰を落とし立ち尽くしている彼へ向かって。
「遅かったね、レイ。明日試験なのに…大丈夫なの?」
すぐ側まで寄って気が付いた。ジュリは素早く息を飲んだ。
「レイ…顔、怪我してる?」
ぐっと下から覗き込むと更にうつむいて濃い陰を作ろうとする彼をもどかしく思った。また隠そうとしてる…わかっていながらもジュリは引き下がらずに更に寄る。確かに見える頬の一部分だけ違う色の傍へ手を伸ばす。
大丈…
「ーー大丈夫だ」
低い声に、手が止まった。
「だからもう…俺を待つな」
「レイ…」
幻聴だと思いたかった。だけどやっぱり誤魔化せない。人間よりも優れたこの猫の聴力を誤魔化せるはずがない。ジュリはいよいよ強く拳を握り締める。やるせない思いがつのっていく。
誤魔化せない、誤魔化せないんだよ。だって私はケット・シー。その血の匂いだって確かに感じられる。私に隠したって無駄なんだよ。
それでも話してくれない。隠すどころか遠ざかろうとしてる。それってやっぱり…
レイ…!
「……っ!」
薄汚れた服の裾を強く握ると彼の息が止まるのがわかった。それからまた引っ張られるような感覚。目の前が滲んだ。耐え切れなくって、聞いた。
「レイ…私もわかってきたよ。私、すごく自分勝手だった。きっとレイのことも…傷付けてた」
そう。好きだからって想いだけでいつだって付いて回った。本能に呆気なく乗っ取られてあんな姿で無理矢理迫ったり、勝手にキスしたりした。
そんな私が重荷だったんだよね?だから…
両の目に潤いをいっぱいに満たしたジュリは問う。薄く笑って。
「私を嫌いに…なったの?」
「……っ」
彼は何も言わない。そうだよね。
そう、だよね…
掴んでいた手をそろりと離そうとした。強く握り過ぎた為か、そのままとんがった形になっているそこに見入ってた。そのとき、した。
…違う。
え、と呟いて見上げると間髪入れずに続いた。
「違う。そんな訳ないだろ…!」
ドクッて強く高鳴った。否定してくれた…その嬉しさよりも、また一筋傷付いたような青の目に。
そっか…
握るのではなくそっと添えるだけにした、服の裾。ジュリはそこを見たまま話し出す。
「あの、ね、レイ…もしそうなら、聞いてほしいの。今全部話したらこれからはもう二度と言わないから…」
「ジュリ…」
戸惑いの声を聞いた。きっと“全部”を聞くまでじっとしてる、こんな優しい人を一瞬でも疑った自分を恥じた。早く離さなきゃ。全部打ち明けて早くこの手を離してあげなきゃ、と覚悟の元で再び切り出した。
「私はレイが好きなの…それがどんな形なのか自分でもわからなかったし、伝え方も知らなかった。でも、でもね…見えてきたの、もう」
私の“好き”は…
「ずっと一緒に居たいの。一昨日のお昼、レイに触れなかったとき、自分の身体が消えかけてるのかなって思って怖くなった。だけど違うって気付いてもっと怖くなった。私は誰よりレイの傍に居たい。もし叶うなら、もっと話したいし、お出かけもいっぱいしたい。触ったりも…したい。そういうの、歳とってしわしわのおじいちゃんとおばあちゃんになるまで…」
ううん、と首を振って仕切り直す。
「死ぬまでずっと続けていたいの…!きっといろんなことがあるけれど、レイとなら平気って思えるの。きっといろんなことが嬉しいの…っ」
ーーわかってる。
この人は優しい人。きっと誰のことも心から嫌いになったりしないんだ。否定してくれたのも、抱き寄せてくれたのも、そんな優しさからなんだ。私が特別な訳じゃないんだって、わかってる。わかってるのに…
「レイ…」
どうして…
「レイ…は…?」
どうして聞いてしまうの?
潤んだ目で散々見つめた後に訪れたのは後悔だった。つくづく自分を嫌に思いながら、ついに離した小さな両手。ごめん…彼に言った。小さく。
「…変なこと沢山言っちゃった。でも約束は守るから。もう言わないから、二度と…」
堪え切れないジュリは研究所の方面へふらりと歩き出す。こぼれる涙の鬱陶しさに耐えていた。そんな虚ろな意識の中へ。
……だ…
低く伝わった唸りのような声に足を止めた。振り向きはしなかった。
まだ何か言ってくれようとしているの?一人で薄く笑んでいたときだった。
「好きだよッ!同じに決まってんじゃねぇか!!」
さすがに振り向いた。そこへ間髪入れずにまた、来る。
「同じだよ…ジュリ。いや…」
「レイ…?」
「お前のなんかよりもっと俺の方が好きだ。俺の方がもっと一緒に居たい。どういう意味かなんて聞くな。そんなの全部、お前が言っちまったじゃねぇか…!」
「レ…イ……」
今、この目に、ありありと映ってる、短い髪を振り乱した彼の姿。月夜の下に一人ぼっちの哀しい顔をした狼の姿。
レイ…
「レイ……ッ!!」
駆け出してあっという間に飛び付いた。抱き締めはせずに髪だけ撫でてくれる優しい手つきに喉が詰まる。何故…思いながらも彼に言う。
「そうしようよ、私たち。気持ちが同じなら、ずっと一緒に…」
一筋の希望を確かめたくて見上げた。そして見えた。
言葉を失くした、しばらく。
「……何で?」
横に振って示した彼の顔が陰影を濃くした。呆然とするジュリへ苦しげな声が告げる。
「…駄目だ。これ以上は、駄目なんだ」
ーー好き、だから。
緩めた手からするりと抜けた、その人が歩き出した。ジュリは見つめる。何処か懐かしくさえ感じながら、その背中を。
遠ざかる背中を。
ーー好きだよーー
受け取ったばかりの言葉が脳内で反響を繰り返す。あんなに荒々しい口調だったのに不思議と甘く感じるその旋律に酔いそうになる。
冷たい風。つねるとじんわり痛む頬。夢ではない、みたい。
ーーあのピクニックの日から変わったことがあった。
大好きな…一番に大好きな彼と想いが通じていた。知ることができた今夜はあの日に続く特別な日。この上なく嬉しい出来事のはずだった。
それでもジュリは胸を押さえる。確かにそこにあるものを感じながら、もう闇に消えてしまったその人の名を、大切な名を、冷えた唇から紡ぐ。
「レイ……」
ーー痛いよーー