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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第3章/狼の葛藤(Ray)
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7.デート? ッテナンデシタッケ?



どんな“ブラック企業”にだって気休めばかりの休みはあるものだ。気休め……



ーーよぉ、レイ。



本当に気休めだとすぐに思い知った。




呼ぶ声に手を止めた、食堂。相変わらずの険しさで顔を上げたレイの前に白衣姿のナツメがいた。



「ちょっくら頼みがあるのだが」


「んだよ。今日は休みだぞ、俺」



しかも朝っぱらからとは何と厚かましい。レイは不機嫌を露わに残りのハムエッグをフォークで垂直に突き刺した。まだだいぶデカイそれを無理矢理一口で押し込む。咀嚼そしゃくも数回程しかしていないうちに湯気の登り立つブラックコーヒーを流し込む。熱い。


だいぶ冷たくあしらってやったのにまだ目の前に突っ立っているナツメ。憎たらしいくらい涼しくすましたこいつに通用しないなどわかっていつつも、得意のケモノ眼光でギロリと睨み上げてみる。



やがて彼女は言った。しれっと。




「デートしてくれないだろうか」



「………」






……は?





間の抜けた声が漏れたのも無理はないだろう。何たって相手は色恋の話などとは最も縁遠そうな理屈女。年の差6つ。その上休日もろくにとらないワーカーホリックだ。



ともかくはシンキングタイムと、レイは目の前の彼女をまじまじと眺める。銀縁の眼鏡が似合う知的な雰囲気。怪しげな漆黒と相反する純白とを共に纏った、美人。


いや、待て。そこで内心、かぶりを振った。そういう問題ではないだろう、と。そんなとき見えた。さらりと揺れた黒の前髪、首を傾げる知的美人の姿が。



「お前何を期待している?私ではないぞ」



「えっ」



今度は声ばかりでなくパンの欠片までぽろりとこぼれた。それからじわじわ混み上げてきた。熱い。



私も忙しいのでな…などと勝手に呟きながら身を翻そうとする彼女へ



「わーってるよッ!!」



誰が期待なんか…



がむしゃらに叫んだときだった。




白衣の後ろからちら、と覗いた小さな影に、ん、となった。影かと思ったそれはよく見りゃ艶やかな黒髪と耳。ゆらり揺れる半透明の尻尾。



ナツメの背中にしがみつくいじらしい仕草。こちらへ傾ぐ白い顔に映える青と黄。静寂と情熱。




……っ!




手、口、息まで止まってしまったような中、ただ一ヶ所喉だけがごく、と鳴った。じわっ、とまた上がってきた。



……熱い。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



晴れた日は近くの河川敷で光の雫を浴びながら、雨の日は珈琲コーヒーと本をお供に密やかな水音に耳を傾ける。


似合わない、なんていつか言われた。まだまともに口をきいてくれたあの頃のサシャは特に大爆笑だった。だけど構うものか。誰が何と言おうと、笑われようと、これこそが俺の望む休日の過ごし方。愛して止まない静寂だ。



カーテンを開けた今日の早朝。荒々しくはなくとも不穏に蠢くグレーの空を見上げて寒そうだと思った。いつの間にやら4月中旬。もうすぐ…



ごつごつ骨ばった自分の手の甲を見下ろした。思った。




ーーもうすぐやってくる。あの季節が。



もう知っていた。目前まで迫った、5月…あれは恐ろしい。初夏、だなんてまるで開放的な季節の幕開けのような名称を従えておきながら、時に容赦なく吹き荒れると。



『コイノボリ』も『カシワの葉』も千切れそうに揺さぶられて、幹となるものに必死にしがみついていた。…あんな姿も見せるのだ、と。




ーー樹里…!ーー




俺自身さえ狂わせる程。




こんな日は大人しくしておくのが一番だ。実行すべきはプランB。珈琲と書物を束の間の恋人とする、あっちでいこうという計画だった。そんなことを思い出しつつ、レイは心なしか湿ったため息を落とす。ちょこちょこ後をついてくる小さな気配を時折横目で見ながら。



早くも計画倒れだが…と。





「別に難しいことじゃない、簡単だよ」


先程の食堂でナツメが言った。



「最近元気がないんだ、こいつ。だから何処か気分転換になりそうな場所を見繕って連れて行ってやってくれ。チョイスはお前に任せる。それで帰って来る頃にはこいつがまた生き生きとなっているようにしてほしい。明日からの仕事の効率も上がれはなおいいだろう」



「…おい」



地響きのような低い声が己から沸き出た。唖然としていた。



これの何処が簡単だ。



動じない、いやむしろ難題ということに気付いてすらいないのか。ドライなナツメの表情と期待に輝くジュリの瞳を前に、もはや反論する気にもなれず口をつぐんだ。不覚だ。




とりあえずは着替えた。久しぶりに袖を通す外用の私服。かと言って特別洒落たモンでもない。洒落たモンとかまず持っていない。無地のインナーの上に少し長めのカーディガン、細くも太くもないストレートのパンツ。至って普通、シンプルイズベストと、それらしいことでも言っておこうか。



ジュリとは研究所の前で待ち合わせた。ツタが細く登る壁に向かい合って、昔からある高い木を背にした。漂ってくる生ぬるい風を受けた。懐かしく思った。



こうしていると…思い出してしまう。



柔らかく、でもこの場が霞むくらい鮮明に蘇ってくる。ツタに包まれた壁。校舎。


時折、船人ふなびとが行き交う川の上でアーチ状にかかった小さな木製の橋。



現代と言うにはあまりに古風で国と歴史の特色が濃かったあの町の景色は、“国”なるものが存在しないこっちの世界の者からしたら落ち着きなく見回してしまう程、珍しいものだった。いや、正確には知っているんだ。国…あの世界にはまだそんな括りがあるということ。



ただ、俺が、あんな場所には生まれ落ちたことがないというだけだ。




ーー案内しますよーー



ーー怜…さんーー




ひらり、振り返った残像にレイは息を飲む。今すぐにでも触れたいと、求める指先が疼く。そしてまた覚える、実感。




寂しいくらいに何処か冷めた現代には似つかわしくない、あんな存在があるということも…



初めて知ったんだ。





「レイーーっ!!」




やがて耳に届いた声でやっと意識が現実ここに戻った。レイは口を開いた。遅いぞ。そう言ってやるつもりだった。



それなのに。




現れた姿は、彼女は、あまりにも眩しくて。ああ、それはもう、目が眩むくらいだった。認めよう。



白い肌、だけどそれとはまた違う鮮やかさを放つ純白。活発な動きに合わせて揺れるワンピースの裾。無機質な繊維の塊でも身に付ける者がこれならば…たまらなく登り詰める何かを隆起した喉が飲み下す。



「いいじゃねぇか…」



ーー似合うよ。



あのときも言えなかった。そしてまた、言えなかった。最後までは。


あれは確か“ハカマ”と言ったか。何だか歩きにくそうな見慣れない形だった。少なくともこの世界こっちでは見たことがない。だけど確かに共通していることがある。今と。



形状こそ違えど。服は服。衣食住の頭。かつて前足だったものはやがて手となり地を踏みしめることはなくなった。すらりと伸び、高くを見上げる形となった。全ての命なるものの進化の最先端。こうして生まれた者が今や当たり前にしていること。だけど…何故。




「早く行こうよ!」



レイ!




ーー行きましょう?ーー



怜…さん。




見上げる二つの姿が、重なる。何度飲み下してもまた性懲りもなく逆流してくる。レイはせめてもの抵抗とばかりに口を閉ざした。固く。



広がる、甘い味。それでいて締め上げる、感覚を麻痺させる麻酔のような…それは更に濃くなっていくようだった。疑問もまた、濃く。



何故……



こんなに眩しいんだ、と。






それからジュリと二人で草原を歩いた。う…ん、レイは一人唸りながら前を行く。


このまま先へ行くと研究所の表門。細い道のりを辿ったならいずれ町に出る。正直弱っていた。


気分転換になる何処か。半ば強引に押し切られ、引き受けたはいいものの、いくつ候補を上げてみたところでどれもこれもしっくりこない。そもそもこいつは何だったら喜ぶというのか…ちら、とまた下へ、視線を送る。


軽く跳ねるような足取りでついてくる子どもみたいに無邪気な仕草。猫の耳と跳ね上がった毛束の数本が眼下でぴょこぴょこしている。やがてこちらを見上げた、光をいっぱいに含んだ目。



こうしているだけでも幸せそうだが…



思い浮かんだ胸の内の独り言に我ながら呆れてしまった。幸せ…?何がだ。何処まで自惚れる気だ。馬鹿なのか、俺は、なんて。



ーーまぁいい。町に出りゃあ何かあるだろう、と思い始めていた。門はすぐ目の前だった。




……ジュリ?




はた、と足を止めた。彼女の気配が…気付いたレイはすぐさま振り返る。いつだって獣扱いされる鋭い双眼が見開かれた。ドク、と中心が突き上がった。不穏に。



いない。



アイツが、いない。




「ジュリ……!」



思わず張ったその声は。



「おい、何処だジュリ!」



自分でもわかった。あのときの響きに似ていると。




元来た道を引き返して散々走った。バタバタと風に薙がれるカーディガンの裾が鬱陶うっとうしかった。元喫煙者とはいえ、日々のトレーニングで肺活量ならある程度鍛えられていたはずなのに、無意味だった。すぐに苦しくなった。




それから



やっと見つけた。




「ジュリ」



後ろ姿に声をかけた。だけど振り返らない。気付いていない。


まるで何かに取り憑かれたように彼女が見上げていた、その先は……




「乗りたいのか?」



車庫の前。ゆっくり、やっと振り返った。そこへまた問う。



「行きたいのか?空」



朝日が登るみたいに晴れていくその過程が遠くてもわかった。レイは頷いた。一歩、また一歩と彼女へ歩みながら。



ーーいいよ。



答えていた。多分少し、笑った。





重く垂れ込めた雲が埋める空の道。行き先なんてまだ決まっていない、わからない。よりによってこんな選択肢を選ぶなど、数時間前の俺が果たして予想できたものだろうか。



そもそも休日のフライトなんて御免だと思っていた。普段していないことをして過ごしたい……長年務めた職務なんてそんなものだ。だって人間だ。飽きもする。



だけど今は。今だけは、違う。




レイ。



ねぇ、レイ、この間ね……




狭い操縦席の後ろから届く、じゃれつくような声色を聞きながら思った。



望んだ休日じゃなくたって、気が休まらなくたって、この方がマシだ、と。




――見失うくらいなら――



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