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半透明のケット・シー  作者: 七瀬渚
エピローグ
100/101

〜朝霧〜



挿絵(By みてみん)



ーーいつからだったのだろう。



うっすら明るみ始める色合いに気が付いたのはいつ頃だったのだろう。いつからこんなだったのだろう。




きっとこの街の大多数の者は、今こそが目覚めのトキ




ゆらりと顔を上げると首筋が痛んだ。すっかり疲れて遠近感がおかしくなったのか、虚ろな漆黒の双眼はピント調整がなかなか決まらない。



自分以外誰も居ない、遠い機械が単調に唸るオフィスはまだ薄暗い。たまたますぐ側に位置している…というか、俺の席がたまたま窓際に位置しているが故の溶け合う色合いは…



高層階からの白みがかった色合いは…



遠い街並みと確かに在る青色を透かす




ーー半透明。






何故、どうやって辿り着いたのか自分でもよくわからない。何故か脳裏に自然と浮かんだワードを不思議に思っていた、答えにも手が届かない、途中。



ーーピーーーッーー



職場ここに居る限り一日何度だって耳にする、この音を不思議に思うことはない。通常なら。



しかし俺は目を見張った。まだ霞がかった視界へ滑らかに左右へ開く扉の動きが映った。


驚いた。これはセンサー読み込み式の社員証の為せる技に他ならない。とりわけ珍しいものでもない。俺だって持っている。それでも驚いたのだ。



何故なら




ーーやっぱりここにいらっしゃったんですね?



「何…で……」




今日、この早朝、この場に居るのなんて俺だけのはずだったからだ。




「昇進したからって無理しちゃって…先輩一人休日出勤したからって仕事の効率に大差はありませんよ」


「もっと素直に心配できないのか、君は」


「心配してほしいんですか?でしたら監査役員にお伝えしますよ。当社をブラック企業にする訳にはいきませんからね」



度を超した休日出勤は禁止…




「それは勘弁してくれ」



淡々と羅列される語りが何やら不穏な方向へ向かっているのに気が付いて遮った。ただでさえくたびれているところへ、更に弱いところを突かれてしまった。俺の眉間のしわは多分、一本くらい増えたと、思う。



デスクに向かう俺の向かい、両手を腰に当てた後輩らしからぬ態度の彼女の反応はやはりと言ったところか。ふぅ、なんて気だるいため息を落とした後はふらふら何処ぞへ歩きながらぼやき出す。



「だったら無理しないで下さいよ。本当、昔から…」



こんなことを言っているのが聞こえた。俺の眉間の三本線はきっと、消えない。だって不思議なのだ。何がって、そうだな…今ので言うと最後、だろうか。




腰近くまであるクセを帯びたブルネットの髪が揺らいでいる。間近でなくてもよくわかる、なかなか綺麗な青の瞳を持つ女性…俺の後輩の不思議さ加減は今に始まったことではない。




「責任感をはき違えてはいけませんよ。本当…昔から」



…無理ばっかり。




ほら、また言った。勤務してもう7年目に入る先輩の俺にこんな生意気に、偉そうに、説教なんかしてくる訳だが。



彼女がここへ来たのは、ほんの一年程前なんだ。



思えば会ったその瞬間から不思議だった。派遣社員として彼女がやってくるのは知っていた。あくまでも情報として。



それがどういう訳か。一目見た瞬間に思った、こんな不思議な存在が居るのかと。


そんな風に思った俺が、よりによって俺の方が、更に不思議な行動を起こしたのだ。




ーーお待ちしてました……っ!!ーー




見開く円らな青の瞳を間近で捉えたその瞬間、彼女に向かって放った第一声だ。



言葉自体は何も不思議ではない。きっと初めての勤務地に赴くに当たって数々の不安を抱えている。そんな派遣社員に向ける労いの言葉としては大正解とまではいかないにしても外れてはいないはずだ。当たり障りのない、何てことのない言葉の…はずだ。



だが周囲は驚いていた。何せ常日頃から人相が怖いだの、気難しいそうだの、高過ぎる身長の効果も合間ってやたらと恐れられている。


そんな俺が盛大に椅子を鳴らして…いや、多分倒した。ともかくそうして立ち上がったのだから驚くのも無理はない。



ザワザワ、と騒めきがそこかしこから生まれ出していた。



“一目惚れしたかぁー?”



なんて冷やかしまで上がって賑わっている中、ただ一人自然だったのは




ーーお会いできて…嬉しいですーー




満面の笑みで手を差し出した、彼女だけだったのだ。





ーーそして、今。



「そういう君こそ何故ここに居る?」



神秘の化身であるかのような彼女の背に問いかける。動きはすぐに起こった。まるで待ってましたとでも言うみたいに笑顔の花を咲かせた彼女が駆け寄ってきた。驚く程の俊足で。



「見せたいものがあるんです!先輩、きっと居るだろうって思って」


「俺に?」



「はい!見てください、コレ」




半ば無理矢理、俺の範囲に割って入ってきた彼女は俺のデスクを勝手に使って勝手にファイルを広げて見せた。このマイペースっぷり…野良猫の方がよほど行儀がいいぞ?



眉間のしわが相変わらず消えない、そんな俺もやがて見入った。不覚にも。



「これは…手紙か?」



書類に写っていたのは二枚の写真。一つは広げられた古そうな紙。そしてもう一つは…



「いや、これタイムカプセルじゃねぇか?」



年季を感じさせるくすんだ色の瓶の元は透明だったと思われる。便箋らしき紙は何でもこの中に納まって地中に埋められていたとのこと。



「保存状態が良かったみたいで、まだ字がはっきりしてるんです。読めますか?」


「いや、残念ながら」



「何だぁ〜…これ東方の土地で見つかったものだから先輩ならいけると思ったのにな」



期待外れといった風に肩を落とす彼女の姿に何だか胸が痛んでしまう。別に悪くないのに。俺は生まれてこの方この地域の人間だ。


何も悪びれることなんてないのに。知ったこっちゃない…のに。




こんな感情に浸ってしまった為か、俺は忘れていた。こんなに心配していたのが馬鹿らしくなる程



ぐっ、と躊躇ちゅうちょもなく迫って見上げてくる、コイツは




「漆黒の髪と、目…」




何故かほんのり頰を染めてやがる。コイツは本当に気まぐれなんだ、と。




「綺麗な色。東方の血筋…ですよね?」




ーートキさん。





「あっ、すみません…私…っ」




何を今更。



小ぶりな口を押さえてあたふたしている彼女を見下ろして思わず、笑った。俺は言った。



「…かまわねぇよ」



長い脚のコンパスで片隅まで歩いて



「こっからはもうプライベートだ」




ーーアオイ。




退勤の打刻を済ませた。




合図を示す俺の言葉に一体何を期待したのか、手を前に組んだ姿勢でもじもじと身をよじり出したアオイは、時折ちらちらと伺ってくる。しかも上目遣いとか何なんだ。クソ可愛いんだよ。




「お前は本当、発掘に熱心だよな。また歴史研究家に立ち会ったのか?」


「ううん、発見したのは生物学者のご夫婦だったわ」



「は?何で?」



「さぁ…?」




また一つ増えた謎の気配に苦笑してしまう。コイツは本当に何なのだろう。何故こうも不思議なものばかり連れてきて…?



だけど



「やっぱりこの社に入って良かった」



こう言ってるんだから



「トキさんが引き抜いてくれた、から」



…まぁ、いいか。





うん、その、何だ。今の言葉の通り、派遣社員だった彼女を正社員に誘ったのは…俺だ。



理由は何度も聞かれたが正直聞かないでくれと思っていた。とりあえず示しておいた理由、あんなのは形ばかりだ。俺だってまだ…わからないんだ。



思えばこんなことばかりだ。



アオイと関わっているとやたらと骨が折れる思いをした。一筋縄ではいかない。関わるのも、そして




ーー行くな!!ーー




引き止めるのも、凄く骨が折れる。



いい加減勘弁してくれ。お前は何故すぐに遠くへ行こうとする?この手をすり抜けようとする?


顔を合わせれば何度となくぶつかった。意見の食い違いなんて日常茶飯事。ヒートアップして泣かしちまったときは、さすがに大ブーイングだったな。あれは株を落とした。



だけどいつだって気が付くと、もう周囲の目も自身の株とやらもどうでも良くなっちまってるんだ。そうまでしてでもありのままでぶつかりたい、それでいてこの場に留めたい。よくわかんねぇ。わかんねぇけど、お前は…そういう女なんだ。何故か。




「結局読めねぇんだな、コレ」



空調に虚しく揺らされているデスク上の書類に再び視線を落とすと、いつになく寂しく思った。だかそこへ。



「こういうこともあろうかとぉ〜?」



「?」




もったいぶって溜めていた彼女が、じゃーん!なんていかにもな声を上げてページをめくった。クリアファイルから取り出すとまた元のページへ戻して横へ並べる。それから得意顔で言ってのける。



「ちゃーんと翻訳してもらったのよ!」



「…最初から出せよ」




ごもっとも。照れ笑いのような顔をして呟くアオイ。彼女はまた言う。



「トキさんと読みたくて、とっておいたの」



何を恥ずかしがっている。こんなこと言われたこっちの方が恥ずかしいぞ。



何だか鼻の下がたまらなくむず痒かった。耐えきれず人差し指で擦っている俺の傍、あの上目遣いが行ったり来たりする。


読みたくて仕方がないんだ。察した俺は頷きで示してやった。いいぞ、と。





それから彼女の声色で読み上げられた。




国と歴史特有のニュアンスは知らなくても何となくわかる。伝わる。




意味なんてまるでわからない。だけど。




これは…



まるで。






「トキ……さん…?」



呼ばれて我に返った。だけどもう遅かった。




すでに頰まで伝っていた、温かい感触に目を見開いてしまう。自分で出したのが…信じられない。




「なぁ、アオイ」



これって……




拭うのも忘れたまま見下ろすと俺はついに動きを失った。おのずと素早く息を飲んだのを最後に。




「ラブレターって言われてるの…これ。地中に埋まってて、今まで誰も掘り起こした形跡がないんだけど…」




はらはら伝い落ちていく、流れに魅入って。




「でも今…わかった気がした」




その言葉に自然と同意してしまう。





「届いたんだわ…きっと。どうやったのかは…わからないけど…」




きっと……っ…!




ついには顔を覆って小刻みに震え出した、アオイはずっと望んでいたんだと知った。



俺とこれを読むことを。



このトキを共有することを。





「トキさん…」



「アオイ…」




何故だか自然と呼び合っている。本当は前から、きっと出逢ったときから期待していた関係なんてまだ始まっちゃいない。



正直言うと…怖かったんだ。



一筋縄ではいかない気配を早々に感じていた。お前も、だったのか?




なのにいつだって引き寄せられた。そこにはまるでとてつもない引力が存在しているようにさえ思えた。



戻れない怖さより



繋がりたい願いが勝ってしまう。




ーー光に手を伸ばすように。





いつの間にか近付いていた。これまでにない程の至近距離なはずなのに、ひとたび額を合わせてしまうと何故だろう。こっちの方が自然な気さえして。







何故だろう。




ーートキさんーー



挿絵(By みてみん)



お前の呼ぶ俺の名が





ーーアオイーー



挿絵(By みてみん)



俺の呼ぶお前の名が





初めてって訳じゃないのに、もう何度も耳にしているはずなのに、何だか違った響きで聞こえるんだ。何故だろう。





ーーこれ以上触れるのはまだ早い。




そんな風に言い聞かせてても、もう先が見えるみたいだ。



恐れはきっとまたやってくる。だけど、きっと逃れられない。向き合わずに逃げるなんて出来っこないって、わかるんだ。



恐れては触れ、また恐れてはまた触れ。



この先も繰り返すのだろうか。満たされた気持ちのまま、縮めることは出来るのだろうか。



そして縮めに縮めて、恐れを振り切って、一つになったそのときは




アオイ。




狂おしい程大切なお前との間に、何が生まれるのだろうか。





「お腹…空いちゃった」



「ああ」




訳もわからず散々泣いた、俺らは揃って照れ笑いをして見つめ合う。



「朝飯、行くか?それとも何か作ってやってもいいけど…」



「え?」



「俺んちすぐそこだし」




「…意外と大胆なのね、トキさん」




本当に何を言ってるんだ、俺は。今更ながら恥ずかしくなって別の切り出しを考え出した。苦し紛れだった。




「そう言えばよ、最近このビルの屋上にガキが二人勝手に忍び込んでたから、ちょっくら説教したんだけど…」



「あら、じゃあ泣かせちゃったんじゃない?」



可哀想に…と呟く彼女に憮然とした俺は尖らせた唇から、失礼な、と言ってやる。



「ませたガキでさ、夕焼けが見たいんだと。だから…」



「だから?」




「もしまた来たら俺に声かけろ。ガキ二人じゃ危ねぇけど、俺が同伴なら…別にいいだろう」




「…やっぱり優しいわね、昔から」




何だかよくわからない会話によくわからない返答だ。だけど不思議なんだよな。くすぐったいくらい楽しいとか思っちまってる。柄にもなく。



例えるなら、そう。



ありのままの姿の獣同士のじゃれ合いみたいに



くすぐったいくらい、あったけぇんだ。





お前と居るだけで。






もはや気まぐれ猫にしか思えない、アオイはもう別の方を向いている。



窓。そこにはいつの間にか水滴が降りている。降り注ぐ光と共に降りてくる。


大抵の人間ならマジかよ、なんて言って顔をしかめそうなところだ。なのに今まさに弾むように小さく上下して背筋を伸ばして見上げている、眩しいその背中で察した。コイツはこれが好きなんだ、と。



そう、眩しい。



一面に広がっていく、満ちていく、天気雨の秋空を眺める窓辺のお前はあまりにも眩しくて。



透けていきそうで。





「アオイ」



………っ!




「アオイ…」




「トキさん…苦しい」




たまらず後ろから包み込むと、腕の中でゆっくり振り向いた。




ーー大丈夫ーー




ーーここに居るわーー




見上げる二つの青色がそう言っているみたいに見えた。




降り注ぐ恵の雫…あれが好きならば連れて行ってやりたい。半周ちょっと回ったあの季節でお前を永遠の白に包んでやりたい…なんて、思っている俺は一体どうしてしまったのか。どんだけふやければ気が済むんだか。



変わりゆくというよりむしろ戻っていくような意味不明な感覚に苦笑していた。だけどやがてやめた。



だって見ていたいのは“今”なんだ。






「…何食いたい?」




苦味のない笑みと穏やかな息遣いを取り戻していった。決して早くはない、今を生きようとする確かな鼓動は彼女と重なっていく。




「何でもいいの?」


「ああ、料理は割と得意なんだぜ」



「さすが!それじゃあ、ね」




ニッと歯を見せて笑う、無邪気な彼女はオーダーする。




「ハムエッグがいいな」




しし、とつられて笑う。普通じゃねぇか、なんて俺は言った。言ったけど。




不思議だ。あったかいんだ。





何かそれ。





ーー懐かしいーー



挿絵(By みてみん)



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