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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第4章/猫の息吹(Juri)
36/101

5.教えてもらったから



先のみんなが一通り終わって最後に呼び出されたのは……



「入っていいぞ、ジュリ」



キィ…とすすり泣くような音を立てるドアの金具。空いた隙間から白く細い両脚が覗いた。その後に。




「ーーこそこそと私の話をなさるとはどういうおつもりですか?ナツメさん」



同じ質ながらも低く落ち着いた声色。わずかに目を見開いたナツメがおや、と呟く。



「まさかお前とはな、樹里」


「ええ、そうですが」



小柄な半透明の身体に黒猫の耳。同色の尻尾。見た目は至って変わらない、いつも通りの“ジュリ”。


だけど違っている。静寂と情熱を示すような二色の瞳は冷ややかに、ほうっ、と気だるくこぼれるため息も、反対側の手で髪を直すしなやかな仕草も、普段のものとは明らかに違っているのだ。



「参ったな、ジュリにはたっぷり説教してやるつもりだったのだが…」


「何です?私が聞きますが」



「さすが。相変わらず肝の座ったお嬢様だな」



褒めてやっても変わらない、憮然とした表情の彼女にナツメはまぁ座れ、と促す。しぶしぶといった様子で彼女が向かいに座る。



「腰、抜かすなよ?」



眼鏡の奥が鋭く光った。





自然の気配はおろか機械音のひとつもしない、ただただ静寂が占めるばかりの空間で、始まった。


ナツメは話した。無邪気なおてんば猫妖精・ジュリが直近でやらかしたけしからんことを二つ。一つは言うまでもない、つい先程の盗み聞き。そしてもう一つが…




せっ…!?



告げるなり口元を腕で覆った彼女はみっともないくらい上ずった声を上げた。中心から外へ瞬く間に広がっていく紅潮の色も、それはもう可笑しいくらい。



「接吻ですって…!?」



もはやすっかり震えてしまっている彼女の問いかけにナツメはこくりと頷く。斜め下に目をそらし、大量の汗を滲ませ始めた彼女は何処か苛立ってさえいるよう。



「な、何を考えているんですの?あの猫娘は…っ」


「いや、お前だぞ」



「わっ!私はそんなはしたないことは致しません!殿方のお口を奪うなど…」




ついには深く顔を伏せ、苦しげに唸り出した彼女。しかしどういう訳かナツメは更にぐっと顔を寄せて問う。実にいたたまれない様子の彼女に実に容赦なく。



「どうだろうか?本当に、全く、覚えがないか?」



なぁ、樹里。



「……っ」




詰まる息。止まった空気。



ごく、と飲み下す白い喉。



やがてまた動き出した、そのとき彼女はもう観念したように目を固くつぶっていた。



「…レイが話してしまったのですね。想う人とは言えちょっとばかり恨めしいです…」


「ほぅ、やはりそういうことか。アレ・・は」



「…ええ、でもあれにはれっきとした訳があったのです!」



訳?と問い返すナツメの前、彼女はすっくと立ち上がった。蒸気した顔で鼻息荒く、詰め寄りながら語り出す。



「私は喘息ぜんそく持ちだと彼も知っていました。乾いた喉では発作を起こしかねないと判断したのでしょう。そう、そうです。あれは立派な応急処置…」



流れ込む生温かい感覚、それから確かに受け取った優しさを思い出しながら



たんっ、とまた一歩踏み出して。




「つまり口移しです!!」





「…更に恥ずかしいぞ、それは」




長いため息。それを吐き出したのは片手で額を押さえたナツメの方だった。そうか、それで…とうわ言のように呟くさまに、未だ立ち尽くしたままの彼女がぽかん、となった。



「え…聞いていたのでは?ナツメさん…」



「いや、勘だ」



「酷い!騙したのですね!」



赤い顔が更に赤くなる。見事にカマをかけられた彼女が足元までうずくまった。眉間のしわを隠すように覆うナツメは陰った顔からまた問いかける。



「それだけか?他には何も?」



他…



曇った小さな呟きをナツメは聞き逃さなかったようだ。ガバッと顔を振り上げたその動きが示している。



「やっぱりあるのか」


「あ、あの…」


「何だ」



「し、舌…」




ズダァン!!




突然高らかに鳴り響いた破壊音に丸まる彼女の肩がびくっとなった。机に額を打ち付けたのはやはり、ナツメ。色さえ変わらない顔はまるで涼しげなものなのに、その動作といったら何と忙しいことか。



「あれも何かの応急処置だったのでしょうか…」



「…そんな訳なかろう」



戸惑っているとわかる。でも何か肝心なところをわかっていないような彼女の口ぶりに唖然としたナツメは、もはや酸欠になるのではないかというくらい長く、長く、重い息を吐いた後に命じた。



「…もう一度レイを呼んできてくれ。説教だ」



顔を伏せたまま震える人差し指でドアを示す。その前方で彼女が立ち上がった。待って下さい!焦燥した声で叫んだ。



「嫌です!あの人を責めないで下さい!」


「しかし、なぁ…大の男がお前のような少女に…」



それも物質世界フィジカルの…




続く言葉の途中、彼女がかぶりを振った。弱々しく、でも確かな意志を持った目をして更に訴える。




いいんです…だって…



だって…




短い黒髪が乱れた。雫が散った。



半透明の輪郭をいくらか濃く点滅させた彼女が言った。



「私…っ、嬉しかったんです!よくわからなくても、強引でも、わかることがあったんです…!だって、あれって、あれは…」



樹里…



驚いて見上げるナツメの前でいくつも流れ落ちていく涙の群れ。散々嗚咽を漏らした後、彼女はやっと絞り出した。



「…簡単なことじゃないです。私、同じこと葛城君にしろって言われても…できません。命が関わっているなら別、かも知れませんが…」



きっと最後に付け足した一文は彼女なりのせめてもの気遣いだったのではないか。本音ならもう見えている。自らが放ったそれに想像が追いつかない。激しく揺らぐ両の瞳が示している。続いた言葉が更に後押しする。



「怜なら…彼なら、嫌じゃなかった。それでわかったんです。だから…」



「わかった、わかったよ」



私が悪かった、言い過ぎた。なだめる柔らかい声と共に伸びたナツメの手が彼女の背中をさすった。頭から爪先まで、小刻みを震わせる彼女の声もまた、震えて。



「あの人がいなければ…私は生きていけません」


「何を言っている。それならアイツに出逢うまでの15年間?お前はどうやって生きてきたと言うんだ?」



「…もう、忘れました。そんなの」



彼女は笑う。涙に濡れ、陰になり、鬱蒼うっそうとした湿地と化していくような中で、一際湿り気のない乾いた笑いだけを喉から漏らす。



「今までの私はきっと死んでいたのです。死んだ心のまま彷徨う、ただ躍動のない血が通うだけの、生きたしかばねだったのでしょう」



「…だから何処の詩人だ、お前は」



いい加減疲れきったようなため息をこっそり吐き出すナツメだが、それでも彼女に寄り添うことをやめない。それどころかじっとぶれずに見下ろしている。それでいて何処か遠い目をしている。




ーーなぁ、樹里。



ナツメは言った。低く、静かに。




「アイツは今、同じ世界に…すぐ傍に居るんだ。やみくもにぶつかるだけでなくちゃんと向き合わなければ何も変わらない。時間だってない。樹里が手遅れになる前に気持ちの整理をつけてだな…」



きっとまだ続きがあった。しかし…



「おい、樹里!」



ひらりと翻った半透明の身体。揺らぐ漆黒のショートヘア。



呼び止めるナツメを置いて彼女はドアへと向かう。もう一度呼ぶ。その声でやっと振り返った。彼女は言った。



「いいえ、ナツメさん。私はもう決めたのです。この世界で、この身体で、彼と確かな結び付きを得るって。そしていつか必ず…」



言いかけた声が薄れた。ふっ、と力を失う痩せた身体の元へ駆け寄っていくナツメ。



ーー運命、に…




かすかな細い声だけ最後に残して、彼女…“樹里”はナツメの腕の中に崩れた。静寂が戻った。





「…本当に困ったお嬢様だな」



頑固で、聞かん坊で…




水分を失くした薄い唇からナツメが呟きをこぼしたとき。



「ん〜…なぁに?私のこと?」



腕の中に帰ってきた“ジュリ”が円らな目をぱちくりさせた。うん…同意の頷きで示した、ナツメは困惑気味に微笑みながら。



「ああ、そうだ。ジュリ、聞かん坊のお前に言っておきたいことがある」



また薄くなってしまった半透明の両腕を引っ張り上げた。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



タタタッと駆け抜ける俊足の音が響く。遠く離れた会議室から食堂まであっという間に辿り着いた彼女に一同が注目した。ぴたっと談笑が止んだ。



「おぅ、ジュリも終わったか!」


「お疲れ様、ジュリ」



いくつもの声と笑顔が迎えてくれるその輪の中へジュリは進んで行く。ペタ、ペタ、ペタ…サイズの合わない室内靴が貼り付く音を残していく。



ジュリ…?



進むごとに大きくなっていく姿と異変にどうやら皆気付いたようだ。高鳴る胸。歩を進めるジュリの表情は更に緊張に強張っていく。小さな手は両脇でぎゅっと握られている。



そうしてすぐ傍まで辿り着いた。まず、一番近い人へ。




ーーレイ。




ぎくっという音でもしそうな一瞬の震えと共に見上げた彼へ、ジュリは言う。勇気を振り絞って。



「…ごめんね。びっくりさせちゃったよね、昨夜」



「い、いや…うん、大丈夫だ」



背の高いレイはどうやら案外座高が低いらしく、小柄なジュリにとっては座っている今の状態こそが等身大だった。見つめるとちょうど真っ正面からぶつかる視線と視線。



やがて共に朱に染まっていく、顔と顔。




「何、何、また二人の世界~?」



冷やかしてくるマギーのニヤニヤ顔をきっかけにくすぐったげな笑いがそこかしこから起こった。



イヤーン、などと似合わない声を上げて大きな手で顔を隠すエド、変わらないお人形姿のヤナギ、とジュリは横目で確かめる。緊張が増していく。そのままちら、と視線を流す。


心配していたサシャも…ほんの少し遠慮がちに笑っている。まだ安心していいのかはわからないけど…



渦中のレイは膝にめり込みそうな勢いでうつむいている。そんな風にしてたってどんな顔をしているか、わかるよ…内心で察するジュリは小さく笑うだけ。



「しょうがねぇ、お邪魔みたいだからずらかってやるか!なぁ、みんな」



そんな鶴の一声を上げたのはエドだった。ジュリははっと我に返った。


席から立ったばかりの横広の背中と、同じように腰を浮かせる皆に呼びかけた。




「待って!!」




……?




振り返ったみんなは揃いも揃っておんなじような表情。横から見ている気配がする、レイもきっと。



ジュリは覚悟を決めた。拳を握った。



恥ずかしさの付きまとうレイへの謝罪よりも、実はこっちの方がよほど勇気を要した気がする。何たって初めての試みだから。



「みんな」



きっと真っ赤な顔をしてた。どんな反応をされるかと想像してみるだけで、すごく、すごく緊張したけど…




ーーねぇ、みんな。



いつも振り回してばかりでごめんね。だけど、だけどね…



やっと返せるかも知れない方法を見つけたの。何でかな、時間もあまりないような気がするから、今のうちにしておきたいの。




だからね、私のお願い





ーー聞いてーー



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