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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第4章/猫の息吹(Juri)
32/101

1.何だかおかしいの



挿絵(By みてみん)


ーーきっと誰もいないって思った明け方。くすんだ空と荒れた海との狭間で滲む朝日はまるで氷の奥深くに閉じ込められているみたいで、今、この場にある最も高温なものとは思えないくらいひっそりと、遠く…遠く。



足元を見下ろした。見るからに沈んだ冬の海の色。すごく冷たいのだろうと、覚悟の元で踏み出した。


思った通り。ざばっと一気にふくらはぎまで駆け上った感覚に一瞬にして総毛立った。それでも進んだ。向かうべき先がここであっているのかなんて…知らない。だけど、かと言って、一体何処へ向かえばいいと言うのだろう。



彼の居ない世界で。



そんな失意の思いは、覚めるような冷たさに肩まで浸ってなお、変わらず虚ろなものだったように思える。あの瞬間を目にするまでは。




氷漬けの空がふと割れた。いや、突き破られたのか。


キラキラとした破片を散らしながらこちらへ差し込む幾重もの筋に目が眩んだその後は、反して大きく見開いた。深く染みていく、突き刺されていく…暗闇に慣れた黒の瞳孔に対してあまりに容赦のないそれへ、震える手がおのずと、伸びて。



“Ray”



一つ、思い出した英単語を、慣れた響きへと変えて口にする。



「怜…っ!」



すがるように身を乗り出すといくつもの光の破片が自身の瞳からも、散った。樹里は思い出していた。哀しく。





ーー柏原?ーー



ーーえ、いない…よな?ーー




息を切らせて駆け付けた教室の前でそう告げられた。明らかに戸惑っている様子の上級生男子に樹里は更に詰め寄った。男が怖い。つい最近までそう思っていたのが嘘みたいに。大胆に。




ーーそんな…いるはずです!ーー



ーー柏原怜さん、ですよ?ーー





だってなぁ…



そう言われても…




戸惑う声は続いていた。そんな風に言われても、そんな態度を取られても、あぁそうですかなんて引き下がれるはずがない。信じられるはずがない。だって…



だって…!




まだはっきりと覚えている。眼光鋭い奥まった目に、頭ごと包んだ大きな手。開けば牙をむき出しそうな真一文字の唇は思いのほか優しかったんだと知った。あの日、触れたときに。



熱く、痺れるくらい。





ーー怜。



柏原怜。





その人は居た。この世界に、私の傍に…




確かに、居たのに。









………っ。





詰まる息をやっと飲み込んだとき、ぱた、と仰向けに倒れた。この建物内なら何処でも見られる無機質な天井。だけど自室だとすぐにわかる、見慣れたスプリンクラーの位置。腹が知らせる朝の合図。



鮮やかな二色の双眼を見開いたジュリは、薄く唇を開く。




カシワ…バ……




「……何だっけ?」





ついさっき自分で口にしたような気がするその響きは何故か最後まで思い出せない。始めのほうでさえ、呼吸を重ねる都度に薄く消えかかっていくよう。



やがてすぐ傍にいる気配と匂いに気が付いた。ナツメ…ベッドの上のジュリはそちらに顔を傾けて問う。



「私、何で…泣いてるの?」



「…さあな」




怖い夢でも見たんだろう、と落ち着いた声が締めくくった。もう覚えてはいないけどわかるような気がして頷いた。怖い夢…そうだった気がする。だけど




妙に優しかったような…気もする。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



今日の朝は過ごしやすかった。夏っぽくカラッと晴れた天気もあるだろうけど、今日サシャは休みだと聞いている。


大好きだけど口うるさくって時々怖いサシャ姉。朝からガミガミ言われないから気が楽なんだと納得した。だけどふと気が付きもした。



そう言えば最近ずっと怒られてないな。いつからだろう?



すっかり元気を取り戻したあのリュウノツルギのふもとにしゃがんで記憶を辿ってみる。うーん、と小さく唸りながら続けているうちに行き着いた、あの日。





ーー俺がお前をどうにかしちまうっつってんだよ!!ーー



ーー言わせんなッ!!ーー




「……っ!」





そうだ。あの日。



あの日から、なんだ。




合点がいくなり、かぁーっと言い知れぬ熱さが顔面から起こり、そして全身へ、伝わっていく。



「あ…あぁ…」



あぁぁぁぁ……っ!!




ジュリは思わずうずくまる。こんな体勢になったら余計熱がこもって行き場がなくなるとわかっているのに、自然とこうなってしまうのだ。




ーーあれから何度となくこんなことを繰り返している。


思い出さなきゃどうってことないのに、ひとたび実感したならもうどうしようもなく、毎回、この流れだ。



「私、何で…あんなこと…」



自問してみたって答えは出ない。今日もだった。気が付いたらああしていた、としか言いようがない。そして今はただただ熱いばかりで。




私は。




パンツを放ったらかしにしたりブラジャーを付け忘れるくらいのうっかり屋だ。だけど羞恥くらいはある。


猫の妖精とは言え、身体が毛皮で覆われている訳でもない。半透明だってある程度の色や輪郭くらいある。このぶかぶかの服がなければサシャやヤナギと同じ、普通の女の子の身体とほぼ変わりはない。



それをあんな風に晒して、彼の服まで脱がせて、あんな風に…




う…うぅっ…




「ミギャーーーっっ!!」




ついに意味不明な叫びを張り上げてわしゃわしゃと頭を掻き毟り出したジュリ。もはや優れた嗅覚も無意味だった。近付いてくる気配にも匂いにも気付くことはなく。



「…ジュリ、うるさい」



「ヤナギぃ…」



冷ややかな声に振り返った、そのときにはすでに涙目だった。もう知っていた。無表情がトレードマークと言ってもいいであろうこの先輩は、何だかんだとこの場を離れはしないだろう、と。



「悩み、なら、聞く」



ふわりと傍へ降りてきた、美味しそうなキャラメル色のウェーブヘア。慣れない接続詞を挟んだせいかますますぎこちない口調のヤナギが隣へしゃがんだ。思わず甘えた。自然に。



「レイに嫌われたかなぁ…私」


「この間、デートしてた」


「したけどぉ…」



デート…確か、お出かけのこと。一緒に空を飛んだあの日を思い出す。あのときは私も平気だった。何事もなかったように振る舞ってくれる、変わらない彼の強面が嬉しくて。



だけど、もしかしたら…



「本当は嫌がってるのかも」



いつになく弱音がこぼれてしまう。両の耳をぺたんと寝かせて更に丸い塊と化す。



ジュリ…



ヤナギの声が呼んだ。顔を上げるその前に、柔らかな感触を頭に覚えた。私とあまり変わらないくらい小さな彼女の小さな手が優しく撫でてくれていた。



彼女は言った。




「ジュリ…レイ、好き」



すごく短い、一言。でも語尾は平坦だった。問いではなかった。



深い琥珀色の目を前にジュリは不思議に思った。まるで全てわかっているみたいな色。何で?私は全然わからないのに、って。


なのに気が付くと頷いていた。同じく語尾は平坦に、だけど力強く。



「うん。レイが好き」



それは間違いないから。







それからしばらくしてのお昼休憩。



「ジュリー、ヤナギーっ!」



「あっ、サシャ姉だ」


「おかえり」



食堂へ向かうザワザワとした廊下の群れの奥からひょっこりと顔を出したサシャ。両手にいっぱいの色鮮やかな袋。駆け付けて姿を大きくしていく彼女に伴って視線を高くしていったヤナギがぼそっと問う。



「買い物?」


「うん!見て見て、まずこれが夏服でしょ?それからこれが…」



じゃーん!と効果音まで付けて大きな箱を取り出した、サシャが得意げな顔をして言う。



「ダイエットのサプリメント!すごい効果があるって噂なの。最高記録でマイナス15kg!!この服はね、痩せたら着るんだぁ」




へぇーー…




いかにも気のなさそうな声で返すジュリにもお構いなしに、当のサシャはランランと輝いた表情でサプリメントの成分だとか何だとかを話し続けている。そこへ静かな一声が。




「…無駄な努力」



「しっ、失礼ね!!」




そこでジュリはやっと、ぷっ、と吹き出した。紅潮した顔で身を乗り出しているサシャに首を傾げているヤナギ。前者の方に教えてやりたい、と疼いていたとき後者の方が言った。



「サシャ、もう、痩せてる。綺麗」



そう。そうだよ、サシャ姉。ヤナギはこう言いたかったんだよ。真っ赤になってあたふたしているダイエット熱心な美人を上目で見ながら笑い続けた。



「もう!ジュリまで…」



憮然と唇を尖らせているその顔を見て、すんなり息が通っていくような気がした。前ならごく自然だったこんなやり取りが、何だか久しぶりなように思えて。




「ナツメのとこ、ちょっと寄る。いい?」



「いいよ、ヤナギ!」


「やれやれ、相変わらずねぇ」



サシャが帰ってきたことで彼女もちょっと甘えたくなったのだろうか。許しの言葉をかけてあげると、本当にほんの少し、頬を染めたヤナギが遠慮がちながらも研究室の方向へ去っていった。やれやれ、と隣のサシャがもう一度言った。



「これじゃあ私がジュリのおり役じゃない」


「子どもじゃないもん!」



聞き捨てならない言葉に反論しながらも何故だかくすぐったい笑みが続いている、ジュリは久しぶりの彼女の隣を並んで歩いた。痩せてどうするの?別に、そうしたいだけ。そんな会話を続けていた、途中。




「ーーレイ?」




見つけてしまった。




そこからおかしくなった。





レイ…






吸い寄せられるみたいに近付いた。驚いたように見下ろす彼以外の気配も景色も霞んで遠のいていく。



シャンプーのいい匂い、その奥に潜んでいる彼のものを確かめたくて、触れた。ドク、と当てた耳元へ迫った低い音を感じるなり、自分の奥も同じような音を立てた。それがどんどん早くなっていく。熱くなっていく。



はぁ…っ



とうとう湿った息が漏れ出した、ジュリは戸惑ったまま見上げる。声にもならないまま潤んだ目で問いかける。彼へ。




ねぇ、レイ。あのときもそうだった。



これは…何?





ピシャッ!




突如鳴り響いた音にそれは遮れた。色を取り戻した景色の中に佇む彼が手を押さえて黙っていた。




ーー変なことしないで。




冷たい。すごく冷たいサシャの声がそう言った。そのときわかった。



まだ元通りじゃないんだ、この二人。



胸が痛んだ。





「ねぇ、サシャ姉…」




食堂に入る手前だった。ジュリは口を開いた。



「レイは危なくないよ?あれはね…よくわからないんだけど、あれは…っ」



ーージュリ。




遮った、サシャの声が続けた。




「ごめん、私…怖かったの」



怖かったの…




「サシャ…姉?」




うつむいてしまったサシャ。前に流れるプラチナブロンドの髪が陰った顔を隠して更によく見えない。ただ一つ実感が迫ったように思えた。ジュリは恐る恐る、覗き込む。




「サシャ姉、もしかして…」



「行こっか、ジュリ」




ぱっ、と上げられた端正なその顔にはもういつもの凛とした笑みが戻っている。何故、と思った。何故、今日の彼女はこうもことごとく遮るのだろう、と。



「ダイエットは明日からだから!今日はうんと食べちゃうよ!」



えへへ、という照れ笑いが何だか乾いている気がするのは気のせい?思いながらもジュリは口角だけ上げてみる。



何故…



結局聞かなかった。返ってくるかも知れない“何か”が空恐ろしく感じて、笑うばかりで紛らわせた。




だってそれくらいしか出来ないよ。




――聞きたくないよ――



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