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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第3章/狼の葛藤(Ray)
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4.そうだコイツ、猫だった



ーーで、



低く切り出されたのはまたあの奥まった会議室だった。パイプ椅子の上で腕組みをし反り返ったナツメと机を挟んでうつむくレイ。いたたまれない。これはもはや取り調べとしか思えない。



「何故こうなった?」



彼女はあくまでも涼しさを崩さずに問う。こうなった…その響きにじわじわ羞恥が込み上げてくる。同時にやるせなさも。



「…こっちが教えてほしい」



答えなんて。もう、その一言に尽きる。酔った勢いとか、若気の至りとか、そんなありがちな言葉にすら当てはめられない、ひたすら訳のわからない時間だった。訳もわからずただ暑いばかりだった。



うん…シャープな顎に手を添えて下向きに。小さく唸り何か考えている様子のナツメが目だけちら、とこちらに向けた。彼女は言った。



「考えられるとしたら、アレか…」


「アレって何だ」



「そういう時期ってことだよ」



うん、とナツメは勝手に頷いて続けた。



「つまり発情期だ」



「発情…」



すっかり乾いた唇からレイも同じ響きをこぼす。ついさっきまでの状況を思い返し、なるほど、それなら…と納得を覚え始める。



……っ!



だけどすぐに息を飲んだ。レイは思わず、ガタ、と立ち上がった。


「待て、それじゃあアイツは…」


焦燥に身を乗り出した。



「誰だろうと見境なくあんなことをするってのか!?」



ナツメの視線が完全に動きを止めたことにも気付かず。



冗談じゃない…レイはこぼした。ため息も一緒に漏れた。バリバリと乱雑に頭を掻きながら。


「エドにだってやりかねないということか?あんなの健全な男ならひとたまりもねぇ…」


「レイ、落ち着け」


「だって夜に、全裸で、寝室って…俺だって危なかったんだぞ!」


「落ち着けって」



「これが落ち着いてられるか!!」



治まらない焦燥はいよいよ苛立ちに。余裕がなかった。だからきっと、あんなことを言ってしまったんだと思う。



「勝手に出歩かないようにしてくれよ!もう、ベッドにでも縛り付けて…」




レイ!!




高く大きく上がった声に遮られた。レイの動きも荒々しい息遣いも止まった。


鋭い目つきで見上げているナツメ…たった今のは確かに彼女が放ったものらしい。珍しいことだ。



お前…



彼女は切り出した。重く。



「アイツの“本来”を知った上で、そんなことを言うのか?」



彼女は問う。深く。



「本当にそんなことを望むのか?お前は」



うっ、と喉が詰まった。淀んだ空気を吸うことも淀んだ己の中身を吐くことも叶わなくなった。





ーー樹里…




苦しそうに縛り付けられた、それでも微動だにしない彼女に細く呼びかけた。


機械音ばかりが占める薬品臭い場所。


あの光景がありありと浮かんで。





わかってるよ…しばらくした頃口にできた。レイはやっと椅子に落ち着いた。


「ここに居る今くらいは自由にって、思うよ。そんなのわかってる」


時間だって限られているはず…とっくの前からわかり切っていた事実があまりにも苦く、拳を強く握ってしまう。



なぁ、レイ…



鈍く麻痺しそうな耳へ、やがてナツメの声が届いた。彼女は言った。何を思ったのか。



「お前、駆け落ちしたいとか…思うか?」


「は?」



レイは訝しげに眉を寄せる。数々浮かんだ疑問の中でまず一つを拾って投げつける。



「しねーし。ってか、仕事はどうすんだよ」



はっきり言ってやったのに、まだ探るような上目遣いを続けているナツメ。一体何を考えている。


どれくらい後だろうか。不穏に続く時間を彼女の静かな笑みが終わらせた。口を開いた。



「…それを聞いて安心した」



「俺、信用ねーな!!」



本当に。



山のように抱えた任務をほっぽり出して?全てみんなに押し付けて?自分は女と逃避行?一体何をどうしたらそうなる。あり得ない。



あり得ない。



口にしたかと思ったその繰り返しは、実際には声にもなっていなかった。何故だ。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



ーーその夜。



息つく暇もない怒涛の一日の締めくくりに長めの風呂に入った。自室に小さな風呂場もあるが、ちょうど人の少ない時間帯だと踏んで公衆浴場の方で済ませた。広いところで凝り固まった全身を伸ばしたい気分だったのだ。


身体を拭いて、服を着て、髪を乾かして、ちょうど男湯から出るところだった、そのとき。



廊下の向こうから歩いてくる高いのと低いの。すぐに上昇した熱に洗ったばかりの身体が秒速で湿った。低い方を見て、だ。


その後すでにこちらに気付いている様子の高い方を見た。一瞥したかと思うとふい、とそらす。まるでこちらを空気とか景色の一部とかと思っているかのようなその仕草に、今度はぞくりと熱が下降する。何と忙しい生理現象か。


いたたまれず、このまま立ち去ろうとしていた。たけど耳にしてしまった。



……!



素早く息を飲んだ音。サシャに続いてもう一人、俺に気付いた気配を。



「レイ…」



レイですが。背後からの弱々しい響きに対し、内心でふざけてみることで締め上げられる痛みをやり過ごす。しかしすぐに全身が強張った。



トテトテと早く近付いてくる足音…それは途中で途切れた。



「ジュリ」



低く響いた大人の女の声によって。



「大丈夫よ。行きましょう、お風呂」


「あっ…」



引っ張られたのだろうか。か細い鳴き声は冷たげな声と共に去った。サシャも、ジュリも、振り返るともう居なかった。女風呂に行ったのだとわかった。



それでも脳内で続いてた。自分を呼ぶ声。




ーーレイ…!あの…っーー




それは数日前、リュウノツルギがしおれてしまったときのものに似ているように思えた。感じ取ったのは、怯え。



きっともう聞いたのだろう。あるいは冷静になったときに思い出したのだろう。昨夜自分が何をしてしまったのか。



広い研究所の片隅で起きたこの事件を知っているのはナツメとサシャとヤナギ。そして当事者であるジュリと俺。この五人だけだそうだ。一人はともかくとして、あとは皆、口の固い面子メンツ。それが唯一の救いなのだが。



ひたひたと廊下を進むその途中、辺りの色が変わったことを気が付いた、レイはふと足を止めた。



細く射し込む光を追うようにして見上げた。小窓から覗いている青い月を魅入った。



十六夜の次は、何だったか…



そんな柄でもないことを考えてみながら。




声を聞いただけでも容易に思い浮かんだ、うなだれ、怯えているジュリの姿。



「気にするな」…落ち込んでいる者に適切とされるような言葉だが、どうもそれを言ってやる気にはなれなかった。むしろ気にしてほしいくらいだと思った。



レイは呟いた。



「目ぇ離せねぇだろ、これじゃあ…」



よりによって一番危険な男の部屋に転がり込んでくるなんて、お前。



俺は、俺はな。




ーーケモノだぞーー



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