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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第3章/狼の葛藤(Ray)
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12.自己満足でしかないけれど



日々の任務は基本チームで動く。行き先は別々だったとしてもある程度の時間を決めてその範囲で行動する。組織として当然のことだ。



しかし単独ならばこんな時間の縛りはない。特に俺の抱えるそれは誰かの為などではない。他でもない、俺の為のものだからだ。



俺の為の…




フッ、とレイは短い息をこぼした。陰った目元、歪んだ唇。卑屈な笑みだった。思った。




ーー自己満足だな、完全に。




自嘲、というやつだった。





今朝、あんな夢を見てしまったせいで、大量にかいた汗をまず風呂で流す羽目になった。どうせ言うことを聞かない硬い髪は特にいじる必要もないが、乾かす手間はやはりある。


頭痛もある程度引くまで待たねばならなかった。こんな状態ではあっちで思うように動けないからだ。それなりの時間ロスだった。




昼頃、やっと動き出した。食堂へ向かう職員たちの群れとは逆に進んだ。足元ばかりを見ていた。だから気付かなかった、寸前まで。



ーーレイ?



遥か下から呼ぶ声に気付いて見下ろした。小さく腰を掴まれる感覚も同時だった。心臓が跳ねた。



「いい匂い〜…お風呂入ったの?」



「ジュ…ジュリ…っ」



そう言って見上げる、彼女の潤んだ目にレイは喉を鳴らす。たまらなく混み上げる熱さに口元から声に至るまで震えた。こんなところで…だけど彼女には関係ないようだ。



それは覚えのある顔。虚ろに湿った目、血色の良いしっとりした頬、半開きの唇。物欲しそうな。求める女の顔。



こんなところで…それはこちらもだった。意図せず動き出した腕が、指先が、今にも彼女の髪に、触れそうに…




ピシャッ!




そのとき、跳ね退けられた。そこに居たなんて全然気付かなかった。不覚にも。



氷のように鋭い目をしたサシャが平手を顔の前に構えていた。思い出した。そう言えば今日コイツは休みだったと。だからここに居るのだ、と。



「ーー変なことしないで」



やっとプライベートで口をきいてくれた。その第一声が、それか。レイは唖然として立ち尽くす。軋みを上げる胸の音に耳を塞ぎたい気分だ。



「レイ〜、何処にいくの?」



寂しいよ…とこぼす発情モードのジュリは張り詰めた空気などお構いなしとばかりにこちらに擦り寄ってくる。触れたのはほんの一瞬。ジュリ、と困ったように呼ぶサシャがすぐに引き離した。



駄目よ、危ないから、なんていうサシャ。好き勝手言ってくれやがる。だけど怒りとかやるせなさとかより先に、浮かんだものがあった。レイは口を開いた。



「なぁ、サシャ。コイツ…」


「…何?」



「…いや、何でもない」



冷ややかな口調と視線を正面から食らわされて、続ける気が失せた。他に託そう。そう思った。







ーーエド。




しばらく歩いて見付けた。河川敷で昼食を終えたばかりの彼に声をかけた。すぐ側で目を輝かせたマギーには、悪い、と一言詫びて彼だけを少し離れた場所へ連れ出した。



「どうした、レイ。俺にも相談する気になったのか?」


「…何がだ?」



「あっ、いや!その…最近元気なさそうだったからよ」



当初嬉しそうだったかと思いきや、今度は一転してあたふたしている。何やら忙しい様子のエドをレイは怪訝な顔で見据える。



また何か察したか?そんなことを思いながら。



「頼みがある」



気を取り直して切り出した。




「ジュリはケット・シー、つまり猫だ」


「だな」


「今は春、つまり…発情期だ」



「だな……って、え!?」



みっともなく声を上ずらせた今のエドには、もはや大人の余裕も上司らしい威厳もまるでない。大丈夫か、これで…とちょっとばかり心配になってくる。



「前に俺の部屋にも転がり込んで来た」


「したのか!!」



「…シてねーよ、落ち着け」



鼻息荒く身を乗り出してくる彼をたしなめる。落ち着け、だなんて言えたクチか、と自身を滑稽に思いながらも告げた“頼み”。



「アイツをしっかり見張っててやってほしいんだ。手当たり次第誘惑するかも知れない…」



エド。



正面からしっかり見据えた。レイは言った。




「お前のことは……信じているぞ」



「いや、何もしねぇし。っていうか、随分間があったな!」



酷くね?とぼやくエドはいくらかのショックを受けているようだが、酷くない、とレイは思った。もう身を持って知っていたからだ。あんなのはよほど強固な意志を持っていない限り、振り払えるものではないと。




ーー俺が好きなんだろ…?ーー




脳内に響いた、思い出したくもなかった声色に奥歯を噛んだ。あんな勘違いさえ引き起こすのだと。



無理もないかも知れない、と。





ーー夏を感じさせるくらい強く照り付ける陽。ひらり、と飛んできた何かをレイはとっさに受け止めた。枯れた葉。ユズリハ。そうか、もう見届けた頃か。そんな頃か。思いながら手を離した。またひらり、と風に流した。



河川敷から立ち去る、その途中。




レイ!




呼び止めるエドの声に振り向いた。いつかみたいにまた太い眉を寄せてやがる、困ったような顔をしていやがる。そんな彼が言った。大きく。




「無理すんなよ!いつでも…聞いてやるから!」




ああ…届いたかもわからない小さな相槌を漏らした。いや、むしろ呻きとかため息とかだったのかも知れない。何か感じ取ってしまって。




ーーエドは何か察している。



前から思っていた。単独任務の行き先はナツメの他に彼しか知らない。上司だから伝えた?いや、本当はそれだけではない。



一年前。



生態系研究の為に物質世界あっちへ行ってみたい、と申し出た。今思うと暑苦しいくらいやる気でみなぎっていた、無知で青臭い頃だった。


同じ班の中でエドだけに話した。それには理由があった。“世界”をまたぐなんて言ったらまず心配性のサシャが大騒ぎするだろうと踏んだ。



そこからは実に独りよがりな推測だった。



あれをするには天界への申請が必要だ。もしこの話が大きくなれば、今度は出世思考の連中が我も我もと大量の申請を押し付けるかも知れない。そんなことをされちゃ天界だって大迷惑だ、という自分なりの気遣いなるものを口にした。自分さえ騙していた。



だけど知ることになった、後に。



出世思考。結局自分もそれだった。エドに可愛がられているのをいいことに、他の者が思い付かないような実績を上げようとした。そしたら近付けるんじゃないかと思ったんだ。今は亡き、かつての上司。憧れの人に。



そんな浅はかな考えだったから流されてしまったんだと思う。





それから半年後、ジュリがこの研究所にやってきた。そこからだ。送り出すエドの様子が変わったのは。



事実。向かう先は同じでも目的はもう、違う。俺と同じ鈍感野郎だと思っていたのにまさか気付くなんて、と驚いた。



だけど、エド。




すっかり遠くなった河川敷へ振り向いた。届きもしない距離からレイは問いかける。



「その前までは見抜けないよな、さすがに」



見抜けたらそれはエスパーだ。胸の内で呟いてみると何だか可笑しくなって



ハハ。



乾いた短い笑いを漏らした。






ーーやがて辿り着いた、研究所から割と近くにある森。



時空のひずみがあるという場所。木漏れ日が光の精霊たちのように舞う、その場所で。




目を閉じた。






繋がっていく、二つの世界。




幽体と呼ばれるこの身体に降りてくるのがわかった。身に纏うだけで息苦しい、本当は苦手なもの。だけど必要不可欠なものだからこそ受け入れる。




――肉体。




これがなければ、あっちで動くことはおろか、姿となることも何かに触れることも、できないのだ。




――偽りだから――



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