1.頑張れる理由はね
ーーAM6:30
装飾らしいものの一つもない部屋には必要最低限の家具が備えられているだけ。生活感らしいところと言ったら、片方裏返しなスリッパとか、黒髪が数本くっついたままの櫛とか、持ち主の雑な性格故に生まれたそれらくらいだろうか。
汚れ一つ見当たらない白い壁、つるんとした白い床を見下ろしている白い天井とそこに二個取り付けられたスプリンクラー…実に殺風景な個室。彼女は毎朝ここで目を覚ます。
まず、洗面台で顔を洗う。歯を磨く。それからクローゼットを開ける。更衣室に移動して身体に合っていないブカブカのパジャマからやはりブカブカの作業着へと着替える。パンツはベルトで何とか押さえている。これでも一番小さなサイズを見繕ってもらっている。
脱いだやつはその場の洗濯機へ…ただ、最後の方の行程は不定期だ。と、いうよりむしろ、意識すらしていない。何たって腹の虫と共に目覚める低血圧とは無縁の痩せの大食い、我慢できなきゃパジャマのまま、食堂へ向かう。
食堂には早朝から数人の栄養士が調理に勤しんでいる。彼女が決まって会話を交わすのが栄養士長のマドカ。外見的にも内面的にもふくよかな印象の彼女に、腹だけでなく心まで満たしてもらっている者は数多くいるという。まだ他に誰もいない長テーブルで朝食の提供を今か今かと待っている、彼女もまた、だ。
この食堂はなかなか親切で、セルフサービスをうたいながらも実際はテーブルまで持ってきてくれたり、オーダーに応えてくれたりする。何だかんだ世話を焼いてくれる、これもまた食堂のアイドルおばちゃん・マドカの人気の秘訣か。
今朝はオレンジジュースとサラダから出てきた。彼女は速攻顔をしかめる。ジュースを片手に、もう片方の手に握ったフォークでサラダの器の中をつんつんやっている。刺さりそうでなかなか刺さらないレタスの葉…野菜嫌いなのだ。
食べたくない、とでも言わんばかりの視線を送る彼女にマドカは食べなさい、と優しくも強い口調で言い聞かせる。更に食べ終えたら出してやるというメインを伝えてその気にさせる。ほら、一気にかき込み出した。今日のチョイスならなおさらだろう。
「やったーっ!ハムエッグ!」
手足をばたつかせて喜ぶ彼女。無邪気だ。実に子どもらしい仕草…これで16歳とはやはり何かの間違いではあるまいか?
湯気を立ち上らせるできたてのハムエッグに今まさに手をつけようとしている、そんなとき。
ジュリ!!
来た。騒がしいのがもう一人。
いかにも不機嫌な顔でづかづかとやってきたのはサシャだった。レイと同じ生物保護班の隊員である彼女は、優れた運動神経を持ちながらもすっきりとしたボディーラインを保った程々の筋肉量。いかつい体格の者が大半を占めるあの班では少々どころか大いに浮いているくらい。
「ジュリ、あんたまた脱いだ服を洗濯機に入れ忘れたわね!年頃の娘がパンツまで放置だなんて…」
信っじられない!と吐き捨てる、彼女はすっかり目を吊り上がらせている。整った顔も台無しというくらい。対して口いっぱいに頬張っている方は…
「えー、そうだっけぇ?」
呑気なもんだ。ぶつくさ言いながら向かい側に座るサシャを前にしてもそのマイペースぶりは不動。半分程になったハムエッグをまたフォークで突き刺す。咀嚼も終わらないうちから今度はトーストをかじり出す。
「サシャちゃんもカリカリしないの。ホラ、ミルク」
察したようにやってきたマドカがトン、とガラスのコップを置く。カルシウム補給を促すミルクの提供、ナイスチョイスだ。ごくり、と飲んだ、サシャはまた尖った口調で話し出す。
「聞いてよ、マドカさん。この子しょっちゅうなの。ただ洗濯機に入れるだけなのに何で忘れるのかしら。しかも今日はパンツまで!信じられる?16の女の子がパンツ放置よ?裏返しで脱ぎっ放しよ?ありえない…」
「パンツパンツって恥ずかしいなー、サシャ姉は」
「アンタのことでしょッ!!」
こんな会話もよくあること。すっかり慣れている様子のマドカは次にサシャ専用にこしらえたメインを持ってきて言う。
「とりあえず食べなさいな」
ツヤツヤしたハニートースト。見下ろしたサシャはごく、と喉を鳴らす。そしてぽつりと言う。助けを求めるような顔をマドカに向けながら。
「私、野菜ミックスジュースの方が…」
こちらは嫌い、という訳ではない。美意識が高い者故の葛藤だ。一応サラダも付いているのに手を付けるのをまだ渋っている。
「サシャちゃんはもっと食べた方がいいのよ。私らよりずっとアクティブな仕事なんだから」
「で…でも、カロリーが…」
弱々しく帰ってくる声にマドカが豪快に笑う。彼女は更に言う。
「大丈夫、大丈夫!もうちょっと身を付けた方がセクシーなくらいよ」
ピン、と猫の耳を立てた、ケット・シーの方も笑い出す。そして言う。
「そーだよ、サシャ姉。オッパイ大きくならないよ!」
サシャの表情が固まった。言うまでもない、最後の辺りで。それからみるみる紅潮していく顔、そんな過程を前に平然と立ち上がった彼女・ジュリは…
「ごちそうさまでしたー!!」
得意の俊足で駆け出した。出口へ向かって猛ダッシュ。何が起こるか、もうわかっているのだろう。
ジュ…
ジュリーーーッッ!!!
怒号が響いて空気をびぃん、と震わせた。まぁ、当然と言えよう。
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「あー、面白かった」
ジュリは一人クスクスと笑う。あんなわかりやすい反応、だからからかい甲斐があるんだよ…そんな風に思うなり、またくすぐったい可笑しさが込み上げてきて小さな撫で肩が小刻みに震え出す。
大きなスリッパをペタペタと鳴らしながら長い廊下を進んでいく。室内履きの靴なら実はあの部屋に用意されているのだが、あれはどうも蒸れるし落ち着かない。何なら裸足だっていいくらいだ。
やがて外に出た。朝露の満ちた草原を歩いて離れの場所へ向かっていく、もうすっかり慣れた足取り。
むせ返るような草花の匂いが占める、温室。それは全部で5つある。それぞれに温度、湿度が異なっている、もはや“冷室”と言うべき室温の低い部屋もある。部屋の外にはそれぞれの内部環境に適した羽織りやら、除菌された靴やらが備え付けられている。
毎日ここへ通い詰める、ジュリの所属は植物管理班という。
最初に入る部屋は室温25℃、湿度75%のれっきとした“温室”。ここは正直苦手だ。暑がりだから何分もしないうちに汗ばんでしまう。じっとり張り付く生地の感覚が鬱陶しくて、がっ、と乱暴に作業着の袖をまくった。
入り口付近に木製の横長テーブル、可動式の椅子が一つ。テーブルの上にはパソコンが一台と卓上の充電器に取り付けられた小型観測器が4つ並んでいる。
ジュリは慣れた様子で観測器を一台外して手前の植物の前にしゃがんだ。室内には至るところに機械が設置されていて、植物一つ一つのふもとにも小型モニター付きの機械が置かれている。そのモニターに表示された植物の水分量、周波数などを観測器に記録していく、正確さと根気が求められる作業。環境の異なる5つの部屋の行き来も、なかなか身体にこたえるものだ。
稀少生物研究所の一員、ジュリの一日が始まった。じんわりと沸いてくる汗が伝う頬、そこがうっすら朱にに染まっていく。息の漏れる口元は緩くほころぶけれど、眼差しはしっかりしている。
暑いから?ううん、それだけではなくて。
研究所が好き。この仕事が好き。最初こそ戸惑っていたけれど今では自信を持ってそう言えるの。
そんな風になれたのは、ね。
みんなが居るから。ふっと見下ろしてみると応えようとばかりに青々とした腕を伸ばす、この子たちが居るから。
そして……
植物たちと同じようにいつだっていっぱいに伸びて見上げるの、私も。
それくらいしないと届きそうにない、高い、高い人。遠くたって追いかけたくなっちゃうんだ。
――大好きだから――




