表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第3章/狼の葛藤(Ray)
26/101

8.無邪気か!



ーー昼過ぎ。



ちょうど腹を満たし終えた者たちが食堂からおのおのの場所へと戻る頃だった。



「ナツメー、いるかぁー?」



入るぞー、という声かけのときにはすでにドアを開いていた、彼。言葉の本来の意味を理解していない、それはサシャばかりではないようだ。



生物研究班研究室。中には二人だけだった。うふふ、あはは、と甘々しい二人分の笑い声が止まった。おっと。彼は小さく呟く。



「悪りぃ、邪魔しちまったか」



遠慮がちなその言葉に返ってきたのは実に容赦のないものだった。軽く頬を膨れさせて鋭く見上げたのはヤナギの視線。向かい合わせになった椅子と、間の小さなテーブル。どうやら二人で弁当を食べていたらしい。


そう、邪魔、とでも言いたげなヤナギの目つきは本来暖色に近いはずの琥珀色に冷感を纏わせている。悪りぃ…もう一度繰り返した彼の顔は笑みでありながらも不自然に引きつっている。



改めよう、とでも思ったのか、踵を返し立ち去ろうとする彼に



「おい、待て」



呼びかけたのはナツメだった。彼女は言った。まず、すぐ傍の彼女へ。



「悪いな、ヤナギ。ちょうど弁当も食べ終わった頃だし…」



そして言った。ドアの前の彼へ。



「ちょっくら話したいことがあるんだ、コイツと」



やがてうん、と小さく頷いた、ヤナギの頭をナツメは優しく撫でて微笑んだ。相変わらず涼しく。





数分後、そこは彼女と彼の二人だけになった。



「しかし納得いかねぇよなぁ…」


先に声を発したのは彼の方。



「俺にも劣らないくらいいかついツラしてんのに、何でアイツばかりモテるんだ?」


「何だ、恋愛相談か?」



呆れたようなナツメの口調を受けて、彼ははっ、と目を見開いた。とうやら我に返ったようだ。険しい顔に戻って本来の方を切り出す。



「じゃなくて。アンタに聞きたいことがあんだよ」



レイのことだ。



珈琲をすすりかけていたナツメも顔を上げた。そっと唇からカップを離した彼女に彼は更に問う。



「アイツ、何かやべぇこと抱えてんじゃねぇか?」


「ほぅ…何か心当たりでも?」



「それは…」



ためらうように顔を伏せた。ぎゅっ、と一度、膝の上で拳を握った彼はまた続ける。



「いくら鈍い俺だって見てりゃあわかる。レイとジュリ、アイツらはお互いに気にし合ってる…いわゆる両想いなんだろ?レイも言ってた」




ーー頭から離れないーー




「…おかしくないか?」



彼は首を傾げる。ナツメも同じように傾げて返す。



「と、言うと?」



「何か上手く言えねぇけどよ、何だか、アレだ、遠い誰かを想うみたいな口ぶりだと思わねぇか?」



ほぅ…身体をそらせて上から見下ろすナツメにやがて届いた。大柄な男のものとは思えない、細い声が。



「実際にそんな目をしていたんだ、アイツ。狼ヅラだけに今にも遠吠えしそうだった」



遠吠え…か。呟いたナツメは少し後に立ち上がった。座ったままの彼を見下ろした。



「お前、口堅いか?」


「え…」



「上司であるお前にはいつか言っておかねばと思っていたんだ。いずれアイツから話すだろうと踏んでいたんだが、予想以上に遅いんでな…」



ーーエド。



白衣を翻し、歩き出したナツメ。仕切りのカーテンに手をかけた彼女が背中で言った。



「お前の想像以上に“やべぇ”かも知れないぞ…いいのか?」



ごく、と隆起する太い喉。滲む脂ぎった汗。それでも彼は立ち上がった。同じ方へ向かい、隣に並んで。



「当たり前だろ」



目一杯、笑って言った。



「俺はアイツの上司だぞ。いや、ガキの頃から一緒に育ってきた兄弟も同然。何を聞いたって、受け入れてやる」



ーー可愛い弟の為だ。



特に柔らかく響いた最後の言葉。安堵したように目を細めたナツメはカーテンを開いた。顎で促し、彼を中へ招き入れた。





「これは…」




薄暗い片隅の中、不自然に四角く切り取られている光。よく見れば何か写っている。すぐ前で足を止めたエドは目を見張った。



「この部屋にはスプリンクラーが二つある。一つは本来の役割。そしてもう一つが…これだ」



「監視カメラ…」



呆然とするエドの隣にナツメが音も立てずに並ぶ。彼女は言った。落ち着いた声色ながらも何処か、重く。



ーージュリの部屋だ。



「……っ!」



エドはやっと顔を上げた。監視…そんな事実を知れば誰だってこうなることだろう。彼の反応は至って自然だった。口にしたものも。



「いくらガキだってアイツも女だぞ!何でそんなこと…」



しかしそれは途中で止まった。珍しく哀しげに染まったナツメの目を見て、だった。



「…こうしておかなきゃならないんだ。ジュリはいつ消えてもおかしくない。そうなったとき、壊れるのは誰だ?」


息を詰まらせる隣の男へ彼女は言った。教えた。



「ーーレイ、だぞ」



しばらく沈黙が居座った。重い重い、時間。だいぶ遅れてエドが口を開いた。



「それならジュリの身体を治してやることを考えた方が…」


「できない」


「何で…っ」



「できないんだ」



ナツメが緩くかぶりを振った。きっと未だ訳がわからず、それでも悲壮に顔を歪めているエドに落ち着いた声が



重く。




『幽体離脱』




「え…っ」



エドの呟きはすごく短いところで消えかかった。モニターに視線を戻した、ナツメから語られた。



「今、あっちの世界ではそう呼ぶそうだ。ジュリは本来こっちの者ではない。ケット・シーだったのも前世まえの話だ。今世においてのアイツの本体は、今もまだ、あっちに…」


物質世界フィジカル…」


「そうだ」



そんな…がたいのいい身体に似合わない、エドの弱々しい呟きだけが残る、モニター前。何故…呟きはまた起こった。また疑問を得た様子の彼からだった。ナツメが続けた。



「引き金を引いてしまったのは、レイだよ。もちろん悪意なんてなかった。アイツはただ決まり切ったこの世の仕組みに従おうとしただけだった。だけど消し去ることはできなかった。それ程に強く想ってしまったんだろう」



なぁ、エド。



少し乾いて、かすれたような声が呼んだ。見上げた銀縁の奥の目。そこはいつもより潤っていて。



「想いとは難しいものだな」



エドは黙ってしまった。ふい、と横を向き軽く眼鏡を持ち上げた、素早く拭った、ナツメの後ろ姿を前にして、なおさら。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



乗り慣れた小型機でいろんな場所を飛び回った。眺めのいい崖、広大な草原、繁華街…嬉しそうにはしゃぐ姿を目にする度、もっと遠く、もっと遠くへ、なんて思ってしまった。



できるなら。



国境のないこの世界の全てを見せてやりたいなんて思った。過ぎ行く時間もすっかり忘れていた。子ども返りしていたのはもはや自分の方だったのではないかという程に。



そんな柄にもなく高揚した気持ち。だからつい調子に乗ってしまったんだと思う。彼女の変化に気付いたのはだいぶ遅れてだった。




ーーここ、やだ。




夕暮れ時。操縦席の後ろから聞こえた、泣きそうな声にドキッとなった。見下ろすともう海が広がっていた。察した。



水が怖いのか…



「そんなんで風呂とかどうしてんだよ?」


「お風呂はサシャが一緒にいてくれるから、平気…あったかいし」



そうか…レイは呟いた。予感は確信へ変わった。




ジュリ。




一人は嫌か。冷たいのは、嫌か。




当たり前だな。たった一人であんなところへ行って、たった一人で…





「ジュリ」



レイは呼んだ。意を決して機体を下降させると、いよいよ取り乱したように後ろからすがり付いてきた彼女。



「レイ…!やだよ、やだってば…!!」


「おい、危ねぇだろ!揺さぶんな!」



それに…



「俺が居る!!」




掴む小さな手の動きが止まった。レイ、が…?弱々しく返す涙混じりの声に頷いた。はっきりと言った。



「何処にもいかない。お前の傍に居る。一緒だ。怖くなんてない」



そうだ、お前が元々行きたがっていた場所じゃないか。さすがにそれは告げられなかった。



背中からふっと彼女の手が離れた。機体は下降を続けた。





ーー夕暮れの空の赤い部分で星の姿をはっきり確認することなんてできない。だけど海ならそれを叶えてくれると知った。さっきからずっとあっち側を向いて突っ立っている彼女も、きっと。



やがて冷たく静まり始めた海風。空には藍色が現れ始めた。情熱の赤、静寂の藍。光の粒の星々を浮かべて波打つ海に吸い込まれそうだった。



そんなとき。




……!




砂浜に座っていたレイが腰を浮かせた。彼女の頭が、髪が、尻尾が、いつもより薄く




ジュリ…




遥か遠くの水中の星まで透かしていたのだ。




「ジュリ…っ!!」




レイは駆け出した。海へ、彼女へ、おのずと両手を伸ばしながら。



もう少しで抱き締めるところだった。




「レイ…?」



ぽかん、とした顔の彼女が見上げた。はっきりと鮮明な青と黄の円らな双眼。まるで何事もなかったかのように色と輪郭を取り戻した身体を見て、長い息がこぼれた。



ジュリ…



レイは言った。たった今、とって付けた、こんなに息を乱して走ってきた理由を。



「寒くないか?」



脱いだカーディガンを肩からかけてやった。くるぶしまで届く長さのそれを前で握った彼女は言った。



「これカッコイイ。マントみたい」




マント…



ああ、それは覚えているのか。だけど気付かないのか。あのときと、すごく似たことを言っているって。




レイ…



「ずっと一緒だよ」




「……っ!」




がばっ、と腰にしがみ付かれた。締め付けられる感覚に息が止まりそう。本当は同じようにして返したい、行き場を失くした手を無理矢理に彼女の頭においた。力強く撫で回した。



ゴロゴロ、鳴る、猫のじゃれつきを聞きながら。



ゴロゴロ、鳴る、遠い空の不穏な音を聞きながら。




「そろそろ帰るか。雨が降りそうだ」



荒く乱れる季節、5月は近い。




機体に引き返す砂浜の道。ついてくる足音。自身を悔やんだ。だけど、あれ以外に何と言うことができたのだろう。




ーーお前の傍に居るーー




一体どの口が言う。こんな矛盾したこと。レイは唇を噛み締める。彼女には決して見せないように、振り向かないまま。




どんなに想っていたって、通っていたって、それは叶えられない。離れなきゃいけない。いつかは……




また。





ーー離れなきゃーー




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ