4.置いてっちゃ……嫌
ーーあの後、昼近くまで彼の帰りを待っていた。研究室前の長椅子にちょこんと座ってうつむき加減で手を前で組んで祈った。
隣には話を聞きつけたヤナギが同じようにちょこんと座っていた。大丈夫、大丈夫、と言いながら私の背中を撫でてくれた。
何だろう、何か知っている気がする。何処かで見た気がする、こういうの。そんな事をふと思った。
おーい。
遠くから届いてきた太い声。ジュリとヤナギは揃って顔を上げる。フライト用のツナギ姿のエドがちょうど廊下の奥から歩いてくるところだった。
「よぉ、レイ見なかったか?」
「…レイ、この中」
すぐに側へやってきたエドの問いにヤナギは相変わらずの簡潔さで答える。彼女が小さく細い子どものような指で目の前の扉を指し示すと、はぁ?という訝しげな声が上がった。声とおんなじように不機嫌そうな顔をしたエドが言う。
「何油売ってんだよ、アイツ。もうフライトの時間…」
バサバサと乱暴に頭を掻き毟る、エドの動きと声が止まった。何か気付いた様子の彼が、っていうか…と次を切り出した。
「お前らは揃って何してんの?そんな深刻な顔して…」
深刻…ガサツそうなこの人にもわかるんだ。ジュリはふっと陰った顔を伏せる。うん…と横でヤナギが呟く。
「リュウノツルギ、枯れそう」
やっぱり手短かに答えてくれた。しばらくの間の後、笑い声がした。太くて、でかい。
「何だ、それでかよ!てっきり誰か瀕死の危機なのかと思ったぜ」
手術待ちの家族みたいな顔してんだもん、お前ら!
ハハハ…と続くエドの笑い声はなかなか止まない。頭から大きく突き出た猫の耳をぺた、と寝かせた。それでも彼のものがやたら大音量の為か、それとも私の聴力がやたら敏感な為か、伏せた意味がないくらい割って入ってくる。ジュリはついに膝の上で拳を握った。それが震え始めていた。
ーーエド。
また隣で声がした。いつもより低いヤナギの声色。
「リュウノツルギ、死にそう」
「え…」
ぴた、と止んだ笑い声。恐る恐る顔を上げると目に飛び込んだ、凍りついたエドの顔。
「植物、命、ある。茶化すなら、怒る、私」
冷たい。恐ろしく冷たいヤナギの声が言い放った。真っ直ぐ上の彼を見上げるぶれない横顔を前にジュリも固まった。ちら、と横目でエドを見た。ガーン、というあの擬音は彼の為にあるのではないか、と思った。
悪りぃ……細く呟いたエドが凍った薄笑いを貼り付けたまま、すごすごと去っていった。横広のでっかい背中が半分程までしぼんだみたいに見える。ちょっと可哀想。そして思った。ヤナギはすごい、と。何か教えられたような気分だった。
ガチャ
……!
開いた音と射し込んだ蛍光灯の光にジュリはすぐに立ち上がった。後光を背負うようにして現れた姿を二色の目で捉えるなり声が突き出そうになった。
レイ……
だけど出なかった。わずかに微笑んだ彼が話しかけてくれるまでは。
「待っててくれたのか、ジュリ。それに、ヤナギも」
もう大丈夫だ。安心しろ。
そう言ってヤナギに書類を渡したレイ。今後の栽培について一通りの引き継ぎをした彼はそのまま静かに立ち去ろうとした。待って……ジュリは声と共に駆け寄った。
「レイ!あの……っ」
きゅっ、とツナギの腰を掴んだ。彼が高くで振り返った。一瞬暗い陰を落とした、険しいその顔がやがて笑った。
「心配すんな。あとはヤナギに従ってくれ、ジュリ」
ぽんぽん、と軽く頭を叩かれた。彼がゆっくり背を向けた。この手から、すり抜けた。
すり抜けてしまった。
……っ。
「ジュリ?」
異変に気付いた、ヤナギがこちらを覗き込んだ。心配そうな顔が一瞬だけ見えたけれど、私の身体は彼女の視線の更に下まで沈んだ。やがて息は切れ切れに、ついには上手く吸い込めなくなった。床に着いた両膝だけでは支え切れなくなって、ついには上体を折り、両手まで着いてしまう。ひやりと冷たい感覚、だけど元には戻らない。
ナツメ!
ヤナギが後方へ駆け出した。ジュリが……と伝える声が遠のいていく。まだ息も整わないまま、むしろ更に苦しい状態の中、私は顔を上げた。遠く続く廊下の先。彼の姿はもう、ない。
待って……
待っ……て……
吐息のようにこぼした後、それは酸欠状態とは思えない程の勢いで突き出た。オッドアイの双眼は限界まで見開かれて。
やだ……やだぁ……!
「レイーーーーッッ!!」
無我夢中で吐き出していた。その後のことはよく覚えていない。
ただひたすら怯えて、丸まって、震えてた気がする。身体は動かないのに想いは追い縋ろうと足掻いて、足掻いて……
レイ……
――怖いよ――