3.危なっかしいのはどっちだ?
ーー気付くことが出来たのは、カーテンの隙間から射し込む十六夜の青白い月明かり。そして何処か甘ったるいような匂いの為だった。
柔らかな布団の上、うっすら瞼を開くとそこにいた。すぐ隣に、いた。
パジャマの肩のあたりを掴む小さな手。真っ直ぐこちらを見ている潤んだ青と黄の瞳はまるで静寂と情熱を共に従えたかのよう。
艶やかな黒髪とそこから突き出した同色の耳は、短い毛束の先端に光の粒を纏い宇宙を彷彿とさせた。すっかり魅入ってしまい、おのずと手を伸ばした。
もう少しで、触れそうだった。その前に口にした。
ジュリ……
何て眩しい白い肌。頬といい、首といい、肩、それに胸…
……
「……っ!?」
言うまでもなく、だいぶ遅かった。実感が迫ったのは。レイはがばっ!と身体を起こした。そのまま一気に身を引いた。
お……おまっ!
ぱくぱくと空回る口からスカスカと声にもならないような、声で。
「ななな何してんだよ!こんなところで…っ」
いや、むしろ
「そんな格好で……っ!!」
何かの間違いだと思いたかったが、現実はありありと目の前にある。こんなときに限ってやけに眩しい月明かりが隅々まではっきり照らしてくれやがっている。
布団を肩にひっかけたまま半身を起こしている、ジュリ。布の隙間から肌が覗いている。もはやこの布団だけが唯一の布。これが外れてしまえば…
ちら、と脳裏をかすめたそれはあろうことかすぐに具現化した。横座りの彼女の足元まで、はら、と落ちた唯一の布。これで完成だ。一糸纏わぬ姿というやつが。
「レイ…」
「うわあああ!!」
細く名を呼ばれるなり、レイは叫びと共に大きく後ずさった。見てはいけない、いけない、と内心で繰り返しているはずなのに、熱っぽく見上げる視線が絡み付いてきて思うように動けない。
黒猫の妖精の血を引く彼女。動く都度に覗く無防備な鎖骨を目にする度にその更に下はどうなっているのだろう、なんて考えていた。やはりそこは猫らしく、毛皮で覆われていたりするのだろうか、なんて予測もしていた。しかし答えなら今、はっきりとした。
人型ケット・シーは思いのほか人間だった。緩やかながらも確かに存在しているくびれに丸み。全体的に肌色。そこに慎ましげな二つの……
何かすっげぇ柔らかそうな。
砂糖菓子みてぇに甘そうで。
クソ可愛い。
って、
俺は何を考えているッッ!!!
そこでやっと顔を伏せた。そして更に気付いた。
「……っ!?」
あられもない姿は彼女ばかりではなかった。自身の足首で丸まっているパジャマの下、そして苦しそうなトランクスに呆然とした。よく見りゃ上も、半分程まで前ボタンが開いている。こんな状況、普通に推測するなら、そう…
『一夜の過ち』
これだ。
だけど誰か連れ込んだ記憶どころか、酒を飲んだ事実さえないはずだ。
どうなっている、どうなっている!?ばくばく暴れる胸の奥で繰り返す半裸のレイの元へついに彼女がにじり寄る。全裸のジュリが。
「助けて…暑いの、レイ」
「だっ…だだ、だからって脱ぐな!!」
そして何故ここにいる!?
必死の問いかけにも彼女は答えず更にこちらへ寄ってくる。ついにはぺた、と汗ばんだ手を胸元へ当てた。切なく物欲しそうな目に捉えられたレイの心臓は更に壊れそうな勢いで加速する。
「レイ…欲しいよ…」
「やめろ触るな離れろ」
「何で?」
何で、だと?レイは唖然とする。声にならない早口が走り出す。
そんな格好で、そんな目をして、こんな汗ばんだ胸に頬まですり寄せながら、何を抜かすかコイツ。
「…どうにかなる、これじゃあ」
「え?」
絞り出した声に首を傾げるジュリ。艶かしく微笑みながら、彼女は言う。
「悪いことなんか、しないよ?いいことするんだよ、レイ」
……っ
だから……っ……
もう限界だった。疼く両手をシーツに強く押し付けた。握った。振り切るように固く目をつぶった、レイはついに叫んだ。
「俺がお前をどうにかしちまうっつってんだよ!!言わせんなッ!!」
最後の方の声は枯れた。押し付けられる柔らかさを感じたままのレイの身体は熱く、震え出す。下へ押し付けたはずの両腕が、
いつの間にか持ち上がって。
もう無理だ。
無理だ無理だ無理だ!!
暴れる心臓も、疼く両手も、上昇を続けるトランクスの下も…
ーーわかってるよーー
彼女の声がした。薄く開いた目で見下ろした。
ドクン、と突き上がった。儚げな笑みに……
いつかみたいな、笑みに。
「レイは優しいもん。私を悪いようになんてしないよ。優しくして……くれるよ」
「頼む、やめてくれ……」
持ち上がり始めていた両腕はついに彼女の両脇まで。
「離れてくれ、ジュリ……!!」
この事態に気付いてから、多分一番の大音量が喉を割って上がった。そのとき、届いた。
ーーレイ?何騒いでんの?
ドアの方向からした、声。もうすがる思いだった。
「サシャ!」
助けてくれ!!
って、言い切る前だった。
ガチャ、と開く音。入るわよ、という声は同時だった。無意味だ。
廊下からの人工的な光が眩しかった。向こう側に立っている二人とこっち側の露わな二人、全部が照らされた。
「レイ、何して……」
一歩踏み出し言いかけたサシャの声も、足も、止まった。彼女のグリーンの目が見開かれた。
ジュリ……?
呼ばれてもなお振り返らないジュリはこちらにしがみ付いたまま。もちろん裸で。
俺も、だが。
「嘘……」
「ちょうど良かった。サシャ、コイツを……!」
言いかけた、レイの声も止まった。目を見開いた。
ポロポロこぼれていく大量の雫。それは涙だった。
サシャの。
「!?」
声を詰まらせたサシャは素早く身を翻してドアの向こうへ消えた。おい!レイは叫んだ。プラチナブロンドの残像を追いかけるみたいに。
「待て、行くな!助けろ!!」
それでもパタパタ遠ざかっていく早い足音。ついに残ったのは三人。肌と肌でくっついたジュリとレイ。それから
「ヤナギ……」
無表情で突っ立っている彼女に目を止めた。何が何だか訳がわからないがもはや頼みの綱はコイツしかいないと思った。なのに。
「何だ、何の騒ぎだ、一体」
もう一人現れた。眼鏡ごしのクールな視線がこちらへロックオンされた。
「おや」
さすがに少しばかり目を大きくしたナツメをヤナギが見上げた。ずっと黙っていた彼女がわずかに、本当に気持ちばかり頬を染めながら、口を開いた。
「レイとジュリ」
……しちゃった。
「シてねーよッッ!!!」
効果などまるで期待できない叫びが響いた。
もう周りがどう動いているのかも、これからどうなるのかも
やらかしちまったレッテルを貼られた自分がどうなってしまうのかも、こんな甘く痺れ切った脳じゃ考えが追いつかない。
甘く……それでいて苦しく。
はだけたパジャマも直せずにいるレイはふと見下ろした。虚ろな視界に無駄に大きく骨ばった己の手が映った。
本当はわかってる。どうしたかったのか、なんて、本当は、わかっているからこそ。
――虚しい――