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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
第2章/猫の住処(Juri)
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8.狼なんて怖くない



ザワザワ…



またあの音が聞こえた。温かな感覚もわかった。きっと今の季節じゃない、もう少し、先。



またあの気配を感じた。あの声がした。



ーー何故、魚が空を泳いでいるんだ?ーー



姿、形。眩しい黄色の光のせいでよく見えないはずなのに、わかる気がした。驚き、目を見張っているって。私も驚いた。少し笑って答えた。



ーー端午の節句、ですよ。知らないんですか?ーー



ーータンゴ…?ーー



返ってきたその響きは、私が示したものとは何処か違うものに聞こえた。まさかとは思ったけれど、首を傾げて、覗き込んで、一応確認をしておいた。



ーーあの…ダンスのことじゃないですよ?ーー



柏原さん。



ためらいがちに口にした、最後が少しばかりどもってしまった。何か察してくれたのか、その人は言った。ぎこちなく笑ったのがわかった。



ーーお前、よく噛むよな。呼びにくいんだろ?“カシワバラ”ーー


ーーだったら…ーー



告げられた。その響きはすごく簡潔で、口にしやすくて。



舌足らずな私でも噛まずに済んで、ましてや、忘れられるなんてことも、なくて…









ーー何か夢を見た気がする。だけど目を開いたその瞬間から、遠く、薄れていく。




目を覚ました。そこは自室、ではなかった。簡素なベッドとも言えるかわからない板の上でジュリは辺りを見回す。すんすん、と臭いを嗅ぐ。苦い…それでピンときた。ナツメの研究室だと。



何だかよくわからないけど、記憶も曖昧だけど、とりあえずは彼女を探そうと身体を起こした。そのときだった。



「いい加減泣き止め、マーガレット。これくらいの傷なら残りはしない」



届いてきた声は今まさに探そうとしていた人のもの。そこへすでに重なっていたしゃくり上げる音が、まだ続いている。やがて鼻声が弱々しく語り出す。



「もう嫌です、あの二人。関わるとろくなことがない…研究班に戻りたいです…」


「ジュリはともかく、レイにはよく言っておくよ。アイツは十分大人だ。すぐに改めるはずさ」



「…無駄ですよ」



ナツメの優しげな返しに、マーガレットの声は言った。低く。でも、一気に。



「ジュリと関わっている限り、そんなの無駄です。付き合ってないって言うけれど、ジュリもレイさんもお互い好きなんでしょう?こうやって周りを振り回すくらい…」



物陰の、ジュリの動きは止まった。吐き出したはずの息が逆流してくるみたいだった。



鼻声のマーガレットはなおも言った。こちらの気配になどまるで気付かず。



「もう好きにしてって感じです。そんなに好きなら…」



駆け落ちでも何でもすればいいのに。




カケオチ…



乾いた唇から漏らした。それは思いのほかしっかりと、声になった。



「ジュリ?起きてるのか?」


「……っ!」



ナツメの声が近付いてくる。息を飲む音も聞こえた。多分、マーガレットの。



シャッ、とカーテンが開かれた。裸足で立ちすくんだままのジュリは上目で見上げた。ナツメ、その後に、奥にいる頬にガーゼをくっつけたマーガレットと目が合った。



あ…あの……




消えそうな声を漏らす、彼女は完全に怯えているよう。ジュリは口を開いた。ぎゅっ、と下で拳を握って。




「…ごめんなさい、マーガレット」



「わ…私、こそ…」




返ってきたのは本心じゃないような気がした。だけどもういいって思った。



何より早くここから出たいって、思った。








しばらくナツメからお説教をされて、それなりに反省した。さすがに引っ掻くのはやり過ぎだ…確かに、って思えた。


マーガレットはもう許してくれないかも知れない。嫌われたかも…いや、間違いなく嫌われただろう。元々好いていない相手とは言え、やっぱり多少は胸が痛む。だけどそれ以上に突っかかる。



ーーあの人に脅された…ーー



彼をそんな風に思われたことの方が、よほど辛くて。




可哀想なレイ。そうやっていつも悪者にされてきたの?


私は好きだよ。レイも私が好きって、本当なの?それなら私、いくらでも…



いくらでも、味方になるよ?




自室に続く廊下を一人歩くジュリは、未だ会えない彼に思いを馳せる。吊り気味の青と黄がまた潤み始める。そのとき、すん、と動いた。鼻先が。



鮮やかな双眼が見開かれた。遠く先にいる、あの後ろ姿は…




「レイーーっ!!」




ジュリは駆け出した。一目散に。驚いたように立ちすくむ彼へ、あっという間に追いついた。見上げる顔に笑みが満ちた。しかしそれも束の間。



すぐにふぎゃっ!と叫んでのけぞった。顔をしかめた。求めていた匂いを何か別のものが遮っている。その不満を口にした。



「わかった。やめるよ、煙草」



彼はそう言って、鼻をこすって、何故だか足早に去っていった。せっかくやっと、会えたのに。



ジュリはしばらく見ていた。遠のく後ろ姿が曲がり角に消えるまで、ずっと。



熱を覚えて作業着の前を開いた。露わになるくっきりとした鎖骨となだらかな膨らみ。風を取り込もうと胸元の生地をパタパタさせながら



「暑いよ、レイ」



最近、ずっと…




一人で呟いた。




この感覚は何だろう、よくわからない。だけど確かだと思えることがある。例えマーガレットが喚いても、ううん、誰が何と言っても。



みんながみんな、口を揃えて、アイツは悪党だ!なんて言ったとしても、私は知っている。私だけは知っている。その確かな感覚はやがてジュリに笑みをもたらした。また呟いた。




「優しいよ、レイは。私、知ってる」



狼と呼ばれてたって、おっきくたって、悪者扱いされたって、私は……




ーー怖くないーー



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