6.帰りが遅いね
私の体内時計は正確だ。
窓のない部屋。ベッドの上のジュリは一人、むくりと身体を起こした。もう慣れたもんだとはいえ、時々こうして実感してしまう。朝日も射し込みようのない白いばかり空間はいつかの霧の夜のよう。
だけど夜ではない。ちゃんとわかる。目覚めた意識が朝だって告げている。ぐぅ、となる音が下から…何だ、腹時計か、とちょっぴり可笑しい、はずなのに。
寒い…
そう呟いて震える細い肩を抱いた。本当は誤魔化しだった。これは寒さのせいなんかじゃない。時折訪れる“あれ”だってわかっていながら、今日もまたかぶりを振ることで払いのけてしまった。
そんなときだった。思い出したのは。
……っ!
息を詰まらせた。一瞬のうちに脳裏に浮かんだあの困惑の表情。ジュリは素早くベッドから降り立つなり辺りを見回す。何処もかしこも、白い。わかり切っているのに焦燥がつのった。
乾いた喉の奥からまた、突き出そうになっていた。あの名が。ちょうどそのとき。
ガチャ、と音が鳴った。白に同化してまるで存在感のなかったドアが開いた。
「起きたか、ジュリ」
「ナツメ…」
見慣れた涼しげな微笑を浮かべながら、おはよう、と言う彼女を目にした後、不思議と鎮まってきた不快な鼓動。いつもの笑みが少しだけ戻った、ジュリもまたおはようと返す。
よしよし…ため息みたいに呟くナツメがボサボサの頭を撫でてくれた。すっかり戻ってきた胸の内の平穏が記憶を霞めさせていくよう。何事もなかったかのように感じ始めたジュリは見下ろす彼女に問う。
「レイは?」
ごく自然に、だった。ナツメの表情の変化を気にも止めず、食堂にいるかなぁ…なんて言っていた。やがてぽつり、届いた。
「…覚えてないか」
「?」
首を傾げると、いや、と呟くナツメが緩く首を横に振った。彼女は言った。
「今朝は早くから単独任務に向かったよ。新人研修もあるのにアイツも忙しいな」
単独任務…その響きをジュリは繰り返す。ギシ、と軋むような感覚を奥に覚えた。痛みに耐えるみたいに思わず眉を寄せた、ジュリはまた問いかけた。
「じゃあしばらく会えないの?任務に研修になんて、大忙しじゃん。いつ会えるんだろ…」
夜まで?
最後の問いかけにも答えは返らなかった。ただ困ったような表情、それでも綺麗なナツメの顔がそこにあるだけで。
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単独任務。
それは何度か耳にしたことがあるものだった。だけどそれが何を意味するのか、実態はまだ、知らない。
いや、彼が教えてくれないのだ。聞いてみたことならあるのに答えてはくれなかった。眉間の皺を三本にして、不機嫌そうに黙っていた。怖かった。
だからそれ以上は聞けなかった。
ーージュリ。
呼ぶ声に気付いた。植物の前にかがんだまま、いつの間にか手を止めていたことに気が付いた。ジュリはやっと振り返った。
「観測器、充電、ない」
いつものように。口数も表情も抑揚のないヤナギがこちらに観測器を差し出している。ジュリはうん、と言って受け取ると充電器にそれをさした。ありがとう、と後ろから聞こえた。
今日は何だか落ち着かない気分だった。いつもにも増して。
いくつかの疑問があった。淡々と仕事をこなし時折思い出しを繰り返すうちに、だんだんとはっきりしてきた、あのとき覚えた感覚。
ーー起きたか…ーー
“ジュリ”
あのとき、ナツメはそう言った。何の変哲もない言葉。何の変哲もない呼びかけ。なのに、思い返すと何かおかしい。何か、違う。
毎日呼ばれているそれが何か違う響きに聞こえた。ジュリ…紛れもなく自分の名前。それなのに何故違うなんて感じるのだろう。
ーーううん。
頭を振ってみるけれど、今日はなかなか振り払えない。早く、早く、何とかしないと…そんな思いで更に激しく振った。くらっ、と目眩がしてきた。
「ジュリ…顔色、悪い」
気が付くとヤナギがすぐ傍から覗き込んでいた。無表情ながらも執拗に顔を傾け伺おうとする彼女にしゃがんだままのジュリは大丈夫、と返した。
大丈夫…結局、信じてはもらえなかったようだ。部屋に戻って、休んで、と促されてしまった。朝のものに似た胸のつかえを感じながらも、ジュリはとぼとぼと温室を後にした。
ーー夕暮れが始まった。一等星が現れた。
一通りの仕事を終えたヤナギは無表情のまま天を仰いだ。変わらぬ口調のまま一人、呟いた。
「遅いよ、レイ」
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ヤナギに言われた通り、自室に戻った。特にすることも思い浮かばず、着替えも後回しにしてベッドに寝そべった。ジュリはそこで一つ、夢を見た。
あれは…
何だか耳慣れたような男の人の声が呟いた。ザワザワ騒ぐ、これは木々の音だろうか。春めいた光の中、姿もろくに見えない彼が続けた。
ーーオーク…?ーー
問いかけ、だったのだろうか。そして誰に向けたものだったのだろうか。
しかし答えはやや遅れながらも返った。
ーー違いますよ。あれは…ーー
戸惑い気味な声。それを放ったのは…
ーー“カシワ”…ですよーー
ーー柏原さんーー
それを放ったのは、確かに、ジュリだったのだ。
はっ、と目を覚ました。朝と同じようなだるい動きで起き上がった。短い黒髪をわしわしと掻き乱した、ジュリは呟いた。
「…変な夢」
トン、とベッドから降り立った。
変な夢。
変な名前。
胸の内で独り言をこぼしながら、誰もいない廊下を駆け抜けた。緩やかな回想は続いていた。
木々の音。春っぽい匂い。眩しくってよく見えなかったけど、きっと高いところを見上げてた。私も隣の誰かも。
何かの植物のことだったのかな?それともそこに止まっていた鳥か何かかな?花?いや、虫かなぁ。
だけど…
「聞いたことないなぁ…」
“カシワ”
そんな名前の植物も鳥も、もちろん花も虫も、ジュリには覚えがなかった。
動植物を扱うこの研究所に来てからもうすぐ半年。植物管理班の所属になって先輩のヤナギからいっぱい、いっぱい、花や木の名前を教わった。ある程度は覚えたつもりだ。だからこそ言える。そんな名前の植物はこの世界にはないはずだと。
この世界にはないはずだ、と。
何故だかたまらなく身体を冷やしたくなって、がらんと静かな玄関を抜けた。今や慣れた住処となっている建物を後にして、広々とした草原に躍り出た。
満点の星空。しかも満月だった。
遠いところの木々の群れが、青く照らされいた。
月夜の下の半透明の身体。だけど染み渡る光と風の感覚が心地よかった。くるくる躍るみたいに回っているうちに疲れてきて、ぱた、と仰向けに倒れてみた。また一つ呟いた。
「“ユズリハ”なら知ってるんだけどなぁ…」
そこにある訳でもないのに、何故その名が浮かんだのだろう。そして何故、今夜の月はこうも目に染みるのだろう。
満月、だからかなぁ。
じわり、目尻まで潤いを移動させた。仰向けのジュリの脳裏の景色が移り変わった。
木々の姿は消えて、ただ一人だけが浮かんだ。
「遅いなぁ…」
まだ帰ってこないのかな。
今の時刻なんて知らない。だけど結局会えなかった、彼に。今夜はこのままな気がする…実感が大きく迫るなりポロポロと生温かいものが流れ出た。ぐすっ、と鼻をすすった。
自ずと手を伸ばしていた。
遠い月へ。
彼へ。
「私、頑張るよ。こんな身体だけど、半透明だけど、もっともっと役に立てるように…」
だから、早く
ーーここへ来てーー