3.守ってあげる(前編)
ーー俺が好きなんだろ?ーー
訳もわからない状況。ただひたすらにつのる焦燥の中で、ひときわ低くかすれた声を聞いた。
ーー白いベッドの上。
細い腕に両サイドを固められた仰向けの樹里は身動き一つとれない。迫る顔と顔。ほんのわずか数センチ程度の間で交わる吐息と吐息。
間近から見下ろす彼の円らな瞳は、普段仔犬だなんて称されているはずだった。嘘みたいだった。意地悪なのは知っていたけどもはやそんな比ではない。貪欲な野生の色を目前にしてぞくり、となった。…良い意味ではなく。
ーーなぁ…いいだろ?磐座ーー
ーーお前だって本当は…ーー
尋ねるその声に、嫌…と細く漏らしてかぶりを振った。容赦もなくなおも迫るその人の姿が滲んだ。
好き…なんて。
恐怖に声が出せず、ただ胸の内だけで続いた抵抗の言葉。
そんな…そんなのは、ずっと前。今は違う。こんなことをするあなたなんて…
あなたなんて…!
ついには下からすうっと太腿を擦り上げられた。息を飲んだ。やっと叫んだ。
ーーやめて下さい…やめて…っ!ーー
ーー葛城君…!ーー
意味ありげな手つきは待ってなどくれず更にスカートを押し分けて中にまで入ってくる。抗おうと胸あたりを押した手も呆気なく横へ押さえ付けられて。
もう、駄目…
そう感じて目を固くつぶったとき。
シャッ。
開け放つ音が高く鳴った。恐ろしい時間も、攻めてくる動きも、全て止まったかのよう。
つい数分前押し倒してきた、今もなお上にいる彼が、高くから見下ろすその人のことを呼んだ。樹里はやっと瞼を開いた。大きく見張った。
覚えのない、名前。だけど
覚えのある姿に。
………。
ぐぅ、と今日も知らせてくれた腹時計。横向きに丸まっていたジュリはゆっくり身体を起こす。何やら鈍く痛む頭を押さえながら、小さく呟く。
ーーカツラギ……
…って、誰?
一人首を傾げる、ジュリ。呼吸をする都度に薄れていく、それは今朝も同じだった。
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ーーそれは唐突だった。
「あれ?みんな…?」
朝ごはんの為に訪れたジュリは出入り口のところで気付いた。驚いた。
きっとまだ自分くらいしかいないだろうと思っていた早朝の食堂。長テーブルの席に見慣れた面々が見事に揃っている。
「おはよーっ!ジュリ」
「おはよう。相変わらず早いのね…」
元気に手を振ってくるマギーと、眠そうなサシャ。
「おぅ、ジュリ。お前も呼び出されたのか?」
「……眠い」
太い声で呼びかけるエドと、やっぱり眠そうなヤナギ。
それから…
「レイ…」
「……っ」
お、おはよう…とうんと小さく返してきた彼は、すぐにふい、と顔をそむけた。わずかに見える頬が赤い。何?不思議に思って近付いたとき。
………
「……っ!」
思い出してしまった。口を覆った。半透明の手で。
「わっ…私…!」
え?とこちらに注目するみんな。その中でひときわ赤い顔をした彼もまた振り向いた。目が合うと、共に、更に、熱を帯びていく。みんなが更に、何、何、などどざわつき出して。
「レ、レイ…私、あの…っ」
「待て、ジュリ!」
もうはっきりと思い出せる、昨夜。あたふたと弁解の言葉を探す私を彼が止めた。きごちない笑いを浮かべながら彼は言う。小声で囁くように。
「大丈夫…その、気にするな。あれは、何だ、寝ぼけたんだろ?」
寝ぼけた…
そうかも知れない。実際眠っていたみたいだし。だけど何でだろう。そう言われてしまうと…
ジュリはぎゅっと胸元を握った。熱の落ち着き始めた顔がおのずと下へ垂れていく。そんな過程に何か気付いたのだろうか。一人の声がした。
「ーーアンタ、また何かしたの?」
「……っ!」
ドスの効いた、でも元の旋律が綺麗な女の人の声。サシャのものだった。しかもそれはこちらに向けて、ではない。顔を上げて気付いたジュリは慌てて駆け出す。
「待って、サシャ!違うの…!」
テーブルを挟んで睨んでいる彼女と睨まれている彼。その間に割って入るように。
「ジュリ?」
「おい待て、ジュリ!」
不思議そうに目を止めた彼女と顔を引きつらせた彼。ぽかんと注目する一同の前で。
「レイは何もしてないの!私から、なの…」
「おい、言うなって…!」
横から制止してくる声に、ううん、とかぶりを振った。駄目。だってこれじゃあレイが悪者にされちゃう。そんなのはもう嫌。もう二度と。
二度と。
そんな一心だった。それだけだった。
「私、なの。キ、キ…」
キ??
「…キス、しちゃったのは!」
………
『えぇぇぇぇぇえぇ!!?』
揃いも揃っておんなじ響きを上げた、高さの異なるいくつもの声がびぃん、と空気を揺らした。
はぁーっ…と長い息を吐きながら頭を抱えてしまったレイ。そんな彼に次々といくつもの声が降りかかる。
「何で!いつ!?」
「やっぱりそういう関係なんですか、レイさん!」
あぁ、何でいつもいつも、責められるのは彼ばかりなの?悔しさにぎゅっと唇を噛んだ、ジュリもその中に入っていく。勝手に盛り上がっているみんなにちょっとばかり苛立って。
「だから!したのは私の方だって…!」
「したのか!!」
「だからシてねぇって!!」
もはやどれが誰の声だかわからない。盛大に、ごちゃ混ぜになった騒ぎが終わったのは、それからしばらく後。
「ーー何だ、うるさいぞお前ら」
さらりと涼しげな風が吹く、錯覚を覚えた。いつの間にか出入り口に立っていた白衣姿のナツメが言う。
「やっぱり私の判断は間違ってなかったようだな。お前らは揃いも揃って情緒不安定だ」
一人ずつ来い。そう言って人差し指で手招きした。彼女は言った。
「職員たちのメンタル管理も私の仕事なのでな」