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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第3章/狼の葛藤(Ray)
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6.男は狼……俺もな



結局サシャとはろくに口もきかないまま、互いの仕事を淡々と進めた。必要最低限の業務的なことなら話してくれるが近付く度にピリッと何ヶ所も針で刺されるような感覚を覚えた。これは十分に“やりづらい”言える。


これから先、アイツの怒りと思われるものが落ち着くまでこれがずっと続く訳か……想像するだけでかったるく力ないため息がこぼれた。食欲もあまり沸かず、またマドカに心配されてしまった。



煙草、吸いてぇ……



そうだ。今更のように思い出した。そもそも禁煙中の身にこれはあまりに酷ではないか。


ストレスは身体に悪いって言う。変に何もかも我慢して自律神経だとか胃腸だとかやられたのではたまったものじゃない。



もう、解禁してしまうか?



また一つ、誘惑に駆られた。





レイさーん!




報告書を提出した帰り、夜。廊下の奥から呼ばれた。もう覚えた。今日だけで何度となく耳にしたものだからだ。


「おぅ、マギー。飯は食ったか?」


何を思ってこんなことを言ったのだろう。だけどそのときは特に気にもしなかった。ごく自然にそう言って笑っていた。



「はい、さっき…」



……っ。




すぐ近くまで寄ってきて言いかけたマギーの声がふっと消えた。まるで錆びたような動きで振り向いた彼女の顔はすぐに強張った。


「マギー?」


呼びかけた後にレイも同じ方を見た。その方向は女子トイレだった。じっとりとした朝と夜の目でこちらを見ているその名が口から出ようとしていた。



ぎゅっ、と裾を掴まれる感覚に視線を落とした。顔を伏せ、震えているマギー。頬のガーゼは取れて、今は目立たない絆創膏。だけど……



思い出した。レイは足早に歩き出した。



「ジュリ」



ドアから身体半分を覗かせて彼女の方へ。



「何してるんだ、用足し終わったんならさっさと出てこい」


「………」




「お前なぁ……」



更に鋭くちっちゃくなったマギーを睨む目。さすがに苛立った。レイは更に言った。


「仲直りしたんじゃなかったのか。お互いに謝ったんだろ?いい加減に……」



わっ!思わず声を上げてしまった。風をきって飛び出したジュリがあっという間に廊下の奥へ走り去った。んだよ。頭を掻き毟りながら呟いた、そのとき。



「やっぱりレイさんが好きなんだ……ジュリ」



ぽつりと呟いた。マギーの声に胸の奥が、締まった。



例えそうだとしても……



「マギー」


レイは踵を返した。胸を両手で抑えて縮こまっている彼女へ歩み寄って言った。


「そういうんじゃねぇよ、アイツのは」


茶色の頭を軽く撫でてやった。思いのほか、頼りなく柔らかかった。再びはっきりと告げた。



「約束は守るから」



そう、逞しかろうが毘沙門天のそっくりさんだろうが、こいつも女。それもまだ17歳。成人のこっちからしたら十分にガキだ。


部下の働きやすい環境を作る…それも上司の大事な役目だと昔教わった。ちゃんと覚えている。だから約束したんだ。その上でこうして戻ってきてもらったんだ。



アイツは俺が監督する。責任を持って。



ガランとした遠い突き当たりの壁を眺めた。実感が濃くなった。



ーー責任は、俺にある。間違いなく。






ーーその日の深夜、何時かもわからない頃、夢を見た。今朝のものが更に濃く、鮮明になったものだった。




異変に気付いて引き返した。



息も絶え絶えに、立ち上がることさえ叶わず、大木たいぼくもとで疼くまったままの彼女を支えた。何度も何度も背中をさすった。そのうちやっと息が整っていった。



樹里。



とりあえず飲め、と自分のバッグから取り出した。確かペットボトルとかいう容器だ。何度か買って、もう手慣れていた。蓋を開けて彼女に差し出した。だけど。



酸欠の為なのか、震える手はそれを掴むことができなかった。ただうつむき加減の顔からぽとぽとと光る雫がこぼれているだけで。


それは、その雫は、よく見ればかなりの量だった。土気色の地面がみるみる濡れて、濃く染まっていく。何だか無性に怖くなった。このまま干からびてしまうんじゃないか、なんて、さすがにありもしないだろうことを思った。



樹里……!



容器を強く握った。ミシ、と鳴った。そこからは自分でも思考が追いつかないくらいあっという間の流れだった。



口、開け。



すっかりぬるくなった水をあおった、自分へ。


そして流し込んだ、彼女へ。



んん、とくぐもった声を漏らす彼女の中へそれは確かに注がれていた。手段はともかくそれで良かった。良かった、はずだった。



ぎゅっ、と胸元を握った、細い手。その感覚に脳内を構造する何処かが外れた気がした。



ーー気が付いたら。



水ばかりでなく自分まで押し込んでいた。片手を背中に、片手を頭に、しっかり押さえ込んだ。少し硬い髪の感触、甘い匂い、味。全て確かめていた。感じていた。彼女を。




馬鹿なことを。




何て馬鹿なことをしたんだ。





ーーゆっくり、意識が晴れ始めた。だけどまだ晴れちゃいない、どっぷり夜のままだった。


はっ、と我に返ったレイはとっさに布団を薙ぎ払った。……居ない。白いばかりのシーツに安堵した。心から。



静寂の部屋の中、レイは再び身を横たえる。目を閉じる気にはなれなかった。またあの夢を見てしまいそうだから。



駄目だ、こんなの……



独り言をこぼした。続きは胸の中あたりで広がった。




ーー磐座樹里。



アイツは見た目こそ大人びていたものの、中身はまるで子どもだった。何も知らない、けがれを知らない、無防備な程に無垢な、若い女だった。


今があんななのも、俺からしてみたら別に不思議じゃない。ずっと内に秘めていた本来なんだ。



だけど彼女は知ってしまった。多分あのとき、あの瞬間、他でもない俺によって、だ。




終わらない後悔。遅すぎる後悔。その中で思った。



今日最後の実感は、あまりに重かった。



言葉にするならやはり、そう……




――俺の責任だ――



挿絵(By みてみん)



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